大杉栄とその時代年表(375) 1901(明治34)年12月1日~10日 「中村屋」開業 堺利彦、角筈へ転居 福田英子と親しくなる エスエル党結成 日英同盟裁可 田中正造直訴 より続く
1901(明治34)年
12月11日
コロンビア政府は運河建設予定地を含む幅10キロの土地の永久貸与に同意したと米側の発表。
12月12日
マルコーニ(27)、大西洋横断無線通信成功。
12月12日
林董駐英公使、日英同盟の日本修正案を英外相に提出。
12月13日
中江兆民(55)、没。12月10日ごろから意識混濁状態に入り、この日午後7時30分、永眠。
14日午後、東京帝国大学医科大学病院で、山極勝三郎の執刀により解剖した結果、食道ガンと判明した。体重は20kgで、骨と皮だけに痩せ細った衰弱死であった。
弟子幸徳秋水に、「文章経国大業不朽盛事 兆民老人 為幸徳秋水兄」と絶筆。
臨終の前日、兆民の枕頭に駆けつけた秋水に麻布宮村町の自宅の家宅捜査の報。間もなく警視庁から出頭命令。田中正造の直訴を弁護した(無署名)「臣民の請願権」(「万朝報」12日)について取調べ。
〈幸徳秋水が伝える中江兆民の人となり〉
「・・・・秋水の号を兆民より譲られた幸徳秋水は、兆民の死後、『兆民先生』(博文館、明治三十五年)なる一書を編んで、兆民を偲んでいる。この書、兆民の人となりが髣髴(ほうふつ)として、すこぶる興味深い。例えば、同郷ということもあろう、坂本龍馬を崇拝していた兆民の左のごとき言葉を紹介している、といった具合である。慶応元年(一八六五)、長崎での出来事である。
予(筆者注・兆民)は当時少年なりしも、彼(龍馬)を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、『中江のニイさん煙草を買ふて来てオーせ、』などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々(しばしば)なりき。彼の眼は細くして、其額(そのひたい)は梅毒の為め抜上(ぬけあ)がり居(い)たりき。
龍馬、兆民のいかにも人間臭い実像が浮び上ってくるではないか。秋水は、『兆民先生』の中で「革命の鼓吹者」である兆民の思想的姿勢を、
階級を忌(い)むこと蛇蝎(だかつ)の如く、貴族を悪(にく)むこと仇讐の如く、誓って之を刈除(がいじよ)して以て斯民(しみん、人々)の権利を保全せんと期せるや論なし。
と伝えている。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))
12月14日
大杉栄(16)、11月の事件に関して退校届は受理されず、「品行不正、改悛の余地なし」として菅谷竜平とともに退校を命じられる。
12月14日
坂東妻三郎、誕生。
12月14日
伊藤博文、ベルリン入り。ウィルヘルム2世と謁見。
17日、ロシア外相より日露協商修正案送付。日本はロシアの満州での行動を黙認、ロシアは日本の韓国での行動を制限する内容。
12月17日
中江兆民の告別式。青山会葬場において、宗教上の儀式を一切廃し行われる。板垣退助の弔詞、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、参列者の告別が行われた。参列者は、板垣、大石、野村のほか、石黒忠悳、浜尾新、林有造、片岡健吉、箕浦勝人、大井憲太郎、頭山満、柴四朗、栗原亮一、原敬、佐々友房、徳富蘇峰、三宅雪嶺、門下生初見八郎、加藤恒忠、伊藤大八、原田十衛、土居通豫、幸徳秋水ら、1千余名。告別のあと、長男丑吉と親族浅川範彦が参列者に挨拶をし、式は終了。式後、遺骸は落合火葬場に送られ、茶毘にふせられた。遺骨は、東京青山墓地の母柳の墓の隣りに埋葬された。墓碑は建てられなかった。
1915(大正4)年12月、友人門下生らが、埋骨地に、「兆民中江先生瘞骨之標」と刻した石碑を建て、それが現存している。
12月18日
アインシュタイン、ベルンの特許局に応募。
12月19日
英独の同盟交渉失敗(1898年~)。
12月21日
「労働世界」100号、次回より日刊「内外新報」に改称。
翌明治35年1月「内外新報」発刊。3週間で廃刊。
4月3日「労働世界」復刊(月3回)。
12月23日
オーストラリア、連邦移民制限法成立。労働賃金の安さを理由に非白人の永住を禁止。白豪主義的な移民制限法。
12月23日
伊藤元老、ロシア外相に不公平点指摘し回答保留。この日、ベルリンよりロンドンに向かう。
12月24日
ロンドン・ニューヨーク・天津・シドニー・モントリオール各領事館を総領事館に昇格。
12月24日
シュトゥットガルト、「イスクラ(花火)」第1号発行。プレハーノフ、ヴェラ・ザスーリッチ、アクセリロードらの「労働解放団」(1883)とマルトフ、レーニンらの「労働者階級解放闘争同盟」の結合
12月25日
荒畑寒村(14)、勤務先の英国人羅紗商リチャード・ホーショ商会からクリスマスに賞与金5円を貰い、新刊の「透谷全集」「藤村詩集」を買う。
12月25日
財政問題について政府・政友会首脳会談。妥協成立。
12月26日
ウガンダ鉄道、(モンバサからビクトリア湖)開通。ビクトリア湖畔のキスム到達。
12月26日
スウェーデンのアウグスト・ストリンドベリの戯曲『死の舞踏』、初演。
12月27日
鉱毒地救済婦人会、東京の学生に鉱毒地視察を訴え、1100余名の大学、専門学校、中学、学生、安部・木下・内村らに引率され鉱毒被害地訪問。以後、学生の救済運動始まる。
30日、視察報告会。学生鉱毒救済会組織。学生鉱毒救済会を解散させられた後、青年修養会を設置、のちの谷中村事件まで運動継続。
12月27日
マレーネ・ディートリヒ、誕生。
12月29日
東海道線急行列車に食堂車ができる。
12月29日
桂太郎首相、伊藤博文に露との商議開始前に対英商議完結の意向を表明。
つづく
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