2024年10月31日木曜日

大杉栄とその時代年表(300) 1900(明治33)年9月20日~30日 巌谷小波、ドイツに向かう 「国民同盟会」(近衛篤麿・頭山満ら) 漱石、シンガポール上陸 ドイツのヴァルデルゼー元帥指揮の連合国軍による義和団掃討作戦(計78回に及ぶ残党狩り) 内村鑑三『聖書之研究』創刊 虚子と碧梧桐の対立顕在化    

 大杉栄とその時代年表(299) 1900(明治33)年9月15日~20日 立憲政友会結成(総裁伊藤博文、憲政党の西園寺公望・星亨らが参加) 漱石、上海~福州~香港 「上海も香港も宏大にて立派なることは到底横浜・神戸の比には無之、特に香港の夜景などは満山に夜光の宝石を無数に鏤めたるが如くに候。」 より続く

1900(明治33)年

9月20日

立石一真、誕生。

9月21日

ロシア、吉林省城を占領。

9月21日

~24日 船上の漱石


「九月二十一日(金)、晴。終日、陸形を見ぬ。 Singapore (シンガポール)に向って、南支那海を南下する。甲板は涼しいが、船室は暑い。船中で奏楽が行われる。

九月二十二日(土)、曇。終日、陸影を見ぬ。正午、香港から六百四十一マイルの海上を航海す。午後三時頃、驟雨。甲板は涼しいが、船中は甚しく暑い。(芳賀矢一「留學日誌」)

九月二十三日(日)、午前、宣教師ら賛美歌を歌い、説教をする。正午、香港から九百四十四マイル(千五百十八キロ強)と標示板示す。

九月二十四日(月)、正午頃、左舷に四つ五つ島影見える。「胃悪ク腹下リテ心地悪シ」(「日記」)午後十時頃、 Singapore (シンガポール)に着く筈が遅れる。」(荒正人、前掲書)

9月22日

巌谷小波(30)、横浜港からハンブルヒ号で出航、ベルリン大学付属東洋語学校講師としてドイツに向かう。尾崎紅葉、石橋思案、江見水蔭、武内桂舟、大橋乙羽、大橋新太郎らが備前丸に便乗して見送る。

9月23日

林瀧野、鉄幹の子「萃」(つとむ)を出産。

晶子は、「このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな」(「みだれ髪」)と祝う。

9月23日

第2インターナショナルの第5回大会、パリで開催(~9月28日)。無政府主義者を排除。ブリュッセルに常設事務局の設置を決定。大会名、「国際社会主義大会」となる。

9月24日

近衛篤麿・頭山満ら、大陸政策の積極化を目指して「国民同盟会」を組織。東亜同文会員、対外硬の議員、玄洋社の大陸浪人ら参加。兆民が参加し世間を驚かせる。1902年4月解散。翌年「対外硬同志会」結成(のち「対露同志会」と改称、開戦後は活動停止)。

9月25日

広瀬武夫、少佐進級。

9月25日

西太后、戦犯9名公表、求刑。

9月25日

漱石、シンガポール着


「九月二十五日(火)、曇。朝、起きると Singapore (シンガボール)沖に到着する。午前八時、朝食後投錨する。「土人丸木ヲクリタル舟ニ乗リテ船側ヲ徘徊ス船客銭ヲ海中ニ投ズレバ海中ニ躍入ツテ之ヲ拾フ」(「日記」)上陸する。意外に涼しい。「土人ニテ日本語ヲ操ル者日本旅館松尾某ノ引札ヲ持シテ至ル命ジテ馬車二䑓ヲ二圓五十銭宛ニテ雇ハシメ植物園ニ至ル」(「日記」)兵営・学校・太守邸・イギリス士官宿舎を通って十時頃、植物園に着く。熱帯樹繁る。動物園で虎・蛇・鰐・魚を見る。博物館は立派ではない。松尾兼松の経営する旅館松尾で昼食する。鯛の刺身・照焼など出る。飯米はインド米である。街頭に、日本人の淫売婦たち徘徊する。午後三時、馬車で松尾を出発する。海岸通りを行く。三時半帰船する。四、五人新たに乗船し、五時三十分、出航する。十時頃、驟雨来る。」(荒正人、前掲書)


