2024年10月15日火曜日

大杉栄とその時代年表(284) 1900(明治33)年4月1日~11日 鉄幹「明星」創刊 長塚節と伊藤左千夫が初めて会う 毛利柴庵ら「牟婁新報」創刊 「義和団党天津北京ニ侵入セリ」(第1報)

 

『明星』第10号の表紙、一條成美 画

大杉栄とその時代年表(283) 1900(明治33)年4月下旬 義和団運動、3地方(①淶水:盧保線沿線、②天津:京津線沿線、③北京)から同時多発的に急速発展 義和団運動の概観 〈各集団の概観〉 〈農民が義和団に参加した理由〉 〈義和団発展過程の4段階〉 より続く

1900(明治33)年

4月

御沙汰書をもって枢密院諮詢事項を拡張。「教育制度の基礎、内閣官制、官吏の服務・懲戒・任用・試験・分限などに関する勅令は枢密院の審査を経ることとする」など。

4月

米国製ロコモビル蒸気自動車1台輸入され在日米人トンプソン買いとる(最初の自動車輸入)。

4月

アリス・ベーコン、再来日。

4月

子規(34)。第1回万葉集輪講会

4月

島村抱月、後藤宙外、伊原青々園「風雲集」(「春陽堂」)

4月

永井荷風(23)、『闇の夜』を懸賞当選作として「新小説」に掲載。

4月

愛媛県の別子銅山新居浜製錬所、政府の指令で約70メートルの大煙突を作る。

4月

反ドレフュス派勢力に対抗し、共和制擁護をめざす共和派連合結成。

4月

カナダのビクトリア港、日本人労働者3,000人上陸。

4月1日

与謝野鉄幹、「明星」(第1次)創刊

藤村「旅情」、泣菫・鏡花・虚子・子規・有明・柳浪・信綱ら。

16ページ、定価6銭。1号~5号は新聞型。発行人兼編集人林滝野(鉄幹の妻)、発行所は東京市麹町区上六番町四五の東京新詩社、発売所は神田区錦町一丁目一〇番地の明治書院。

2号の寄稿者は鉄幹、高浜虚子、川上眉山、落合直文、佐佐木信網、正岡子規、薄田泣董、久保猪之吉、服部躬、金子薫園、高須梅渓、嘉納治五郎など、挿絵は一条成美など。

石川啄木(14)、この年、上級生及川古志郎(後、海軍大臣)を知り、与謝野鉄幹の「東西南北」「天地玄黄」の手ほどきを受け、その紹介で上級生金田一京助を知り、「明星」閲読に便宜を得、与謝野晶子らに圧倒的な影響を受ける。また、野村長一(後、胡堂)などの影響により文学に志す。

4月1日

子規庵で歌会。長塚節と伊藤左千夫が初めて会う

4月2日 この日も長塚節は子規庵を訪問

■長塚節、伊藤左千夫、正岡子規


十五歳年長の左千夫と、節は自然に知己となった。子規門下の他の歌人たちとは、ややへだてのある感じの左千夫だが、節には気を許した。へだては、青年歌人たちは世を生きる苦労を知らないと見た左千夫の思いから発していた。その点、節は苦労している。なのに人柄は屈していない。

節にとっても左千夫は気の許せる相手であった。在京して、連日子規庵を訪ねるのに気がさす日には本所へ行った。左千夫の家である。話は長びく。夜は更ける。左千夫の家に泊る。明ければ、ふたり連れ立って根岸へ向かう。そんなふうであった。

伊藤左千夫は、子規が没した直後、回想を「日本」に寄せている。

「先生(子規)には一人の愛子があった。当年二十四歳の男で歌詠(うたよみ)である」

子規はついに妻を持たず、満三十五で死んだ。むろん実の子ではないが、長塚節と子規の「其交りの親密さというものが、どうしても親子としか思われない」ものだった、と左千夫は書いた。


(子規は)明敏精察でそして沈着冷静という態度で、常に人に接するから逢う人は必ず畏敬の念を起すと同時に容易に近づく事の出来ぬという趣きがあった、かくいう吾輩も、此人は師として交るべき人で友として交ることは容易に出来ぬ人であるなどと思うたことは幾度かあった。(伊藤左千夫「正岡子規君」、明治三十五年十月三日付「日本」)


