2024年10月26日土曜日

大杉栄とその時代年表(295) 1900(明治33)年8月11日~20日 8ヶ国連合軍北京占領 西太后、西安へ脱出 連合軍による略奪(文物の破損・流失) 閻書勤率いる義和団壊滅 ロシア軍、黒竜江省に進出 徳富廬花「自然と人生」 

 

紫禁城内の連合軍

大杉栄とその時代年表(294) 1900(明治33)年8月1日~10日 鉄幹子規不可併称論議 堺利彦「風俗改良案」 山川登美子・鳳晶子と鉄幹が初めて顔を合わせる 8ヶ国連合軍第3次出兵 幸徳秋水「非戦争主義」 西太后、脱出準備を命令 子規、大量喀血 より続く

1900(明治33)年

8月11日

三遊亭円朝(61)、没。

8月13日

北京城外で砲声絶えず。

8月14日

8ヶ国連合軍北京占領

午後、天安門と西長門が陥落し、8ヶ国連合軍が入城。北京には清軍約4万人強がが集められていたが、天津から進攻する連合軍との戦いで戦死あるいは戦意喪失による逃亡によって城攻防戦の際にはすでに多くの兵が失われていた。

8ヶ国連合軍による北京占領によって、「北京の55日」は終わり、以後約1年間に及ぶ占領体制が布かれることになる。

篭城軍指揮の柴五郎中佐、「無事あの任務を果たせたのも信用し合っていた多くの中国人のお蔭でした」(石光真人「ある明治人の記録」)。包囲の清軍も、攻撃を粛王府とフランス大使館に集中し、各国公使・家族が避難しているイギリス公使館は攻撃せず。

宮廷では、天安門・西長門陥落の報入るが実情不明。夜10時、第5回目の西太后の召見に応じたのは軍機大臣剛毅・総署大臣趙舒翹・軍機兼総署大臣王文韶の3人のみ(他は全て帰宅)。

のち、列強による「戦犯」追求:荘親王載勛(1902年2月21日自殺)、総署大臣趙舒翹(2月24日西安獄中自殺)、山西巡撫毓賢(2月24日蘭州で処刑)、剛毅(1900年10月21日西安に移動中病没)。

8月14日

ロシア軍、アムール川を渡って満州、黒竜江省に進出。ロシア・アムール州知事グリブスキー中将は、帰化朝鮮人をアムール川対岸に派遣しロシア軍50万がブラゴウェシチェンスクに集結とのデマを流す。このデマにより清兵が逃走した後、兵2千・砲6門を渡河させ、黒河鎮・愛琿城を攻略。虐殺・放火。後、黒竜江岸から愛琿南のチチハル公路に兵站道路を建設。10月までに南満州占領。

8月15日

夜明け、西太后(66)、光緒帝・慈禧ら王公大臣50余、軍隊含む随員1千余人が西安へ落ちのびる。食糧乏しく難行。出発前、西太后は光緒帝の寵妃の珍妃(25)を殺害させる。西太后が紫禁城に戻れなかった場合、珍妃が第2の西太后になるのを恐れる。9月10日、太原城に着。

連合軍の北京占領は約1年間続くが、西太后はそれを嫌って帰京しようとはせず、西安滞在は1902年1月にまで及ぶ。

西太后と光緒帝は不在となり、清朝側は李鴻章を全権大臣として8ヶ国連合軍と講和条約の締結に向けての話し合いが為された。この講和も難航し、清朝側は各責任者の処罰を申し出たが、列強諸国と折り合う筈もなかった。ロシアは7名の死刑を要求し、アメリカは10名の死刑を主張し、フランスとドイツは沈黙し、日本とベルギーは曖昧な態度を取った。

8月15日

8ヶ国連合軍、北京公使館地区を義和団から奪回。公使館と居留民救出。

直後から連合軍による略奪が開始され、紫禁城の秘宝などはこれがきっかけで中国外に多く流出するようになったと言われる。連合軍の暴挙によって王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、奪った宝物を換金するための泥棒市が立つほどであった。

日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、まず総理衙門と戸部(財務担当官庁)を押さえて約291万4,800両の馬蹄銀や32万石の玄米を鹵獲した。そのためか列国中戦利品が最も多かった

