2024年10月30日水曜日

大杉栄とその時代年表(299) 1900(明治33)年9月15日~20日 立憲政友会結成(総裁伊藤博文、憲政党の西園寺公望・星亨らが参加) 漱石、上海~福州~香港 「上海も香港も宏大にて立派なることは到底横浜・神戸の比には無之、特に香港の夜景などは満山に夜光の宝石を無数に鏤めたるが如くに候。」

大杉栄とその時代年表(298) 1900(明治33)年9月9日~14日 子規庵で初めての「山会」 漱石、長崎に上陸、入浴と昼食 漱石と芳賀、上海に上陸、一泊する 「京都京極通りの趣あり・・・提灯の大さ吉原遊郭の古図を見るが如し」(芳賀) より続く

1900(明治33)年

9月15日

韓国、京畿道沿岸での漁業に関する日韓往復文書交換。

9月15日

韓国、国外に鉄道を敷設する帝国会社に関する法律公布。京釜鉄道に準用。

9月15日

立憲政友会結成。総裁伊藤博文、所属議員152人(憲政党から110人、無所属その他から41人)。憲政党は13日解党。憲政党の西園寺公望・星亨らが参加。政友会の幹部は、松田正久・片岡健吉・尾崎行雄・大岡育造・原敬ら(総務委員は13名中7名が伊藤系、幹事長は原敬)。支持者は、実業家・地方議員・地主ら(実業家層は伊藤の予想に反して少ない)。板垣退助は、自由党を伊藤博文に譲渡したと批判される。

山県は伊藤の政党設立に反対であり、その結果、中立を意識した中央の大商工業者たちは殆ど政友会に参加せず、貴族院からの参加者も少ない。衆議院議員は、152名(定足数300名)過半数に達し、その73%が旧自由党系の憲政覚からの参加者。西園寺は政友会結党は、「一言にいえば救世の二字」であると述べる(9月24日付酒井雄三郎宛書状)

伊藤の手兵は党首脳部にいる若干の幕僚のみ。党内の事実上の中心は旧憲政党系で実権は星亨が掌握し、星は当初の意図通り伊藤を利用しながら旧憲政党の実質的党勢拡張を推進。旧憲政党の政友会への合流は、板垣の引退に象徴される自由民権運動の伝統との断絶を伴う。星の台頭とともに板垣の比重は落ち、第2次山県内閣下では事実上引退していたが、憲政党解党に及び、一片の感謝状とともに完全に政界を去る。

9月15日

外国において鉄道を敷設する帝国会社に関する法律公布〔法〕。

9月15日

漱石、暴風雨の為、上海出航が延びる。


「★九月十五日(土)、呉淞を出航のはずだったが、九月十四日(金)から暴風、気圧降下。午前十時頃からは雨も降りだし、揚子江の濁流はすさまじい。「檣頭ニカゝゲタル白地ニ錨ヲ黒ク染メヌキタル旗ヲ吹キチギル許リニ吹ク、」(「日記」)出航できぬ。午後二時ようやく抜錨、二時間ほど航行し、再び大風を避けるため停泊する。(芳賀矢一「留學日誌」)」(荒正人、前掲書)

9月16日

漱石、上海(呉淞)を出航


「九月十六日(日)、午前二時頃、暴風やや衰えたので再び航行する。呉淞を出航する。イギリス・アメリカの宣教師たち、家族連れで二十人余り乗り込む。大部分は、他人を感化する風采ではない。(藤代禎輔)汽船の動揺甚しく、終日船室に閉じこもる。(「日記」)(芳賀矢一だけ食堂に行き、他は船室に残る。イギリス人・ドイツ人が十数人いたが、甲板で祈祷しない)午後、勇を鼓して食堂に行ったものの、スープ半分飲んだだけである。高浜虚子宛に葉書を出す。」(荒正人、前掲書)

9月17日

漱石、福州着。18日、出航。


「九月十七日(月)、風波いくらか静まる。同行諸氏元気回復する。午後五時、福川湾に入り、六時に投錨する。中国人商人、陶器・漆器・絹布その他の雑貨を売るために、船中に来て騒がしい。奏楽隊長で風呂番を兼ねている男は、中国人の売りに来た中国服を付けて得意である。船では、茶の積荷をする。下痢をする。不愉快である。


九月十八日(火)、雨。鬱陶しい。甲板濡れて、気持悪い。晴雨計平常に復す。胃腸の調子少しよくなる。(芳賀矢一、喫煙室で国学史の校訂をする。羽織、袴の日本服である)午前十時半頃出航したと思われる。」(荒正人、前掲書)

