2024年11月13日水曜日

大杉栄とその時代年表(313) 1901(明治34)年1月1日~9日 漱石、トテナム・コート街で89巻余の書籍を買う 「二年間精一パイ勉強しても高が知れたものに候書物でも買つて帰朝の上緩々勉強せんと存候處金なくて夫も出來ず少々閉口に候」(漱石の在ベルリンの芳賀矢一への葉書)

 

大杉栄とその時代年表(312) 1900(明治33)年12月16日~31日 星亨、逓相辞職 後任原敬 子規庵で蕪村忌 子規最後の写真 「天気のわるきには閉口、晴天は着後数えるほどしか無之、しかも日本晴といふやうな透きとほるやうな空は到底見ること困難に候。もし霧起るとあれば日中にても暗夜同然ガスをつけ用を足し候。不愉快この上もなく候。」(漱石の妻への手紙) より続く

1901(明治34)年

1月

西太后の新政の詔。軍備充実、実業振興、教育改革。

1月

露の首都で満州に関する露清交渉。進展せず。

1月

二葉亭四迷(長谷川辰之助)、東京外国語学校教授(年俸900円)を勤め海軍大学校ロシア語教授嘱託(月給35円)を勤め始める。

1月

後藤宙外「陽炎集」(「春陽堂」)

1月

河井酔茗「無弦弓」(「内外出版協会」)1

1月

英、南アフリカ参謀長キッチナー、南アフリカで掃討作戦開始、焦土政策を採用。

1月1日

慶應義塾大学で「19世紀・20世紀の送迎会」開催。福澤諭吉は病気のため欠席

1月1日

福澤諭吉「痩せ我慢の説」(「時事新報」)。徳富蘇峰と論争。

1月1日

川上音二郎・貞奴一行、神奈川丸で神戸港着。

1月1日

「労働世界」第69号英文欄、高野が天津から北京に移動し商店を開くとの短信。

15日、「労働世界」第70号英文欄、高野が現在ドイツ軍におり、用務のため一時帰国し馬関(下関)にいるとの消息あり。

1月1日

イギリス領オーストラリア6植民地、オーストラリア連邦結成。自治権承認。初の内閣首班はエドマンド・バートン。当初より、ジョン・C・ワトソン率いる労働党が政策決定に強い影響力を持つ。

1月1日

ナイジェリアがイギリス保護国になる。

1月1日

ロンドンで正月を迎えた漱石


「一月一日(火)、直矩・高田庄吉宛連名の絵葉書を送り、新年の喜び述べる。(形式的な年賀状は誰にも出さぬ) Harold Brett (ブレット)から、英国人の裸体画に関する意見聞き、ラテン民族などに比べて少ない理由を知る。 Mr. Dalzeil, Mr. Walker からキリスト教に関する意見を聞く。」


「Brett (ブレット)がどんな意見を述べたか分らぬ。ヴィクトリア朝の意識からすれば、裸体はむしろ人前では隠すべきものと思われていた。イタリアその他、ルネサンスの十分に開化した地域では、裸体は美の対象となったけれども、イギリスの伝統からすれば、裸体は覆い隠すべきものであり、美術の対象としては公認されがたかった。この点、フランスなどとも異なっていた。日本では、儒教的立場から裸体に羞恥の念を覚えた。」(荒正人、前掲書)


1月2日

漱石、トテナム・コート街で89巻余の書籍を買う。


「一月二日(水)、 British Museum (大英博物館)西を通る Tottenham Court Road (トテナム・コート街)で、八十九巻余りの書籍を購入する。(Johnson の""British Poets"" 75 vols. ""Restoration Drama"" 14 vols. などである)」(荒正人、前掲書)


1月3日

ベトナムの政治家・南ベトナムの大統領ゴ・ディン・ジェム、誕生。

1月3日

~9日 ロンドンの漱石


「一月三日(木)、藤代禎輔(素人 在ベルリン)宛手紙に、「僕は書物をかつて仕舞ふから叉邊鄙な處に居るから家がやかましいから金と不便と遠慮がハチ合せをして頗る謹直である」と伝え、ロンドンに来るように誘う。芳賀矢一(在ベルリン)から年賀状貰い、絵葉書に「小生三十五に相成候へども洋行迄致して何事もしでかさず甚だ心細き新年に候/日本人には毫も交際仕らず西洋人も往來はせず中々そんなぶらつく時間は無之候/二年間精一パイ勉強しても高が知れたものに候書物でも買つて帰朝の上緩々勉強せんと存候處金なくて夫も出來ず少々閉口に候」と伝える。「倫敦ノ町ニテ霧アル日太陽ヲ見ヨ黒赤クシテ血ノ如シ、鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラン。」(「日記」)と記す。イギリス人と日本人の比較についても記す。立花銑三郎(在ベルリン)からも年賀状を貰う。夜、絵葉書に、「御旅行のよし結構に候時と金なき為め未だ旅行も致さず下宿にくすぼり居候僕の見付た下宿は一週悉皆で二十五志だから倫孰(ママ)にしては非常に安いが書物を買ふのでいつもピーピーして居ります」と近況を知らせる。

一月四日(金)、「倫敦ノ町ヲ散歩シテ試ミニ痰ヲ吐キテ見ヨ。其黒ナル塊リノ出ルニ驚クペシ何百萬ノ市民ハ此煤烟卜此塵埃ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツゝアルナリ我ナガラ鼻ヲカミ痰ヲスルトキハ氣ノヒケル程気味悪キナリ」(「日記」)

一月五日(土)、ロンドンのような悪い環境に住む人間の美しいのは、太陽の薄いためであろうと考え、洋行した連中の話をそのまま信じてはいけないとも記す。

一月七日(月)、ロンドンで初めて降雪を見る。

一月八日(火)、雪消えぬ。午後再び降る。

一月九日(水)、雪止む。曇天。午前、部屋の模様変えをする。」(荒正人、前掲書)


1月3日の日記

「彼等は人に席を譲る 本邦人の如く我儘ならず 彼等は己の権利を主張す 本邦人の如く面倒くさがらず  彼等は英国を自慢す 本邦人の日本を自慢するが如し 何れが自慢する価値ありや試みに思へ」(1901年1月3日『日記』)


1月5日の日記

「一月五日(土)

此煤烟中ニ住ム人間ガ何故美クシキヤ解シ難シ。思フニ全ク気候ノ為ナラン。太陽ノ光薄キ為ナラン。往来ニテ向フカラ脊ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タト思へバ、我姿ノ鏡ニウツリシナリ。我々ノ黄ナルハ当地ニ来テ始メテ成程卜合点スルナリ」

「妄りに洋行生の話を信ずべからず。 多き中には法螺を吹きて厭に西洋通なる連中多し。 彼らは洋服の嗜好流行も分からぬくせに己の服が他の服より高き故時好に投じて品質最も良好なりと思えり。 洋服屋にだまされたりとはかつて思わず。 かくの如きもの着て得々として他の日本人を冷笑しつつあり。 愚なること夥し。」


1月9日の日記

「雪やむ。なお曇天なり。石炭の灰の雪を掩(おお)うを見る。阿蘇山下の灰の如し。」(1901年1月9日 日記)


つづく

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