2024年11月9日土曜日

大杉栄とその時代年表(309) 1900(明治33)年11月12日~22日 漱石、ロンドンで2回めの下宿に移る(『永日小品』「下宿」「過去の匂ひ」) ロンドン大学に通う 原敬、大阪毎日退社

 

漱石2番目の下宿(短期間、85 Priory Rd.)

大杉栄とその時代年表(308) 1900(明治33)年11月1日~10日 漱石、ケンブリッジでの研究断念 ロンドン大学聴講生となる(年末まで) 鉄幹・晶子・登美子、京都永観堂の紅葉を鑑賞、栗田山辻野旅館に1泊 戦艦「三笠」進水式(イギリス) より続く

1900(明治33)年

11月12日

韓国、京仁鉄道開通式。

11月12日

漱石、当初の下宿費用が高価なため2番目の下宿に転居


「十一月十二日(月)、 University College の Prof. Foster の講話を聴く。 85 Priory Road, West Hampstead, London, N.W. 6 の Miss Milde (ミス・マイルド)の家に移る。(ロンドンで第二回めの下宿)転居の最も大きい理由は、下宿代が高かったためである。二階の南向きの部屋には、長尾半平が下宿している。北向きの部屋を借りる。長尾半平は、スコットランドに行き、当分帰らぬとのことである。午後四時、主婦からお茶に呼ばれる。紅茶やパンを奨められながら雑談する。主婦は、フランス人だと云い、フランス語を話すかと云って、美しいフランス語を少し話す。八時頃(推定)、食堂で主婦の老父に紹介される。ドイツ人である。この下宿は環境も普通で、部屋も悪くはない。一週二ポンド(四十シリング)だが、『永日小品』の「下宿」「過去の匂ひ」に描かれているように、家族関係は極めて複雑である。」(荒正人、前掲書)

「・・・・・ミス・マイルド方・・・・・。プライオリー・ロードは地下鉄のウエスト・ハムステッド駅西南からほぼ一直線に南側に伸びる道路で、両側に赤煉瓦造りの住宅が建ち並び、ロンドン大学の関係者や学生が好んで下宿していた。八十五番地は、プライオリー・ロードがクレーヴ・ロードと交わるところにある角屋敷である。赤煉瓦二階建てで、部屋代は週二ポンドであった。彼が借りたのは、二階裏手の小さな芝生の庭を見下す陰気な部屋である。

この下宿から彼はしばらくユニヴァーシティ・カレッジにケア教授の講義を聴きに通った。・・・・・」(江藤淳『漱石とその時代2』)

「ウェスト・ハムステッドのマイルド方に移ったのは、二週間後の十一月十二日であった。テムズ河北岸、ハイドパークの北一キロほどのそのあたりは、東京でいえば本郷のような土地柄で、北向きの部屋の下宿料は二食つきで週四十シリングであった。

「始めて下宿をしたのは北の高台である。赤煉瓦の小ぢんまりした二階建が気に入ったので、割合に高い一週二磅(ポンド)の宿料を払って、裏の部屋を一間借り受けた」 (「下宿」)

明治四十二年、漱石が長編執筆の合間に書いた『永日小品』中の一編「下宿」にえがかれたのは、この家である。「下宿」は、続編「過去の匂い」とともに、大陸ヨーロッパからの移住者であるこの家の複雑な「人間関係の地獄」を暗示している。

だが漱石は、そこにひと月もいなかった。・・・・・」(関川夏央、前掲書)

「第二の下宿

・・・・・第一の宿は値段が高く、ケンブリッジから帰って安い下宿を探し歩いたが適当な宿が見当たらず、新聞広告で探して決めた。ロンドン北西部の高台で、後に発表された小品「下宿」と「過去の臭ひ」(『永日小品』所収)にこの宿のことが描かれている。通りの名でプライオリー・ロードの家と呼ばれる。家族は洋服屋の老主人と老嬢と四十年輩の男と女中。「赤煉瓦の小じんまりした二階建が気に入ったので」週二ポンドでやや割高だが借りることにしたという。家族関係は複雑で、主人と娘との間に血は繋がっていない。娘のミス・マイルドの母が、夫の死亡後にフレデリック・マイルドと再婚したわけである。写真で見ると表側はたしかに瀟洒に見えるが、漱石が借りた裏側の写真を見ると綺鹿とは言えない。

