2025年1月22日水曜日

大杉栄とその時代年表(383) 1902(明治35)年 軍備拡張・植民地経営・殖産興業を軸とする「戦後経営」による財政膨張。増税。 日本最初の中国留学生のための日本語学校・弘文学院創立 清国留学生会館設立 中国共産党創設メンバ13人中、日本留学生4人  

 

嘉納治五郎

大杉栄とその時代年表(382) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ2(おわり) より続く

1902(明治35)年

この年

軍備拡張・植民地経営・殖産興業を軸とする「戦後経営」による財政膨張。増税。

この年の一般会計歳出は2億9千万円。1895(明治28)年度は8500万円、96年度は1億7千万円と増加を続ける。

この間、海軍が、第1期拡張(第9議会)・第2期拡張(第10議会)と拡張予算が成立し、拡張以前の経常費500万円がこの年は4倍以上に膨脹。

陸軍は、第2次伊藤博文内閣のとき兵力2倍増強が決定され、第1期拡張・第2期拡張予算が、第9・10両議会で承認され、経常費はこの年度には拡張以前の3倍に膨脹。

財源は、清国の償金や公債発行で一部支弁するが、増税に依拠。

第9議会(第2次伊藤内閣)で酒造税・営業税・登録税・葉煙草専売等の増徴(2500万円純増)、第13議会(第2次山県有朋内閣)で地租増徴・地価修正・酒造税・醤油税・郵便料値上げ等による増徴(3500万円純増)、第15議会(第4次伊藤政友会内閣)で酒造税・麦酒税・砂糖消費税等の増徴(300万円純増)という増税が、藩閥と既成政党の連携によっで進められる。


この年の頃

油絵の普及

「・・・・・上野の画材屋「払雲堂」主人、浅尾丁策は、先代金四郎の思い出をつぎのように記している。


当時金四郎を何かにつけて可愛がってくれた太田六痴と言う書家があった。(中略)「オイ金さん、(中略)近頃日本の絵描きが西洋の油絵を真似てかくのがだいぶ流行ってきたようだ。ところが油絵と言うやつは、聞くところによると、絵の具はとてもネバネパしていて今までの日本筆ではどうにも具合がわるく困っているらしい。そこでダ、君は何でも工夫するのが好きな性質だから、どうだい、一番油絵筆をやってみないか」といった。

(浅尾丁策『谷中人物叢話 金四郎三代記』芸術新聞社・一九八六)


明治三十五年ごろの話で、金四郎はそれから豚の毛をもとめて鎌倉ハムの工場をおとずれた。・・・・・」(宇佐美承『池袋モンパルナス』)

〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉

弘文学院の開校

前年(明治34年、1901年)、新たに警務学堂から26名の留学生が送られることになり、嘉納治五郎(京高等師範学校長)が場所を探した結果、牛込区西五軒町三十四番地(現、新宿区西五軒町十二、十三番)の大邸宅を借りることができた。総面積は約3千坪。敷地内には樹木が生い茂り、敷石を配した日本庭園があった。その中に122坪の木造平屋建ての校舎1棟と大小さまざまな12棟の建物が点在していた。開校期日に間に合わせるため、急きょ神田在住の富豪の山崎武兵衛が所有する大邸宅を丸ごと借り受けた。

名前は、嘉納がかつて開講していた私塾「弘文館」(明治15年3月頃の開校)からとって、「弘文学院」とした。準備が整うと、嘉納は外務大臣小村寿太郎(当時)と相談の後、正規の教育機関として東京府へ認可申請を行い、この年、正式認可が下りるのと同時に、弘文学院を開校した。

弘文学院の第一期生には、鉱務鉄路学堂の卒業生5人とともに入学した魯迅がいる。湖南師範学校の教員だった黄興も在籍し、弘文学院で宋教仁、陳天華ら湖南出身者数名と知り合い、帰国後に革命結社「華興会」を組織することを相談した。『新青年』を発行して新文化運動を提唱し、五四運動の火付け役となった陳独秀も、短期間だが同校にいた時期がある。また、1921年の中国共産党第1回全国代表大会の参加者のひとり、李漢俊の兄である李書城も、同校に学んだ。李書城は後に孫文・国民政府の高級軍人になった人だが、毛沢東も参加した中国共産党第1回全国代表大会の開催地は、李書城の上海の邸宅である。その他にも多くの留学生が中国革命に携わっている。横浜華僑の文学者で後に僧侶になった蘇曼殊の従兄・蘇維翰も一期生である。

