2025年5月10日土曜日

大杉栄とその時代年表(490) 1904(明治37)年2月23日 日韓議定書調印 第一条、「大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ、施設ノ改善ニ関シ其忠告ヲ容ルル事」。第四条、第三国の侵害や内乱で大韓帝国の安寧や領土の保全に危険のある場合は、大日本帝国が臨機に必要な措置を取り、大韓帝国は「十分便宜ヲ与フル事」

 

李容翊

大杉栄とその時代年表(489) 1904(明治37)年2月20日~22日 「夏目先生の『リア王』の講義が今日から始った。第二十番の大教室は押すな押すなの人波のはんらんであった。『マクベス』以上の大入繁昌札止め景気であった。文科大學は夏目先生たゞ一人で持つて居らるゝやうに感じた。すばらし景気だ。」(金子健二『人間漱石』)」 より続く

1904(明治37)年

2月23日

韓国、日韓議定書調印

日本軍の韓国駐屯と韓国の協力。韓国政府は日本政府を確信し、朝鮮の財政・外交顧問に日本人を任用し、施政の改善に関する忠告を容れ、これに反する協約を第三国と結ばない、また日本は軍事上必要な韓国の土地を臨機収用できるなどの内容。2月27日公布。

親露派・反日派要人の解任。調印に反対した李容翊は、この日夜、日本軍に拉致され日本に移送(「遊覧」)、10ヶ月軟禁。

前年10月から、日本は韓国皇帝と密約をかわす工作をしていた。

①日本は韓国の独立と韓国皇室の安全を確保する、

②韓国は日本の不利益になるような協約を第三国と結ばない、を骨子とするもの。

韓国は、日本とロシアのいずれかに加担すれば、独立を失うおそれがあり、翌年(この年)1月21日、外相名で各国に「中立声明」を送った。

韓国の局外中立を承認したヨーロッパ諸国は、日露開戦にともなう日本の韓国中立侵犯を黙認。

2月13日に林権助公使が作成した日本案は、

第1条に「大韓帝国政府は、全然大日本帝国に信頼し、大日本帝国政府の助言を受け、内治外交の改良を図る可し」とあり、日本が韓国にたいし保護・指導の立場にあることを明文化した。

第4条には軍事協力条項として、「第三国の侵害に依り、若(もし)くは内乱の為め大韓帝国の皇室安寧或は領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速に臨機必要の措置を取る可し。而(しこう)して大韓帝国政府は、右大日本帝国政府の行動を容易ならしむる為め、十分なる便宜を供する事」とした。

さらに日本政府は、この林案の第4条に「大日本帝国政府は、前項の目的を達する為め、軍略上必要の地点を占有することを得べし」を加えて修正した。

強国政府内では、李容翊度支相らが、日露戦争にロシアが勝利した場合、韓国侵略の口実になる、として強く反対したが、大三輪長兵衛の説得工作もあり、李址鎔外相署理の林公使との交渉では、第1条の「助言を容れ・・・」を「忠告を容るる事」に改めるなど文言の修正要求にとどまった。

韓国皇帝・政府内外の反対のたかまりと外国の干渉をおそれる日本政府は、即時調印を韓国側に求めた。

22日、李址鎔外相署理は、記名調印した「日韓議定書」を林公使へ送り、日本政府から調印実施の訓令をうけた林がただちに調印した。

日本では、政府決定と天皇裁可だけで処理し、枢密院への諮問を省略したため、枢密院副議長東久世通禧以下15人の顧問官から政府の手続き上の「失当」を追及される。

「日韓議定書」は密約とする予定であったが、調印までに「公然の秘密」となり、新聞も概要を報じた。開戦により、もはや秘密の必要はなく、むしろ公表を有利とみた日本政府は、2月27日『官報』で公示、韓国政府にも公表を求めて3月8日『官報』に公示させた。韓国官報への条約文掲載の初例。

第一条、「大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ、施設ノ改善ニ関シ其忠告ヲ容ルル事」。第四条、第三国の侵害や内乱で大韓帝国の安寧や領土の保全に危険のある場合は、大日本帝国が臨機に必要な措置を取り、大韓帝国は「十分便宜ヲ与フル事」


〈その後の戦況〉

2月23日に軍事的圧力を背景に韓国との間で「日韓議定書」を結んだ日本は、軍隊をさらに北上させ、満州に向かわせる。

4月29日から5月初頭にかけて、日本軍は朝鮮半島と現中国領との国境を流れる鴨緑江を渡り、その川沿いを守っていたロシア軍を「鴨緑江の戦い」で撃破。

一方で、別の部隊が遼東半島に上陸し、5月に「南山の戦い」で遼東半島最狭部を守るロシア軍を、6月には「得利寺の戦い」で旅順を救援するために南下してきたロシア軍を破る。 

こうして日本軍は、旅順要塞に籠もるロシア軍と、遼東方面に集中しつつあるロシア軍の双方に迫りました。

海上においても、日本艦隊はロシア艦隊との間で戦闘を繰り返す。

2月から5月にかけて、旅順口に対する攻撃が8回にわたって行われ、これと併せて3回の「旅順口閉塞作戦」が実行される。ロシアの第一太平洋艦隊主力(旅順艦隊)が拠点とする旅順港は、入口(旅順口)が非常に狭まった湾内にあったので、港湾の入口の浅い海底に船を沈めることによって、ロシアの軍艦の出入りを妨げようというのがこの作戦。しかし、いずれも失敗に終わる。

同じ頃、ロシアはウラジオストック軍港から艦隊(ウラジオストック艦隊)を出撃させ、陸軍兵士を運ぶ日本の商船を攻撃したため、これを阻止するために日本は新たな艦隊を派遣したが、ウラジオストック艦隊は神出鬼没であり、決定的な攻撃をあたえられなかった。

8月、ようやく日本艦隊は「黄海海戦」「蔚山沖海戦」でロシア艦隊を破るが、多くのロシア艦船が守りの堅い旅順港に逃げ込む。このままでは、ロシア艦隊によって再び日本の船が襲われたり、ともすると日本の本土が攻撃されたりする恐れがあるため、日本は旅順港の攻略を急ぐ。

旅順攻撃については、3月の段階から、港とこれを守る旅順要塞を陸軍の部隊によって陸上から攻撃する方針への転換が決められ、5月にはこの攻撃を担当する第三軍が編成されていたが、この作戦は準備が不充分であった。

2月23日

西川光二郎(27)、横浜・相生座での社会主義演説会で「弱者勝つ」を演説。


つづく

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