漱石の日記

「それより博物館を見る。余り立派ならず。」(9月25日)

妻宛の書簡では、シンガポールについて次のように触れられている。

「熱帯地方の植物は名前のみを承知致候が、来て見れば今更の如くその青々と繁茂せる様に驚かれ候。」(9月27日)


芳賀矢一の感想。

「〔シンガポールの〕市街の美もとより上海、香港には及ばざれども尚大厦の空に聳ゆるもの多し。全市の幅大は遥かに両港に超えたるべし。」


9月26日

~30日 船上の漱石


「九月二十六日(水)、曇、時々細雨。午前十一時頃、近くで龍巻起る。正午、榜示に、 Singapore (シンガポール)から二百二十六マイル(三百六十四キロ強)の位置にいると示されている。室内でも余り気温上らない。夜、風雨強い。

九月二十七日(木)、早朝すでに、 Penang (ペナン)に到着したが、上陸はしない。午前九時出航の予定遅れて、十時半になる。時折小雨降り涼しい感じである。斎藤阿具 (第二高等学校)宛、マレー美人の絵葉書を出す。窓外にインド洋は日本の夏よりも涼しい。波風も穏やかである。夜、風強くなり、波高い。

九月二十八日(金)、朝晴、南方に Sumatora (スマトラ)島を見る。午前十一時頃から、風雨となり波浪高くなる。インド洋を西に向う。「名にしおふ印度荒海波たちてみえがくれするすまたらの山」(芳賀矢一「留學日誌」)

九月二十九日(土)、晴れたり、曇ったり。「印度洋卜雖甲板上ハ風烈シク寒キ位ナリ」(「日記」) ベンガル湾の南を西に向って横断する。鏡に、上海・香港・シンガポール・ペナン迄の旅行の経過見聞を書く。(コロンボ投函) 「頭ノハゲルノモ毎々申通一種ノ病氣ニ違ナク侯必ズ醫者ニ見テ御貰可被成候人ノ言フヿヲ善ヒ加減ニ聞テハイケマセン」

九月三十日(日)、暗。風強い。変ったこともない。宣教師たちはいつもの通り礼拝を行い、説教する。室内は非常に暑い。」(荒正人、前掲書)

9月26日

山県有朋首相、辞表を提出。10月7日伊藤に大命降下。

9月27日

ドイツのワルデルゼー元帥、連合軍総司令官として着任。救出作戦は終了し、指揮を受ける必要なしとの意見が強く、米・仏2国はその指揮下に入らず。ロシアは就任を推挙してドイツの好意をかう。

ヴァルデルゼー元帥率いる数万人の兵力が増強され、彼が連合国総司令官になると、北京周辺の度重なる懲罰的掃討作戦を展開した。各国を合わせると計78回に及ぶ義和団残党狩りが行われ、それは山海関や保定、山西省と直隷省との境界線付近まで含む広大な範囲にわたった。特に多くの掃討戦を行ったのはドイツであって、約半分を占めている。

9月27日

政府、京釜鉄道会社発起人に対し特別保護命令書を下付。

9月28日

足尾銅山所有者古河市兵衛、柳橋亀清楼でチョン髷を切る。介添え人は渋沢栄一

9月28日

東京、暴風雨、死者3人、浸水家屋1万4,700戸。

9月30日

内村鑑三、『東京独立雑誌』を廃し『聖書之研究』創刊。

9月30日

この日発行の「ホトトギス」第3巻第12号の「消息欄」に子規は、「天津聯合軍の消息につぎて騒がしきは俳句の講習の噂に有之候」と書く。


「天津聯合軍とは八カ国連合軍のことで、「俳句の講習の噂」とは、虚子と碧梧桐の対立が「ホトトギス」読者にもあらわになった一件である。一年前から距離を置く間柄となった二人は、この頃はっきりと反目しはじめた。」(関川夏央、前掲書)


つづく


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