2024年10月28日月曜日

大杉栄とその時代年表(297) 1900(明治33)年9月1日~9日 坪内逍遥「(小学校用)国語読本」 英、ボーア戦争勝利(トランスヴァール併合)宣言 但し、以降もゲリラ戦として戦争は続く 漱石、英国留学のため横浜より離日 藤代禎輔・芳賀矢一同行     

 

第二次ボーア戦争

大杉栄とその時代年表(296) 1900(明治33)年8月23日~31日 袁世凱、山東省に義和団はいなくなったと宣言 漱石、子規と最後の面会 幸徳秋水「自由党を祭る文」 より続く

1900(明治33)年

9月

坪内逍遥(41)、前年から編纂に従事していた小学校用「国語読本」刊行。教育界に大きな反響を与える。

9月

大杉栄(15)。幼年学校2年に進級。1学年終了時の試験での成績は7,8番

9月上旬(日不詳) 

漱石、虚子(神田区独楽町25番地、現・千代田区神保町1丁目4の20の22)を訪ね、散歩に連れ出し、西洋料理店に立ち寄る。鶏を食べる時、指で鶏の骨をつまんで、しゃぶりつく、虚子が鶏はそんなふうにして食べるのですか、と聞くので、西洋では、鶏は手で食べていいことになっていると教える(高浜虚子「漱石と私」)。虚子と共に寄稿先(中根重一方)に戻り、『蝿丸』を謡う。寺田寅彦も同座する。

9月1日

この日付け「労働世界「(第65号)、「◎高野房太郎氏は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ」

9月1日

漱石、藤代禎輔(素人)・芳賀矢一と共に横浜に行く。午前10時30分の汽車で出発。ロイドに船便のことを問合せ、切符を買う。停車楼で洋食を食べる。午後3時に帰る。

9月1日

通信省、郵便規則公布。私製葉書・封緘葉書・私書函制度などを開始。施行は10月1日。

9月1日

産業組合法(3月7日公布)、施行。

9月1日

内務省、清涼飲料水営業取締規則施行(公布は6月5日)。

9月1日

英、ボーア戦争勝利(トランスヴァール併合)宣言。但し、以降もゲリラ戦として戦争は続く

〈これまでの経緯〉

ボーア戦争とは;

イギリス(保守党内閣植民相ジョセフ=チェンバレン)が、南アフリカのイギリス領ケープ植民地の北方に位置するオランダ人(ボーア人)の2国家(トランスヴァール共和国・オレンジ自由国)を侵略し、2年7ヶ月(189910月~1902年5月)に及ぶ戦争でこの2国家を併合した帝国主義戦争。

ボーア人(ブール人)

イギリス人より先に1652年に南アフリカに入植していたオランダ系の白人の子孫。ナポレオン戦争の時期、1806年にイギリスがケープ植民地を占領して以来、イギリスの支配を避けて北方に移住し、現地のアフリカ人の土地を奪ってオレンジ自由国・トランスヴァール共和国を建設。その地でダイヤモンドと金が発掘されたことを機に、イギリスは植民地支配をその地に拡大しようとした。

イギリスのブール人国家への侵略

 オレンジ自由国でダイアモンド鉱が発見されると、イギリスはケープ植民地への併合をねらい、1877年、トランスヴァール共和国の併合を強行。それに対してトランスヴァール側の激しい抵抗が起こり、1880年に両軍が衝突(第一次ボーア戦争)。ボーア人は果敢に戦い、1881年2月のマジュバの戦いではイギリス軍が大敗して講和に持ち込まれ、一定の自治を与えることで休戦した。

セシル=ローズの強攻策

1886年、トランスヴァールに金鉱が発見されると、現地のイギリス人企業家を代表するセシル=ローズは、ケープ植民地首相に就任するとともにイギリス南アフリカ会社(BBAC)を設立、1890~94年にかけてトランスヴァールの北方の広大な土地に武装した遠征隊を派遣し、現地アフリカ人を制圧して強引に領有し、ローデシアを建設した。さらにその地からトランスヴァール介入の機会をうかがい、1895年12月、トランスヴァール内のイギリス人を保護するという名目で軍隊を侵入させた。しかし、侵入部隊はボーア軍によって阻止され失敗。この強引な干渉策は内外の批判を浴び、イギリス政府もセシル=ローズを首相の地位から解任せざるを得なくなった。

ジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策

イギリスの植民地相ジョゼフ=チェンバレンは、セシル=ローズのアフリカ植民地拡大策を継承し、ボーア人を盛んに挑発した。チェンバレンによって任命されたケープ植民地首相ミルナーは、トランスヴァールとオレンジ自由国在住のイギリス人に選挙権を与えることを要求、イギリス国内に向かっては両国内のイギリス人が無権利な「奴隷状態」に置かれていると宣伝して、開戦をあおった。チェンバレンは議会で軍隊増員が認められない場合に備えて、議会の承認の必要のないインド兵を動員し、さらにオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから義勇兵を募集した。

南アフリカ戦争(第二次ボーア戦争)の開始

トランスヴァール共和国側も戦争は避けられないと判断し、同じボーア人の国であるオレンジ自由国と同盟して開戦に備えた。1899年10月に開戦したこの戦争は激しい抵抗によって1902年5月までの2年半つづいた。

戦争の経緯

1899年10月に始まった戦争は、1900年9月1日を境として二期に分けられる。

イギリス軍は「マジュバの復讐」(1881年の第1次戦争でイギリス軍が大敗した戦い)を叫び、ボーア軍は侵略阻止、独立維持を掲げて結束した。ボーア軍は機関銃や無煙銃など最新のドイツ製の武器で装備されており、イギリスにとっても近代的な装備を有する軍との最初の戦争(同時期のマフディーの反乱や義和団事変ではまだ鉄砲や槍しかない相手だった)であったため、12月のケープ北方のシュトルムベルクの戦闘では約3千のイギリス軍がわずか800人のボーア軍に大敗するなど苦戦した。イギリス軍は、総司令官にインド大反乱を鎮圧したことで知られるロバーツ陸軍元帥、参謀長にマフディーの反乱を鎮圧したばかりのキッチナー将軍を任命し、一挙に18万の大軍を派遣した。これによって態勢を立て直したイギリス軍が攻勢に転じ、翌年3月にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテンを陥落させ、さらに6月にトランスヴァール共和国の首都プレトリアに入城し、9月1日にトランスヴァール併合が宣言された。

しかし、その後もゲリラ戦の形態で戦争は続く。

コナン=ドイル、チャーチル、ガンディー

 ボーア戦争には、コナン=ドイルが軍医として参加、彼はイギリス軍の行動を正当な愛国心の発露であるとしてに弁護している。

ウィンストン=チャーチルは、25歳で、新聞記者として従軍。1899年11月、前線に向かうチャーチルを乗せた装甲列車が攻撃され、チャーチルは捕虜となる。ナタールの捕虜収容所に送られたチャーチルは、約1ヶ月後に脱出しモザンビークに逃れる。彼はその体験を記事にして、一躍有名になり、1900年の総選挙で保守党から立候補し初当選する、

南アフリカのナタールで弁護士をしていたガンディーは、1899年ボーア戦争に遭遇したときのことを自伝には次のように記している。

「宣戦の布告が行われると、わたしの個人的な同情は、ことごとくボーア人側に集まった。しかしわたしは、そのとき、このような場合自分の個人的信念に執着することは正しくない、と思ったのであった。・・・(中略)・・・イギリスの支配に対する忠誠心にかられて、わたしはイギリス側に立ってその戦争に参加した、と言っておくだけで十分だろう。わたしがイギリスの市民として諸権利を要求したとすれば、イギリス帝国の防衛に参加することもまた、当然私の義務であると思った。そのころわたしは、イギリス帝国の枠内で、またそれを通してのみ、インドは完全な解放を達成できる、という見解を持っていた。そこで、できるかぎりたくさんの同志を呼び集めた。そして非常な努力をして、野戦病院隊として働くことを彼らに承諾させた。」(蝋山芳郎訳『ガンディー自伝』)

ガンディーの野戦病院隊は後方だけでなく、戦況の激化にともなって前線にも出て負傷者の救出にあたった。その活躍はイギリス兵からも感謝され、インド人もヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、タミール人、グジャラート人のべつなく、みなインド人だという感情が深く根を下ろした。ガンディーら病院隊指揮官全員に戦功賞が与えられた。"

9月1日

米、フィリピンへの立法権行使開始。フィリピンの立法の全権、マッカーサー軍政長官からタフト委員会に移管。

9月1日

南方熊楠、ロンドンの南ケンジントンの下宿を出発、テムズ川港で日本郵船「阿波丸」に乗船、帰国の途につく。イギリスには8年滞在、その前にアメリカ6年滞在。10月15日神戸着。


