2024年10月22日火曜日

大杉栄とその時代年表(291) 1900(明治33)年6月20日~31日 「小生たとひ五年十年生きのびたりとも霊魂ハ最早半死のさまなれば、全滅も遠からずと推量被致候」(子規から漱石へ) 西太后は義和団を督励するが、「東南保護約款」を結ぶ東部・南部の総督を非難せず ノーベル財団発足      

 

張之洞

大杉栄とその時代年表(290) 1900(明治33)年6月17日~20日 連合陸戦隊が大沽砲台占領 西太后へ4ヶ状 光緒帝による宣戦布告 ドイツ公使ケッテラー殺害 「北京籠城」(「北京の55日」6月20日~8月14日) より続く

1900(明治33)年

6月20日

この日付け子規の漱石宛て手紙。


「拝啓

夏橙(だいだい)壱函只今山川氏より受取ありがたく御礼申上條。

御留学の事新聞にて拝見。いづれ近日御上京の事と心得に待居候。

先日中ハ時候の勢(せい)か、からだ尋常ならず独りもかき居候処、昨日熱退き其代り昼夜疲労の体にてうつらうつらと為すこともなく臥り居候

『ホトゝキス』の方はニケ月余全く関係せず、気の毒に存候へとも此頃は昔日の勇気なく、迚(とて)もあれもこれもなど申事は出来ず、歌よむ位が大勉強の処に御座候。小生たとひ五年十年生きのびたりとも霊魂ハ最早半死のさまなれば、全滅も遠からずと推量被致(いたされ)候


年を経て君し帰らば山陰(やまかげ)のわかおくつきに草むしをらん

風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいだいはくさりてありけり(ミナニアラズ)

余譲面晤(よはめんごにゆずる)。不悉(ふしつ)。

六月二十日                         規

漱石兄

試験卜上京卜御多忙ノコトト存候。」

6月20日

「外國留學生夏目金之助/英國留學中一ケ年金千八百圓ノ割ヲ以テ學資ヲ給ス」という辞令を文部省から受領。


「森鴎外が明治十七年にベルリンに、陸軍省から留学した時は、年額千円である。長谷川泉は、「明治元年以来の米価趨勢」(『読売新聞』昭和四十二年一月十二日)により、玄米一石の標準価格の変動を掲げている。明治十七年、最低四・〇九円、最高五・〇 約八円。明治三十三年、最低九・〇五円、最高十一・〇五円。これをあてはめれば、漱石、千八百円支給は、鴎外、二千二百円支給に当る。物価は、ロンドンよりベルリンの方が安かったであろう。「當時の留學費は一年に千八百圓、月割りにして百五十圓、それも英國なればこそそれだけなので、獨逸あたりはずつと安かつたかと覚えて居ります。」(夏目鏡子述 松岡譲筆録『漱石の思ひ出』)二年間で、三千六百円である。鳥居素川は、明治三十四年から明治三十六年にかけて、フランス、イギリスを経由して、ドイツに赴き、ベルリン大学、ハルレー大学に留学し、各地で新聞社を見学し、通信を送り、二十三ゕ月十五日の閏に、八千三百五十五マルク六十五ペニヒ(約四千七十七円八十二銭)を使う。(新妻莞『新聞人鳥居素川』)」(荒正人、前掲書)

6月21日

連合国は清国(西太后)の宣戦布告を黙殺。

ドイツ皇帝は出征軍に対し、「汝等敵二遇フトキハ、毫モ宥恕ヲ加へズ、又捕虜卜為スベカラズ」と訓示。連合国は事変の名のもとに、交戦法規を無視し、住民の無差別虐殺、捕虜の処刑、文化財の掠奪と焼毀を「文明」の名のもとに実行

国際法は「文明」国間(主にキリスト教国間)の法であり、原理的に非「文明」国・非キリスト教国に適用する必要はない。戦争行為は、国際法に規制されず、開戦理由も異教国の征服によるキリスト教世界の拡大、「文明」国主権の伸張などの理由で十分とみなされ、交戦手段を抑制する措置もとられない。

6月21日

フィリピン、マッカーサー軍政長官、投降者の無条件特赦を宣言。

6月22日

夜、伊藤博文との関係を修復した伊藤巳代治、山県有朋と会談。山県、伊藤新党結成を事実上容認。未明、伊東は帰宅。妻の没。山県の反対ないのを確認して、天皇も伊藤新党を容認。