清国留学生会館

清国留学生会館は、1902(明治35)年、駐日清国公使の肝いりで設立された。住所は、駿河台鈴木町十八番地(現、神田駿河台二丁目三番地)。間口5間(約9m)、奥行き10間(約18m)ほどの小さな二階建ての木造家屋で、間取りは、一階に売店兼事務室、ラウンジ、会議室があり、二階のいくつかの小部屋では日本語の補習などを行っていた。留学生たちはラウンジで中国語の新聞を読んだり、雑談に興じたり、同郷者同士の会合を開いたりと、便利に使っていた。

魯迅は、小説『藤野先生』のなかで、清国留学生会館について書いている。


「中国留学生会館の門衛室ではちょっとした本が手に入ったので、ときどき顔を出してみるだけのことはあった。午前中なら、奥のいくつかの洋間で休むこともできた。だが、夕方になると、あるひと間の床がきまってドスンドスンと鳴り出し、そのうえ部屋中にもうもうたる埃が立ちこめるのである。消息通に尋ねてみると、「なあに、ダンスの練習をやっているんですよ」とのことだった。」


留学生の中には、東京で流行っていたダンスホールへ入り浸ったり、日本人女性との恋愛に熱中して本国送還になる者もいて、そうした処分は清国留学生会館の掲示板に張り出された。

1903(明治36)年、東京で、清国政府から派遣された駐日学生監督の姚煜(よういく)が、女子留学生にセクハラを働いたことが発覚した。

留学生たちはみな怒り、なかでも弘文学院に在籍していた陳独秀や張継ら、5人の革命派の者たちは公使館へ押しかけて、ナイフをチラつかせて姚煜を脅した。姚煜は跪いて命乞いをしたが、5人は彼の辮髪を切り落とし、意気揚々と引き上げ、清国留学生会館のラウンジの壁に「これは姚煜の辮髪である」という張り紙を付けて吊りさげた。

プライドの象徴であった辮髪を失った学生監督は、五人を「不良学生」として日本政府に強制送還の処分を要請し、自分も人知れず本国へ帰還してしまった。当時の清国では、性犯罪者が逮捕されると「斬髪の刑」に処せられたため、辮髪のない姿で街中を歩くと、それを見た人々から嘲り笑われるのが常であった。姚煜も恥ずかしくて東京にいられなかったのだろう。

中国共産党創設メンバと日本留学生

1921(大正10)年に第1回全国代表大会を開いて中国共産党を立ち上げたメンバーは13人(平均年齢27.8歳)いたが、全員が大学卒か在学中の男性であり、日本留学生が4人いた。

日本留学組の四人は、①東京の第一高等学校に在学中の李達、②法政大学を卒業直前の董必武、③鹿児島の第七高等学校を卒業して京都大学へ進学が決まっていた周佛海、④東京大学土木工学科卒業の李漢俊である。

残りの9人は、⑤⓺北京大学在学中の張国燾と劉仁静、⑦北京大学卒業の陳公博、⑧9済南の高校生の王尽美と鄧恩明、⑩毛沢東、⑪何叔衡、⑫包恵僧、⑬陳潭秋の4人は各地の高等師範学校の卒業生。

日本留学について言えば、この13人から「おやじ」と慕われたリーダーの陳独秀は、日本へ5回も短期留学して斬新な思想を吸収したし、「兄貴分」でサブ・リーダーの役目を果たした李大釗は、早稲田大学を卒業後、北京大学教授に就任して間がなかった。

要するに、中国共産党の創設時のメンバーは日本と縁が深く、直接間接を問わず、当時世界で流行していた社会主義思想を、日本から惜しみなく吸収していたのである。

日本留学組の中で異彩を放つのは湖北省出身の李漢俊で、彼は20世紀初頭には珍しい「帰国子女」であった。1902(明治35)年、李漢俊が実兄の李書城の留学に従って来日したときは14歳だった。全寮制の暁星学校に入学して6年間を過ごし、名古屋の第八高等学校を経て、1915(大正4)年に東京帝国大学土木工学科へ進学した。

つづく

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