2025年1月21日火曜日

大杉栄とその時代年表(382) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ2(おわり)

 

1907年(明治40年)強制破壊後も谷中残留民は仮小屋を作り、戦いを続けた

大杉栄とその時代年表(381) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ1 「田中翁が絶叫して『鉱毒地に憲法なし』と言ふ、吾人は其の決して詭弁に非さるを信ずるなり」 より続く

〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ2(おわり)


明治34年12月10日の田中の直訴は、木下にとっては意外で心外な事件だった。

木下は、国王を政治の圏外に置くという「立憲国共通の原則」に照らして、「帝王に向て直訴するは、量れ一面に於て帝王の直接干渉を誘導する所以」であると考えており、田中の行為を「立憲政治の為めに恐るべき一大非事」、「立憲時代の一大怪事」とみなし、田中の思想のなかに「専制時代の尊王心」、「旧式の尊王心」を認めて厳しく批判している(「社会悔悟の色」明治35年1月)。

木下は、その後も田中の直訴に対してだけは、強い嫌悪を隠さなかった。権力や権威からの個人の独立自由を生涯重んじた木下にとっては、実は文明や立憲政治の論理以前の問題として、天皇に訴えるという行為そのものが受け容れられなかった。

木下は、のちに立憲主義の思想を放棄してからも、田中の生涯を辿るさいに政党脱退、議員辞職には触れながら直訴を無視したり、直訴を「立憲時代に在りては寧ろ旧式なる軌道外の行動」と評したり、「直訴は翁の窒息だ」と断言している。晩年には、「翁の直訴と聞いて、僕は覚へず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた」「僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかった」とまで述べている。

木下は、田中の直訴の結果として生じた世論の強い反響のなかで、ほぼ1日おきに鉱毒地救済演説会に登壇し、12月27日の学生大挙鉱毒地視察を引率し、翌明治35年初頭の学生の路傍演説を支援し、1月6日~8日、18日、26日にも鉱毒地を訪問し、2月6日~15日は関西遊説というように、鉱毒問題解決のために東奔西走している。

1月6日~8日の鉱毒地訪問には田中が案内役を務めたが、「田中正造が、きっと敵打ちしてあげますぞッ」という被害民の前での田中の叫びとともに、越名沼辺の旅宿で就寝前に田中が洩らした「政治をやって居る間に、肝腎の人民が亡んでしまった」という独語が木下の心に強く焼きつけられた


明治35年6月、田中は前々年の川俣事件第一審における大欠伸が官吏侮辱罪に問われて40日間入獄するが、入獄の日に木下は、田中の休養と健康の恢復とを祈っている(「田中正造翁の入獄を送る」6月16日)。その獄中で新約聖書をはじめて読んだことが田中の生涯の決定的な転機となったというのが、大正昭和期の木下が終始示した見解である。

田中は、翌明治36年2月から「非戦論」ないし「世界海陸軍備全廃論」を唱えるようになるが、のちに木下はしばしばそのことに言及している。

また田中は、明治36年10月10日神田青年会館での学生歓迎会において、傍聴した木下の理解によれば「訣別演説」をしたが、そのなかで「日本一たび亡びて、聖人日本に出づ」日本の亡国および聖人の出現を予言したようであり、その予言を後年の木下は特別に重視することになる。

さらにその頃から田中は、「政治の為めに二十年、損をした」という極端な政治否定を意味する歎声をしばしば洩らすようになったという。

明治35年後半以後の田中は、第二次鉱毒調査委員会の渡良瀬川遊水池設置計画によって運動が分断され衰退するなかで、次第に孤立していった。そして日露戦争による熱狂には背を向けて、明治37年7月30日、遊水池にされる谷中村に移り住み、谷中村滅亡を阻むための困難な活動に没頭した。

一方木下は、明治35年夏の前橋での衆議院議員選挙に立候補し落選したのちも社会主義運動に奔走し、やがて日露戦争の切迫とともに非戦論を唱道して、明治37~38年の日露戦争中は平民社に依拠して非戦と社会主義との大義を叫びつづけた。後年木下は当時の自分を「若き義人」(「余が思想の一大転化と静坐の実験」明治44年11月)と呼んでいるが、その「義人」の心中では、基督の愛の思想に対する信仰が深まるとともに、社会主義が前提する文明の進歩の観念や政治運動の方法に対する疑問、神権主義の思想に束縛された日本国民の特質に対する疑問、そして自分自身の生き方に対する疑問が徐々にふくらんでいた

この時期二人の関係は次第に間遠くなったようである。

まだ明治36年には木下は、鉱毒地の子女を養育していた慈愛館の運営に関して9月8日に田中に返信を認めているし、12月6日には佐野町の下野禁酒会の演説会に田中と同行している。

しかし明治37~38年になると、二人の交渉の記録は絶無となる。その2年間木下は、鉱毒問題についても、毎日新聞社長島田三郎に宛てて「僕は足下に従て足尾鉱毒事件を絶叫したりしことを歓喜するもの也、足尾鉱毒事件ばかり資本家政治の趨勢と害毒とを日本国民に教授せる実例無ければ也」(「島田先生に呈す」明治38年2月)と社会主義の見地から過去形の発言をした以外には一切言及していない。

明治38年9月、日露戦争の終結とともに平民社が解散し、木下ら基督教社会主義者が唯物論社会主義者と分離して新紀元社を結成した。これは、木下の社会主義運動の再出発となるとともに、田中との関係再開の端緒となった(昭和4・5・31嶋田宛)。