文物の破損・流失と古美術商〉

8ヶ国連合軍の1年にわたる北京占領は、掠奪と詐取によって、19世紀と比較して質量ともに巨大な文物が流出した。

宮城周囲にあった天壇や王府に所蔵されていた文物が被害を受けた。盗難されたりぞんざいに扱われ破損したものも多かった。『実録』(王朝の公的記録)や「聖訓」(皇帝勅書)等を収めた皇史宬も襲われ多大な被害を出した。他に、『歴聖図像』4軸や『今上起居注』45冊、方賓『皇宋会編』(宋版)、呉応箕『十七朝聖藻集』(明版)など貴重な秘蔵文書が消失した。また『古今図書集成』や『大蔵経』も破損または一部散逸した。東洋史研究者市村瓚次郎は北京に赴き調査した際に「大蔵の経典、図書集成、歴代の聖訓、其他種々の書籍の綸子緞子にて表装せられたるもの、悉く欠本となりて閣中に縦横にとり乱され、狼藉を極めたる様、目もあてられず。覚えずみるものをして愴然たらしむ」と慨嘆している。

多くの美術品が国外に流出したが、それは皮肉にも中国美術品の価値を世界に広めることになった。ジャポニスムによって切り開かれた東洋美術への関心は、19世紀末から20世紀初頭までは日本美術が対象であったが、次第に中国伝統美術にも注がれはじめ、1910年までには中国陶磁が主な対象となった。 

こうした中国美術の輸出事業に携わったのは、まず、外交官・実業家張静江がパリで設立した通運公司(1902 - )、通運公司から独立しパリで長く営業した盧芹齋のLai Yuang and Company(1908 - )、後に、日本の古美術商たちである。1912年に恭親王コレクションの買い付けを行った山中定次郎の山中商会は、北京などで仕入れてロンドン、ニューヨーク、東京で売るビジネスを行った。繭山松太郎の龍泉堂(1908に北京で創業)など他の業者は、北京で買い付けて日本へ輸入するのが主であった。日本経由で欧米へ流出した文物(書画骨董・青銅器・磁器・書籍)は多い。

日本に留まり現存するものも多い。泉屋博古館所蔵の青銅器「虎食人卣」(こしょくじんゆう)や東洋文庫が多く所蔵する『永楽大典』はその代表例である。この他、乾隆帝の秘蔵品であった王羲之「遊目帖」(唐代模本)は、義和団の乱の際に日本に流出した(広島に落ちた原爆によって焼失)。大倉喜八郎は、ロシア商人がアメリカに船で運搬する途上の美術品を、寄港中の長崎港で全て買い取り大倉集古館に収蔵した(関東大震災で焼失)。

8月15日

朝、またまた喀血。赤木亀一宛の手紙に、子規は書く。


「昨夜俳句会、昨夜々半迄原稿書ク、今朝喀血、疲労ハアレド却テ心地ヨクナリタリ」

8月15日

大塚保治帰国歓迎会を大塚宅で催す。狩野亨吉・菅虎雄・山川信次郎・小中村進午・中島某を招く。大塚楠緒の日本料理や西洋薬子に一同感嘆する。(小坂晋)

8月17日

閻書勤率いる義和団壊滅。第1陣(東昌府知府洪用舟の騎馬隊30騎と武衛右軍中路左衛35騎・歩兵100)、第2陣(冠県知県率いる軍と中路左衛の残る35騎)、夜明けとともに冠県梨園屯を総攻撃。2日後、リーダ閻書勤ら28人処刑。徹底的に殲滅して山東の義和団への見せしめとする。

8月18日

徳富廬花「自然と人生」発表。

8月20日

清朝、「己を罪する詔」を出す。義和団を「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定。

以後義和団は清朝をも敵にまわし戦闘せざるを得なくなり、「扶清滅洋」の旗印は「掃清滅洋」(清を掃〔はら〕い洋を滅すべし)と変える。

8月20日

小学校令改正。義務教育年限が4年に統一、授業料は廃止。

但し、「特別ノ事情アルトキ」は、市では1ヶ月20銭以下、町村では10銭以下の授業料を徴収できる。更に、就学免除・同猶予規定が変わり、前令(1890年)では、「貧窮」「児童ノ疾病」「其他已ムヲ得ザル事故」の場合とあったのに比し、新令では、学齢児童の「瘋癲白痴不具廃疾」の場合の就学免除、学齢児童の「病弱、発育不完全」の湯合の就学猶予、保護者の「貧窮」の場合の就学免除・猶予など、具体的な規定となる。現実には貧民の子女を教育の場から合法的に脱そうとする。


つづく

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