〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ1
〈目次〉
1.視点
2.婦人矯風会と慈愛館
3.足尾銅山と河川、土壌汚染、農民の疲弊
4.婦人矯風会と鉱毒問題
1)木下尚江と大関和
2)木下尚江の鉱毒問題への傾倒
3)矯風会の廃娼運動の全国展開
5.鉱毒地救済婦人会の設立
1)田中正造の矯風会への接近
2)鉱毒地訪問から鉱毒地救済婦人会の発足へ
3)破竹の演説会と世論の沸騰
6.鉱毒地救済婦人会の政治運動への旋回
7.小括
1.視点
女性に焦点をあてた研究
・井手文子「足尾鉱毒問題と女性」『田中正造とその時代』vol.3、青山館、1982年
・阿部玲子「足尾鉱毒問題と潮田千勢子」『歴史評論』No.347(1979年3月号)
・田村紀雄「押し出し―農家の女たちの登板」『田中正造をめぐる言論思想』(社会評論社、1998年)
「川俣事件の「押し出し」における農家の女たちの当事者運動および、男性抜きの女性運動として、そして「下からの運動」について無名の鉱毒地の女性たちのアナーキーに闘う姿をリアルに描」(山田)く。
「本稿の目的は、足尾銅山鉱毒事件(以下、鉱毒問題)という社会問題、生活問題に対し、当時の女性たちがどのようにそれを受け止め、女性運動として、被災した鉱毒地の人々の運動と生活支援を展開したかを鉱毒地救済婦人会という側面から明らかにしようとするものである。鉱毒地救済婦人会の動きを日本基督教婦人矯風会(以下、矯風会)の運動との関連で捉え直し、矯風会の運動のなかで鉱毒問題とはなんだったのか、について再整理し、当時の女性運動の一面を明らかにしたいと思うのである。鉱毒地救済婦人会を設立した中心的な女性たちのその多くは、会長の潮田千勢子をはじめとし矯風会のメンバーである。彼女たちは鉱毒問題に、田中正造や木下尚江、島田三郎など、当時の議員やジャーナリストと連携しながら、どう取り組んだのだろうか。矯風会の機関誌『婦人新報』および関連資料(『婦女新聞1)』)より解き明かしたい。矯風会の先見性と政治性、社会性、そして女性運動と慈善事業の限界性について新たな知見を提供できればと思う。」(山田)
註
1)1900年(明治33年)5月10日、福島四郎によって東京・神田三崎町で創刊。当時は、創刊まもないとはいえ、女性のための啓蒙週刊誌として影響力を持ち始めていた。
2.婦人矯風会と慈愛館
1874(明治7)年、米国基督教婦人矯風会がオハイオ州クリーブランドで発足。中心的運動は禁酒運動。
1883年、世界基督教婦人矯風会結成。
1886(明治19)年12月6日、日本橋教会で「東京婦人矯風会」発会。初代会頭矢島楫子2)、会員56 名。
1888(明治21)年、機関誌『東京婦人矯風会』発刊。
1893(明治26)年4月3日、全国組織が成立し「日本婦人矯風会」と改称、会頭矢島楫子、本部を東京、千代田区一番町女子学院内に置く。『婦人矯風雑誌』発刊。
1895年、『婦人矯風雑誌』発行停止処分を受け、『婦人新報3)』と改称して発行。
「世界の婦人矯風会は禁酒同盟であったが、日本基督教婦人矯風会の目標は禁酒にとどまることはなく、一夫一婦制、公娼廃止という「人権闘争」、さらに暴力反対、平和運動であり、中心的女性運動団体となった。」(山田)
明治27年、婦人矯風会事業として「慈愛館」を開所。「醜業婦」を教導し養成する会館としての役割をになう。
潮田千勢子は「醜業婦と申しましても、一度泥土のなかに陥りました者ばかりでなく、将に醜業婦に陥らんとする貧人を養ひたいと云う目的で建てたので御座いますが、是れはなかなか困難の事で御座いまして……結果をもみませぬ……」4)と述懐。
この「慈愛館5)」がのちに鉱毒地被災農民の子女を受け入れることになる。"
註
2)矢島楫子;徳富蘇峰・徳冨蘆花の叔母。家父長制度のもと夫の飲酒と暴力に苦しんだ。離婚、その後、既婚男性と恋愛をし、出産シングルマザーとなった。当時の女性としてはきわめてタフな女性。矢島楫子の人生についての詳細は、久布白落実『矢島楫子伝』に詳しい。
また、三浦綾子の小説『われ弱ければ』(小学館)のモデルは矢島楫子である。
3)『婦人新報』は現在も発行され続けている。
4)「慈愛館のことに就て」『婦人新報』18号(明治31年10月20日)
5)DV シェルター「ヘルプ」として今日もその社会的役割をになっている。
3.足尾銅山と河川、土壌汚染、農民の疲弊
1877(明治10)年、古河市兵衛が、相馬家と共同で渡良瀬川上流の足尾銅山の経営を開始。
明治12年夏、栃木県渡良瀬川で、魚類数万尾が原因不明浮上、翌年夏も同様の事件が発生6)。