ここには日本人の長尾半平が表側の一部屋を借りていた。彼は台湾総督の後藤新平から派遣された官吏で、豊富な資金でヨーロッパ各国を視察して歩いていた。彼自身「夏目さんに比べては、非常に贅沢な暮らしをしてゐた」と回想しているが、漱石が二十ポンドばかり貸してくれないかと言うので、返してくれるのかと聞くと、「返すんだよ」との返事なので金を貸した。二人が帰国してから偶然出会ったとき、漱石は「金を返さなければならなかったね」と思い出し、翌日金を持って来てくれたというエピソードがある。漱石は几帳面で約束は必ず守る気性だった。

この下宿は長尾がいなければ、陰気で居たたまれない雰囲気が鯵んでいた。父の娘(主婦の老嬢)に対する物の言い方が「和気を欠いてゐる」、「娘も阿爺に対するときは、険相な顔がいとゞ険相になる」。「一家の事情」は娘が自分から説明してくれた。

 - 私の母はフランス人と結婚して私を生んだが、夫が死んだので母は私を連れてドイツ人と再婚した。それが今の父である。父は仕立屋の店を出し、毎日通勤しているが、夜遅く帰ってくる男は先妻の子で同じ店で働いていて、父とはほとんど口を利かない。母はずっと以前に亡くなったのだが、その財産はみんな今の父に取り上げられてしまった。下女に使われている「アグニスは・・・」と言いかけて、彼女は口を噤んだ。自分の目には、アグニスは朝会った息子の顔とどこか似ている感じがした。そこから推察すると、十二、三歳のアグニスは、四十代と思われる息子の子で、父がその母である女性との結婚を許さなかったか、あるいはその女性が子供を押しつけて逃げ去ったかであろう。 -

文中の「自分」はNさんと呼ばれ、夏目の頭文字であることは明らかだが、長尾半平がK記されるのは二人の混同を避けると同時に、不似合いな贅沢をし、各地を飛びまわる官吏としての身分上、実の頭文字を変更したのであろう。「過去の臭ひ」という題名には、養家にも生家にも所属できず、実の父からは「小さな一個の邪魔物」として扱われたと記す『道草』(九十一)の健三と同様の記憶が、アグニスとともに甦ったのかもしれない。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

11月13日

ロシア、東部三省の管理を決定。

11月13日

~19日 ロンドンの漱石


「十一月十三日(火)、朝、食堂で、主婦・父親・主婦の弟と共に食事する。 Underground railway (地下鉄)に乗る。 London University で Ker 教授の講義を聴く。昼食は外でする。午後三時過ぎに下宿に帰る。午後四時、主婦からお茶に誘われる。主婦は、身上話をする。(『永日小品』「下宿」による推定)

十一月十五日(木)、同宿の長尾半平は、この日か前日、スコットランドから帰ったと推定され、終日話す。

十一月十六日(金)、「Pritchett ニ至ル」(「日記」)

十一月十七日(土)、 St. Paul (セント・ポール)寺院を見る。(略)

十一月十八日(日)、 Craig (クレーグ)に手紙を出す。(coach の依頼と推定する)

十一月十九日(月)、 Holborn (ホウルバン)に書籍を買いに赴く。立花銑三郎(在ベルリン)宛に絵葉書で、 coach (個人教授)を取る積りであること、西洋人と交際するには時間と金銭が必要であること、書物は珍しいものがあっても、高価であること、街は雑沓し、空は曇天であることなど伝える。

この日または翌日、藤代禎輔(素人)から、手紙を出しているのに「ナシの礫」であると非難する便り届く。」(荒正人、前掲書)

11月13日

英領ソマリランドのオガデン・ソマリ族、英政府に反旗を翻す。

11月14日

米、作曲家コープランド、誕生。

11月15日

市内汚物掃除請負に関する東京市参事会員収賄事件で、東京市の参事会員星亨逓相ら告発される。

11月15日

演劇取締規則公布

11月15日

駐露公使に珍田捨己任命。

11月16日

西川光次郎ら「平民新聞社」より『平民(社会改良)主義』創刊

11月16日

市民創設のフィラデルフィア管弦楽団、初演奏会。

11月17日

東京商船学校の練習船月島丸、駿河湾で暴風のために沈没。122人(学生79人を含む)溺死。

11月18日

グスタフ・マーラー、ウィーンフィルの定期で『交響曲ニ長調』演奏、ウィーン初演。

11月21日

国際紛争平和的処理条約及び陸戦の法規慣例に関するハーグ条約批准公布。

11月22日

原敬(44)、大阪毎日新聞社退社

12月19日政友会総務委員兼幹事長。

22日第4次伊藤内閣逓信大臣(~明治34年6月2日、約6ヶ月)。


つづく



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