大杉栄とその時代年表(377) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ1 より続く
〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ2
4.婦人矯風会と鉱毒問題
1)木下尚江と大関和
毎日新聞は、木下尚江が「足尾鉱毒問題」を連載するなど徹底的にキャンペーン。
そして、当時の廃娼運動によって、矯風会と木下尚江・島田三郎・田中正造を結ぶ線が形成される。
木下尚江は、故郷長野で受洗していて、すでに廃娼運動や禁酒運動に関わっていた。
1897(明治30)年、日本最初の普選運動をおこし入獄、
出獄後の明治32年、青年問題、婦人問題、労働者問題をモットーとする島田三郎主宰の毎日新聞12)に強く惹かれ入社。島田三郎も植村正久によってキリスト教に入信していた。
木下は入獄前、新潟の高田教会で開催された廃娼演説会に登壇したとき、高田女学校の生徒取締であった大関和と出会う。大関は、矯風会ゆかりの桜井女学校の看護学校出身で矯風会の会員でもあり、のちの東京看護婦会会頭である。
大関は木下と出会った直後、『女学雑誌』に「男女同権のさきがけにまず廃娼を」と投稿。
それを読んだ木下は、感激し、大関に激励の手紙を書いた。「基督教主義の学校で西欧先進国のデモクラシーにもとづく教育を受けても、卒業後は嫁して家父長的家族主義の中に埋没してしまうのが大半であるのに、あなたは社会の一線で世の中の改良のために活躍する新しい生き方をしていて、未来の女性の姿だ13)」という賛辞の手紙だった。
大関は離婚を経験し、30歳過ぎで、子どもを母親に任せて看護の道を歩んでいた頃であった。年齢は木下より11歳年上だった。大関は木下が入獄中になんども差し入れをし、二人の間には特別な感情が芽生えていたといわれているが、結局、大関は周囲の反対にもあい、木下との恋愛を成就させることはなかった。大関は、木下に看護学校の後輩で弟子でもある和賀操(矯風会の会員)を紹介し、木下は操と結婚した。木下と矯風会は個人的に強いネットワークを持っていた。島田三郎の妻信子も矯風会の主要メンバーであった。
註
12)現在の毎日新聞とは無関係である。
13)尾辻紀子『近代看護への道―大関和の生涯』新人物往来社、p.170 1996
木下はまだ若く、無名ではあったが、廢娼を唱え、廃娼学術演説会で「公娼主義の迷信を破る」と題する演説を行うなど熱心に全国を遊説し、『廢娼之急務』を執筆(発行は1900年10月12日、博文社、島田三郎の序)している。
木下はまた、1900年の3月2日、吉原から逃げ、毎日新聞者に助けを求めてきた「津田きみ」という少女を木下らが楼主と談判し、自由の身にした。「きみ」はしばらく潮田千勢子のもとで暮らし、翌年6月、矯風会「慈愛館」に入り、その後、横浜の共立女学校に学んだ14)
註
14)日本キリスト教婦人矯風会編『日本キリスト教婦人矯風会百年史』ドメス出版1986 年p164
2)木下尚江の鉱毒問題への傾倒
1900(明治33)年2月、木下は、島田三郎の命により『毎日新聞』特派員として足尾鉱毒問題調査のため、現地に赴く。
木下は、啓蒙主義教育の刺激を受けて育ったので、当初は、足尾鉱毒問題を日本の工業化にとっての障碍、「我が国運の障碍」と捉えていた。田中正造が足尾銅山の鉱業停止を叫んでいたが、木下は操業停止など論外と考えていた。何故なら、足尾銅山によって、生命を支える者は「所員と坑夫と其の家族と合わせて一万六千五百」にのぼり、「鉱業停止は直に被害の荒地をして、蜜流れ乳滴ることを得せしむるに非ずして、偶々一方山中に於いて、男女老若一万六千の飢餓を生み出すに過ぎず」という現実があると考えていた。