「南方熊楠は、明治二十五年(1892)に、五年に余る放浪を切り上げ、 London に渡り、 Britishi Museum (大英博物館)で、東洋関係の資料の整理に当る傍ら、粘菌類の採集を行い、民俗学の研究を行う。 ""Nature"" そのほかに発表する。」(荒正人、前掲者)


9月2日

アイルランドのダブリンのフェニックス・パーク、ナショナリズムを掲げる大規模デモ。アイルランド民族同盟の綱領を決議採択。民族自治・地主制廃止を要求。アイルランドの政党に英諸政党と一線を画するよう要求。

9月3日

6六代目三遊亭円生、誕生。

9月5日

救世軍と二六新報社、東京新吉原で娼妓の自由廃業運動を行い、午後1時すぎ遊郭側と乱闘。8月に自由廃業できぬことを訴えた娼妓を連れ出し、日本堤警察署で「二六新報」記者立会いで廃業手続きを行う。

9月5日

ラービフ帝国滅亡。チャド、仏の軍事保護領となる。

9月6日

この日付け漱石の寺田寅彦宛ての葉書。


「小生出発は滊船出発の時刻変更の為め午前五時四十五分ノ滊車と相成べくと存候。是も正確ならず御見送御無用に候


秋風の一人をふくや海の上」

9月7日

漱石、芳賀矢一・藤代禎輔・稲垣乙丙と連名で留学に出立する旨を新聞広告する。

9月7日

ガーナ、アシャンティの蜂起の主な反乱指導者、英に無条件降伏。

9月8日

漱石、横浜よりドイツ汽船「プロイセン」に乗船し離日。ドイツに留学する藤代禎輔(独文)、芳賀矢一(国文)らが同行。


「金之助が「西征の途に上」ったのは、明治三十三年九月八日である。その日の未明、彼は鏡子や岳父中根重一ら数人に伴われて、牛込矢来町中ノ丸の中根家を出た。まだ赤痢の予後を養っていた鏡子の母は、辛うじて玄関まで見送りに出た。横浜の波止場に着いてみると、やはり寅彦は来ていた。船はドイツ・ロイド社のプロイセン号という客船で、乗客中日本人は金之助と芳賀矢一、それに藤代禎輔の三人だけであった。同行するはずだった第二高等学校教授高山林次郎(樗牛)は、七月におびただしく喀血し、胸部疾患のために留学を断念していた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)

「九月八日(土)、晴。鏡の母中根カツは健康を回復し、玄関まで見送る。人力車で新橋停車場へ行く。出発予定の一同集合する。午前五時四十五分、新橋停車場を出発、六時四十分横浜停車場着。(予定)残月見え、横浜も晴。鏡、狩野亨吉らは横浜で見送る。埠頭に赴き、.....(プロイセン)号に乗り込む。一行は、中等船室で戸塚機智(軍隊医学)と同室である。隣りの百三号室には、芳賀矢一(国文学)・藤代禎輔(素人)・稲垣乙丙乗り込む。.....北ドイツ・ロイド社.....プロイセン船長.....キルヒネル、二檣二煙突総トン数三千二百七十八トン、平均時速十二・五ノット)号で横浜を八時に出航する。出航に際しては、.....(ラ・マルセーエーズ)が奏せられる。プロイセン号を選んだのは、藤代禎輔の主張に従ったもの。給仕頭は軍隊式に厳格で、一同悩まされる。交渉には藤代禎輔があたる。船酔い、下痢、暑熱などに苦しみながらもイギリスの文学書を熱心に読む。午後三時頃、驟雨来る。「遠洲(州)洋ニテ船少シク揺ク晩餐ヲ喫スル能ハズ」(「日記」・小宮豊隆校訂)」(荒正人、前掲書)


「★九月九日(日)、午前九時三十分頃、神戸湾に入る。十時三十分投錨する。小汽艇に乗って、埠頭に着く。大阪市に住む鈴木禎次・時子(鏡の妹)夫妻見送りに来たが行違いで会えず、残念に思う。鈴木時子から餞別に万年筆を貰う。諏訪山温泉(鉱泉、現在、展望台)の中常盤で湯に入り、浴衣がけで日本料理の昼食をする。(この順序は推定)一行と共に、芳賀矢一の立寄り先を訪ね夕食をする。漱石は下痢のため食べない。午後八時半、人力車で埠頭に向う。十時、出航する。空に雲なく、海上に金波銀波漂う。イギリス人と中国人の混血児乗込む。」(荒正人、前掲書)

つづく

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