9月17日

米、炭鉱労働者11万2千人がストライキ。無煙炭価格が6.5倍に

9月18日

米、初の直接予備選挙、ミネアポリスで実験的に実施。

9月19日

漱石、香港着。この日、九龍港に着き小蒸気船で香港に行き、鶴屋という日本宿で食事後、船に帰る。虚子宛てに航海の無事を知らせる手紙を書く。 20日午後出帆。


「九月十九日(水)、「微雨尚已マズ 天漸ク晴レントス」(「日記」)午後、快晴。午後二時、香港に入港とのことで喜ぶ。(推定)四時、香港の陸影を認める。午後四時半、九龍の埠頭に着く。下痢と船酔いに弱っていたけれども、元気を回復する。小蒸汽で香港に渡り、不潔な日本旅館鶴屋で、夕食に味噌汁・焼魚・鯛の刺身・番茶の茶漬などが出る。 Queen's Road を見て、九時に帰船する。香港の夜景に驚く。暑熱甚し。中国人商人雑貨を売りに船中に来る。高浜虚子宛の葉書に俳句二句を添えて出す。


九月二十日(木)、朝食をおえて、渡し舟朝星(渡し賃、上等十銭)で再び香港に至り、 tramway (鋼条鉄道 cable railway 鋼索鉄道)で傾斜四十五度の山背を登る。峰の上に、 Peak-hotel ある。少し行くと兵営がある。眺望よし。風が吹いて快い。雑草と喬木が全山を覆う。イギリス人士官の住居眼につく。道路は極めて良いが、暑熱耐え難く、約二キロを喘ぎながら登り、 Victoria Peak (ヴィクトリア頂上、三百五十一メートル)に達す。頂上には、大きい砲台がある。その下に、中国人の喫茶店あり、立ち寄る。(推定)十一時、再び鋼条鉄道の停車場に戻り、三十分余り待つ。十一時三十分過ぎ、発車して香港に降りる。十二時、九龍に戻る。午後四時、出航する。」(荒正人、前掲書)

「航海は無事に此処まで参候へども、下痢と船酔にて大閉口に候。昨今は大に元気恢復、唐人と洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮窟千万一向面白からず、早く茶漬と蕎麦が食度候。・・・・・熱くて閉口、二百十日には上海辺にて出逢申候。

阿呆烏熱き国にぞ参りたる

稲妻の砕けて青し海の上」(9月19日付け日記)

〈香港の印象(芳賀矢一)〉

「香港の市街たる繁栄は上海に及ばざるが如しといへども、巍然たる層楼相連なりて、昇降にはエレヴェーターを用ふ。全屋悉く大理石なるが如きは、欧米の大都といへども及び難かるべし。」


〈香港の印象(漱石)〉

「山巓(さんてん)に層楼の聳ゆる様、海岸に傑閣の並ぶ様、非常なる景気なり。」(「日記」9月19日)

これは、プロイセン号が停泊した九龍側から香港島を見た光景。この時、香港島の中心街では埋立により「新たな海岸通り(new praya)」の開発が進んでいた。埋立はほぼ終わり、香港クラブ(1897年竣工)やクウィーンズ・ビルディング(1899年竣工)など数棟の新しいビルが聳えていた。しかし、更地も多く、海側からは、「古い海岸通り(old praya)」にあった、一世代前の商館や六階建ての香港ホテルなどの「傑閣の並ぶ様」が見えた。

漱石一行が食事をした日本旅館鶴屋について、芳賀は「海岸通り五層楼に在り外観甚だ美なり」と記しているが、これも「古い海岸通り」にあった。

しかも香港では、新旧の海岸通りだけでなく、山頂にも「層楼」が聳えていた。翌日、ヴィクトリア・ピークに登った漱石たちは、これらの建物を間近に見た。

芳賀による、ケーブルカーを降りて山頂に至る光景。

「峰上peak−hotel あり。更に進むこと少許、兵営あり。・・・元来香港は海上の一島にして全島花崗岩なり。樹木繁茂するもの少なけれども雑草矮木全山を掩ふ。処々丘陵を開きて高楼大厦を架す。皆英人の家にして多くは兵営に関する士官の住居たり。」

「兵営」は、マウント・オースティン・ホテルを買い上げたもので、有名なピーク・ホテルよりもさらに「宏壮」なものであった。

香港の夜警については、日記には

「船より香港を望めば万燈水を照し空に映ずる様、綺羅星の如くといわんより満山に宝石を鏤めたるが如し。diamond 及びruby の頸飾りを満山満港満遍なくなしたるが如し。」

とある。

妻への手紙にも、

「上海も香港も宏大にて立派なることは到底横浜・神戸の比には無之、特に香港の夜景などは満山に夜光の宝石を無数に鏤めたるが如くに候。」(9月27日)

と書かれている。


つづく


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