明治39年半初め木下は、古河鉱業の副社長原敬を内務大臣とする西園寺内閣の成立を見て鉱毒問題の「埋葬」を予感し、「野に叫ぶ一巨人」田中正造に思いをはせて、「皆ンな、気を付けろよ、泥棒が這入ったぞ、泥棒が這入ったぞ」という田中の叫びを当代社会の一大警鐘としている(「鳴呼、義人の声」明治39年2月)。

4月22日、田中は新紀元社講演会に登壇して栃木県吏による谷中村堤防破壊の切迫を訴えた。久々に田中の雄弁に接した木下は、その風貌が「聖者」のように輝くのを見て、「一種の神感」に打たれている。木下は、谷中村と田中とを救おうとして、4月27日には田中とともに佐野町で演説し、翌日は谷中村を見張ったが、結局30日に谷中村堤防は破壊された。翌日木下は、「暴悪赦すへからす」とだけ書いた葉書を田中へ送っている。

当時の木下にとって谷中村問題は、日露戦後の新時代にあっては「資本家階級の利益」が政権を左右し「資本家政治」が猛威を奮うという木下の現実認識を確証するものだった。


木下は、5月22日に田中とともに古河町で演説したのち、『新紀元』誌上で、政府が法律を悪用して谷中村を圧迫する事実を例示して、「資本家政治の機関に対して、公利公益を託することの危険」を訴え、「若し斯の如くんば法律の存在は、法律の皆無なるよりも更に危険なり」と叫んでいる(「現政府暴悪の一例」明治39年6月)。

そして7月1日、ついに谷中村が藤岡町に合併されて行政上消滅したことのうちに「道義も法律も一切を蹂躙したる資本家政治、黄金万能力の勝利」を見てとるとともに、「鳴呼、鉱毒問題は亡びたり、然れ共資本家政治の大弾劾者、人道の大戦闘士田中正造は、依然銀髯を揮って其声を絶たざる也」と述べて、そのような現実と戦う田中の姿をいよいよ大きく浮かび上がらせていった(「是れ何の黙示」明治39年8月)。

さらに木下は、再び官吏侮辱罪容疑で拘引された田中を7月6日栃木町に見舞い、翌日谷中村を訪問しているし、7月19日には300円の大金を田中に寄付し、翌日田中を泊めており、8月22日にも田中とともに古河町で演説をしている。そして9月9日佐野町の演説会では田中の演説にただ拍手喝采するだけの聴衆を痛罵し、翌日田中の案内で小中村の生家を訪問している。

時系列的には前後するが、明治39年5月6日に木下の母くみが没したことを契機に、それまで矛盾分裂を深めていた木下の思想に大変動が生じた。

現実世界を愛の世界へと根本的に改革するために、正義に訴えて多数の人々を組織して権力を獲得する政治革命の道を追求していた木下は、その可能性とそれ以上にその意味とに対する疑問から、ついにその道を否定し、個々の人間が本来の霊能を発揮して直ちに人類同胞の愛の世界を実現する「人生革命」の道をもっぱら追求することに転じた。そこには、日本国民が神権主義の思想に深く束縛されていることについての新しい認識が作用していただけでなく、明治30年代の木下を行為へと駆りたてていた超越的な神観念がついに消滅した結果、木下自身が自己の権力欲に直面して内的に挫折したことが作用していた。このときから木下は、「義人」の生き方を棄てて「聖者」への道を歩みはじめた。そしてそのとき木下は、強い自己否定の衝動に駆られて、過去の自分を事実以上に否定的にいわば「山師」として理解したということもできる。そこで木下は、一切の罪過を臓悔して過去の生活から脱却することを決意して、谷中村から帰京した翌日の7月9日にそのことを石川三四郎に告白し、7月10日にその告白をはじめて記した(「告白をもて序に代ふ」)。そして7月末日に毎日新聞社を退職し、小中村訪問翌日の9月11日に幸徳秋水ら社会主義者と訣別し、10月9日に新紀元社を解散して、10月31日には伊香保の山中にこもってしまった「人の世が政治的に救はれ得るものと思って居たことの浅劣を、今更ら漸塊に耐へない」とは、伊香保山中最初の著作『懺悔』(明治39年12月)の一節である。

そのように思想を変化させた木下にとって、田中正造は極めて大きな存在として現れていた。

小中村訪問記「義人の村」のなかで木下は、8年間の新聞記者生活を振り返って「革命の真個の生命を僕に教訓して呉れたものは実に足尾鉱毒問題である」と述べたうえで、「僕は今ま新聞の泡沫事業から脱して、始めて稍々永遠なる人生革命の意義を沈思し、其の前途の微光を認むることが出来たように感ずるのであるが、翻って田中翁を見る時に、僕は実に其の驚くべき発展、其の聖化に満腹の畏敬の情を捧げない訳にはならぬのである」と告白しており、真個の革命とされる「人生革命」の模範として田中を位置づけている。

そしてそこには田中の生涯についての木下独特の理解の一端がはじめて示されており、8年前の田中は「一個政治家の翁」であり「権謀術数の好策士」だったが、間もなく政党を脱し議会を捨て「不羈独立自由自在なる一個の平民」となって「国家の暴悪の弾劾」に着手した、つまり「翁は六十を越してから始めて勇健なる奮闘の新生涯に入った」、そして今や「詩語」を発し「活きたる宗教」を蔵する田中はまさに「一個の予言者」であるとされている。田中が「政治家」をやめて「予言者」としての「新生涯」に入ったというその理解は、木下が政治革命を否定して「人生革命」を追求するようになったそのときはじめて抱かれたものだった。


おわり


0 件のコメント:

コメントを投稿