しかし、現地調査により、その惨状を実視し、被害民や田中正造が鉱業停止を叫ぶのは無理がないと考えるようになる15)。木下尚江は毎日新聞に現地ルポ『足尾鉱毒問題』(2月26日号〜3月17日号)を発表し、6月にはそれを纏めて毎日新聞社から刊行する。
註
15)木下尚江全集vol.1 p382、教文館、1990 年
3)矯風会の廃娼運動の全国展開
1889(明治22)年6月27日、矯風会は、一夫一婦の建白書を元老院へ提出する16)。
同年11月28日、群馬県議会が廃娼建議を可決し、それに呼応して東京でも廃娼演説会が開かれる。
同年12月9日、矯風会廃娼演説会で、植木枝盛、島田三郎が、1890(明治23)年3月8日には、島田三郎、巖本善治が講演している。
3月21日、前橋の青年廃娼協議会結成会に潮田千勢子と佐々城豊寿17)が出席。
5月24日、全国廃娼同盟会が発足、矯風会も加盟団体となる。
同年、集会及び政社法について、首相と司法相に建議提出。衆議院規則案の改正要望し、「婦人の傍聴禁止削除に成功」している。さらに、貴衆両院議員に公娼制度廃止を請願、各大臣に廃娼の決議書を呈送するなど、政治的な運動を精力的に展開する。
1892(明治25)年、一夫一婦の請願(刑法民法改正)と在外売淫婦取締法制定を貴衆両院と政府に提出する。
「これは毎年続行されるがなかなかとりあげられなかったが、矯風会は廃娼運動とそれに連なる一夫一婦の請願を粘り強く展開していた。特筆すべきことは、運動のひろがり、会員の全国化である。本拠地東京のみならず、地方に支部をもちそこを拠点に全国に矯風会の運動は広がりを持つことになるのである。
明治34年の『婦人新報』第49号に掲載された当時の全国の矯風会一覧(明治34年4月調査)によれば、明治26年名古屋、27年横浜、28年は外国人、29年東北宮城、30年北海道函館、室蘭、関西神戸……31年は上毛基督教矯風会18)が発会、この年は実に14箇所、32年5箇所、3 年7箇所と全国に矯風会の運動の拠点が広がっている。さらに長崎、長府、京都同志社、堺、加えて、新設の北海道旭川と京都矯風会などの名がある。矯風会は全国の教会を基盤としつつ2000人をはるかに超える正会員と特別会員(男性)によって支えられた巨大なキリスト教に基づく女性のための女性による全国的組織だったことがわかる。」(山田)
註
16)著名人男女を含めた800余名の署名連印で提出されたが、原本は残っていない。ただ、『女学雑誌』161号に、建白運動の中心人物だった湯浅はつ(矢島楫子の姪)が寄稿している。内容は次のとおり。「儒教は、遺徳の活気なく、且その教へ妾を卑しめす、仏教は女人を以て悪人となし、仏の熱心なる信者の中若しくは高僧の中には数婦を蓄ふるものおおけれは以て頼みとするに足らず、只基督教は一夫一婦を主張するものなれは必す之によらざる可らす。」「民法若しくは婚姻法の如きものにおいて男女の姦通を罰する為・・箇条を設けんことを希望す。」
17)佐々城豊寿は相馬黒光の母方の叔母、黒光の夫の相馬愛蔵は松本中学出身で、木下尚江と同窓であり、親しかった。
18)上毛基督教矯風会の基盤は安中教会や前橋教会など。安中教会は、新島襄ゆかりの教会で、初代牧師は海老名弾正。5代目牧師柏木義円は、当時地域ミニコミ誌の先駆けである「上毛教界月報」を発行し、反戦・非戦を終生訴え続けた。全国先駆けの群馬の廃娼運動の最初は真下珂十郎による安中遊郭廃止請願だった。真下は安中教会ゆかりの人物であり、湯浅治郎(後に群馬県議会議長・国会議員を歴任、廃娼運動の中心となる)の義兄。ともに新島襄より洗礼を受けた30名の一人。
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