6月23日

英臨時代理公使、北京の列国公使館及兵員が危険にさらされているため、日本軍を北京の列国公使館救援のため派遣することを要請。いわゆる第1次出兵慫慂。

6月23日

盛宣懐、李鴻章・劉士良・張之洞らに呼びかけ、上海道に各国領事と華中・華南の平和維持について交渉させ、東南互保(自保)を議す。

6月23日

清、京師・天津一帯の義和団を荘親王と剛毅に統率させ、義和団を公認の国民最前線部隊とする。この日、荘親王、自邸前で教民数百人を殺戮

6月23日

ロシア陸相クロパトキン、満州黒龍江軍に動員下命。

6月24日

西太后上諭。義和団を公認し督励。「汝等団民よ、さらに心を合わせ、力を合わせ、敵の侮辱を退け、忠義を尽くせ。」

6月24日

ロシア帝ニコライ2世、フィンランドにロシア語公用語強要。

6月25日

天津から北京へ向かっていた英提督シーモア率いる8ヶ国連合軍、天津に退く。死者62・負傷228。第2次出兵失敗

6月25日

大杉栄(15)。妹アヤメが生まれる。後年、大杉・野枝と共に虐殺される橘宗一(数え7歳)の母

6月25日

松井駐英代理公使、ソールスベリーに対し、日本の出兵に関して列国に異議がないことの保証を希望。

6月26日

宮内省、帝室博物館官制を公布。東京・京都・奈良の帝国博物館が帝室博物館となる(のちの国立博物館)。

6月26日

両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞ら江南に資産を持つ洋務派官僚、暴動の江南への波及を恐れ、各国と「東南保護約款」を結ぶ。東部・南部の地方長官は北京からの檄文を無視。西太后はこれを非難せず

張之洞

河北省南皮県出身。1863年、進士合格。以後10余年間中央・地方の学官を歴任。モラル腐敗・軟弱外交を糾弾した「清流」の一員。1880年、ロシアとイリ条約を締結した崇厚を弾劾。その後、西太后に認められて順調に昇進、山西巡撫(1882~1884)・両広総督(1884年8月~1889、1894~1896、1902~1904)・湖広総督(1889~1894、1896~1902、1904~1907)を歴任。清仏戦争では主戦論を主張、敗戦後、中国富強化に目をむけ、両広総督在任中から財政整理・吏治粛清・産業振興・軍備近代化に務める。また、進歩的政策を行う一方、康有為らの変法論に対抗して1898年「勧学篇」で伝統的儒教思想護持を主張。義和団事件では上海外交団と妥協、局外中立を保つ。

劉坤一

湖南省新寧県出身。1855年、湖南に侵入した太平軍を団練を率いて駆遂、翌年、劉長佑・江忠源に従い、楚軍を率い江西・湖南・広西に転戦、軍功により1861年広東按察使となる。1862年~広西布政使、1865年~江西巡撫、1875年~両江総督・両広総督、1879年~両江総督。1881年~一時職を去り帰郷、1890年に両江総督に再任。以降、両江を離れず、湖広総督張之洞と共に清末政界で活躍。1894年日清戦争では、江寧将軍・欽差大臣に任命され山海関に一時赴く。義和団事件では、張之洞と共に排外運動を弾圧、列強と東南互保協定を結び清廷の宣戦命令を無視。事件後は張之洞と共同で政治・軍事・教育の改革、西洋文明採用を提唱。

6月26日

英領トロとブガンダとがトロ協定。

6月27日

仏・スペイン協定締結、リオデジャネイロとスペイン領ギニアの境界画定。

6月29日

福島少将指揮第1陣約900名、天津に到着。

6月29日

ラグナール・ソールマン、ノーベル遺言をもとに「ノーベル財団規約」制定。正式にノーベル財団発足

6月29日

フランス、作家サン=テグジュペリ、誕生。

6月31日

オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント(皇帝フランツ・ヨーゼフ甥)、周囲の反対を押切ってボヘミア伯娘ゾフィー・ホクテと結婚。

28日、皇太子、「貴賎結婚であるから妃と子たちに貴族の権利を与えない」文書署名。サラエボ事件(14/6/28)で暗殺。

1889年、フランツ・ヨーゼフ皇太子ルドルフ自殺後、皇位継承者は決められず。1896年フランツ・ヨーゼフ弟カール・ルートヴィヒがヨルダン川の汚水を飲んで没後、甥フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に指名。1895年頃、結核になるが療養の後回復。


つづく

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