なのに節とは違っていた。子規と節の親昵(しんじつ)のしかたは独特で、情にあふれていた。


先生と長塚との間柄は親子としては余りに理想的で、師弟としては余りに情的である、故に予は之を理想的愛子と名附けた。(同前)」(関川夏央、前掲書)

4月1日

市町村立小学校教育費国庫補助法施行。

4月2日

M・ボーチグレビンクを隊長とする英の南十字星探検隊、南極の真の磁極を確定。その後ニュージーランドのブラフ沖に到着。探検隊の到達地点は史上最南。

4月4日

日本鉄道会社の鉄鋼同盟、待遇改善を要求。退職新規定を獲得。

4月4日

毛利柴庵ら「牟婁新報」創刊。和歌山。

毛利柴庵(さいあん);

明治5年(1872)、現在の新宮市に生まれる。幼い頃に父と死別、新宮の遍照院に預けられる。13歳で得度し、高野山中学林(現:高野山高校)で学んだ後に東京へ遊学、在京中は東京日々新聞の社員を務めた。

明治24年(1891)高野山大学林(現:高野山大学)で学ぶため帰郷。首席で卒業し、田辺の高山寺住職を拝命する。

明治20年代、伝統仏教教団の一部には、仏教が国から公認を受け、政府の保護を求める動きがあった。これに対して、政府の保護干渉を受けず、信仰の自由と自立を目標として仏教界の革新を目指す新仏教運動が展開されていた。柴庵もこの運動に参加、仏教界の革新を志した。

明治33年(1900)田辺市で「牟婁新報」が創刊され主筆となる。創刊にあたり「吾輩は唯だ此地方の進運を扶助し、あらゆる方面に於て無二の親友たらんとする」と抱負を述べている。柴庵は新仏教運動を通じて社会主義者たちとの交流が深かったため、県内外から大石誠之助や幸徳秋水、堺利彦らが寄稿、管野すが、荒畑寒村らを記者に迎えるなど、牟婁新報は一地方紙にとどまらない存在感を見せた。柴庵は言論の自由を何よりも尊重、あらゆる立場の主張を掲載したため、自由闊達な議論が闘わされていた。

明治42年(1909)田辺の大浜台場公園売却に対し反対の論陣を展開。柴庵のこの意見に共鳴した南方熊楠が、牟婁新報紙上に自然保護の観点から神社合祀反対意見を寄稿。柴庵も「強制威圧的な廃合は信教の自由を侵すものであり、勝景の地である神社の森を伐採することは自然保護・環境保護に反する」と合祀反対を敢然と表明し、ともに協力して神社合祀反対、自然保護の運動を推進した。

4月5日

在北京公使館付海軍武官森義太郎中佐、軍令部総長伊藤祐亨大将宛に「義和団党天津北京ニ侵入セリ」と打電(第1報)。特命全権大使(公使)西徳次郎は、義和団の乱は西欧=キリスト教に対する排外運動であり、日本はこれに深入りしないほうが良いという認識。青木周蔵外相は、列国共同の動きにならい機会を捕らえて積極的に参加するという姿勢。

4月5日

子規、右肘を枕に託し、半身を起こして写真撮形をする。撮影者は赤石定蔵。

4月5日

漱石、村上霽月宛手紙に「近頃は發句癈業駄句もなにも皆無に候」と書き、二句送る。

4月6日

4ヶ国公使、2ヶ月以内に義和拳鎮圧なければ陸海軍を山東・河北省に派遣、清に代わって平定と通告。

4月7日

マッキンレー米大統領、タフトをフィリピン行政委員会委員長に任命。

4月8日

山陽鉄道、初めて1等寝台車の使用を開始。

4月9日

日本鉄道会社の鉄鋼同盟、待遇改善を要求。退職新規定を獲得。

4月10日

朝鮮、漢城に初めて電灯。

4月10日

この日の子規の歌。ガラス障子越しに見た花の姿。


ガラス戸の外面(とのも)さびしくふる雨に隣の桜ぬれはえて見ゆ

4月11日

朝鮮、馬山浦、日本領事館開館。

4月11日

中村汀女、誕生。

4月11日

小村寿太郎駐米公使、渡米移民制限の要を具申。


つづく

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