1880(明治13)年1月、渋沢栄一が足尾銅山の共同経営に参加7)。
同年、栃木県当局は、渡良瀬川の魚類は衛生上害があるとの理由で、捕獲・売買および食用に供することを禁止。
1881(明治14)年頃より、渡良瀬川の鮎や鱒などの魚類、激減する8)。川の水によって皮膚疾患が生じる場合も見受けられるようになる。
1985(明治18)年、栃木県の勧業諮問会で、渡良瀬川の汚染が論議されるも原因は不明。
明治20年6月、栃木県梁田郡の梁田宿外四カ村用掛の記録には、渡良瀬川について「水源の足尾に銅山が開けてより。鉱毒水が流出し、魚類を減らし、絶滅に近くした」9)とある。
註
6)、7)、8)、9)飯島伸子編著『公害・労災・職業病年表( 新版)』すいれん舎 2007年
1884・1885(明治17.18)年を境に足尾銅山は急激な進歩を遂げる。
銅山操業には、坑内支柱材等のため大量の木材が、またボイラーの燃料として薪・木炭が、精錬過程においてコークスの代わりとして木炭が、夫々使用され、それらは銅山周辺の山林資源でまかなっていた。
精錬過程で発生する亜硫酸ガスとその他の有毒ガス、煙塵による山火事の頻発によって周辺の山林は被害を受けていた。
銅山の進歩とは裏腹に、渡良瀬川沿岸の農作物が激減した。銅山周辺の栃木県松木村など5村に精錬所排出ガスによる農作物被害が発生し 、松木村を除く他の村は古河と示談した。
1888(明治21)年7月、栃木県下都賀郡、安蘇郡、足利郡の渡良瀬川沿岸が洪水にみまわれる。
翌1889年も洪水があり沿岸八郡に被害が出る。
それまでは洪水は肥沃な土砂を運び、農作物の豊作をもたらしていたが、今回は農作物に深刻なダメージを与える「異質の洪水10)」だった。
1890年8月、翌1891年9月と毎年洪水にみまわれるようになる。とくに90年の洪水は「古今未曾有の大洪水11)」であり、栃木、群馬両県の堤防を決壊させた。
註
10)鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』p.31 三一書房、1974年
11)永島与八『鉱毒事件の真相と田中正造翁』1938年
この頃から、被害民が動き出す。
・1890年(明治23年)、4月、足利郡吾妻村は臨時村会を開き、県知事へ上申書提出、12月、吾妻村で村会決議、足尾銅山鉱業停止要求を県当局に提出、
10月、安蘇郡植野村有志、8月洪水の泥土分析を栃木県立病院に依頼、12月、栃木県議会、知事に対し、鉱毒除外を求める建議提出
・1891年(明治24年)12月18日、田中正造、足尾鉱毒に関する質問書を衆議院に提出、これに対して、政府は「被害の原因不明につき調査中。鉱業人は独、米より、粉鉱採取器を購入し、鉱毒流出予防準備整えた」と答弁
・1892年、足尾銅山周辺山林の荒廃ぶり、濫伐、亜硫酸ガス、野火による裸地化が問題となる。
・1896年(明治29年)12月21日、群馬県邑楽郡渡良瀬村早川田雲龍寺に群馬・栃木両県鉱業停止請願事務所設立
・1897年(明治30年)3月2日、被害民 第1回押し出し(大挙上京請願運動)
同年3月24日、第2回押し出し
同年5月27日、政府(東京鉱山監督署長)、足尾銅山に対し第3回の鉱毒予防工事命令。目こぼしで完成。監督所長はのち古河に入社。
・1898年(明治31)年9月3日、足尾地方に大雨。足尾銅山沈殿池の一つが決壊し、渡良瀬川大洪水となる。
同年9月26日、第3回押し出し
この頃より、足尾銅山、脱硫塔設置で本山に精錬が集中し、松木地区への亜硫酸ガス濃密になる。松木村民、現金収入途絶え、食物なし。健康被害多発。正造のいらだちは最高潮に達す。
・1900(明治33)年2月8、9日、足尾鉱毒被害民、請願書を貴衆両院、内閣総理大臣、農務省等に提出、9日、田中正造、衆議院で鉱毒問題に対し何らの対策をとらない政府を批判する質問演説、
2月13日川俣事件。17日、正造の「亡国演説」。
木下尚江、毎日新聞に『足尾鉱毒問題』掲載(2月26日~3月17日、6月に単行本発刊)、
7月21日、神田青年館で足尾銅山鉱毒調査有志会設立。
・1901(明治34)年5月21日、鉱毒調査有志会、足尾鉱毒被害地の死亡調査を決定、内村鑑三ら現地調査、
10月23日、田中正造代議士辞任、
11月20日、鉱毒調査有志会「足尾銅山鉱毒調査報告第一回」発表。
12月10日 田中正造、天皇直訴。
「1900 年代に入る前までは、鉱毒事件はまだ、一地方の小さな鉱毒問題にすぎなかった。20世紀にはいって、ジャーナリズム、女性団体などと結びつきながら、全国化していった。」
つづく
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