2026年2月15日日曜日

大杉栄とその時代年表(755) 1907(明治40)年10月1日~19日 嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

 

明石元二郎

大杉栄とその時代年表(754) 1907(明治40)年10月 〈7年間のウィーン滞在中にトロツキーが知り合いになった人々〉 「リープクネヒトは教養あるマルクス主義者だったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直観、大衆と状況に対するカン、イニシアチブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそは革命家だった。まさにそれゆえ、彼は、官僚的単調さが支配し何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ばよそ者であった。いかに多くの俗物と下劣な連中がリープクネヒトを皮肉な目で見下すのを、この目で見てきたことか!。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1907(明治40)年

10月1日

服部良一、誕生。

10月1日

啄木(21)、 出社して道会議員の社長の白石東泉(義郎)と会い、編集会議に臨む。野口雨情(英吉)と三面を担当することになる。

2日、小樽区花園町十四番地西沢善太郎方に間借し、母と妻子との4人の新生活を始める。

○啄木の描く小樽。

10月1日。「遠く聞ゆる夜回りの金棒の響は函館のそれよりも忙しげ也。小樽は忙しき市なり。札幌を都といへる予は小樽を呼ぶにへ<市>を以てするの尤も妥当なるを覚う」。

10月3日、「小樽の如き悪道路は、蓋し天下の珍なり」。

また、彼の「小樽のかたみ」(「石川啄木全集」第8巻)というスクラップには、「当時小樽は、人口一〇万で、その膨張が急速であった。商港としては函館を凌駕して(北海道で)第一位に上がった。日露の協約が成立してからは、ウラジオストックとの貿易で、覇を敦賀と争っている。新聞も上田重吉(重良であろう)の小樽新聞は三千幾百号となり、約一万部を越えている」。

「小樽にきて初めて真に新開地的な、真に植民地精神の溢れる男らしい活動を見た。小樽の人は歩くのでない、突貫するのである。小樽人の特色は、執着心のないことである」。

小樽は「男らしい活動の都府」であり、「此活動の都府の道路は人も言う如く日本一の悪道路である。善悪に拘らず日本一と名のつくのが、既に男らしいではないか。且つ他日此悪道路が改善せられて市街が整頓すると共に、他の不必要な整頓……階級とか習慣とか言う死法則まで整頓するのかと思へば、予は一年に十足二十足の下駄を余計に買わねばならぬとしても、願わくば未来永劫小樽の悪路が日本一であって貰いたい」。

10月3日

韓国、伊藤、副統監曾禰荒助、純宗に謁見。日本皇太子の訪韓、英親王の日本留学策示す。

10月4日

大阪府三島郡五領村の廃弾工場で砲兵工廠払い下げの小銃弾28,000発爆発。死者66人。

10月4日

(漱石)

「十月四日(金)、渡辺和太郎から鮑を送られる。大谷正信(繞石)宛手紙に、医学士尼子四郎から、有尾敬重(勧業銀行)の子息が中学校を卒業し、高等学校を受験するまでの英語の家庭教師を探して欲しいと云われていたので、勉強を見て貰えぬかと頼む。

移転後、神経衰弱はおさまったが、胃病に苦しむ

十月七日(月)、森次太郎(円月)、『満洲日日新聞』の創刊に関して、訪ねて来る。

十月八日(火)、高浜虚子宛手紙に、宝生新から謡を習う件は別に急がない、ただ、家賃が五円あがったので、月謝を五、六円も出すのは苦しく、様子を伺ってからにしたいと伝える。(高浜虚子は初め、松本金太郎を推していたが、後に宝生新に変える)

森次太郎(円月)宛手紙に、『満洲日日新聞』創刊を祝して、「朝日のつと千里の黍に上りけり」と詠む。」(荒正人、前掲書)

10月5日

6月に創刊された「大阪平民新聞」(編集森近運平)、「日本平民新聞」と改題。

10月5日

明治天皇の母の典侍、中山慶子(71)、没。

10月6日

大阪兵器廠爆発事故(死傷者約100名)

10月8日

韓国駐箚憲兵に関する件、公布。主として治安維持に関する警察を掌り統監が配置を決定。韓国駐箚憲兵隊隊長明石元二郎少将

翌1908年6月、韓国人憲兵補助員制度。

年末、憲兵は2,347人・補助員4,234人となる。

10月8日

京都西陣で染物同業組合友禅部職工同盟会結成。加盟700人。

10月10日

皇太子嘉仁親王、韓国行啓

10月10日

ハンガリー、普通選挙要求20万人ストライキ

10月12日

旭川の野砲兵第7連隊に入営中の宮崎郁雨、啄木の身を案じ、機動演習の余暇を利用して小楯に来訪一泊する。

15日 「小樽日報」創刊。社屋は小樽区稲穂町字静屋畑十四番地(現、稲穂二丁目十九番地十三号)。社主中村定三郎の招きで社中一同精養軒に祝宴。これよりさき啄木は野口雨情らと主筆岩泉江東の排斥を企てるが、初号発刊のこの日事が露顕する。

10月15日

グスタフ・マーラー(47)、『フィデリオ』を最後にウィーン宮廷歌劇場を去る。

12月アメリカのメトロポリタン歌劇場に向かう。

10月16日

嘉仁親王(後の大正天皇)一行、漢城着。有栖川宮威仁親王・陸軍大将桂太郎・海軍大将東郷平八郎・東宮武官長陸軍中将村木雅美・侍従職幹事岩倉具定・宮内次官花房義質ら同行。この一行の訪韓により、純宗も英親王の日本留学を断りきれなくなる

10月16日

「(十月十六日(水)、「今日は先生の寫眞を床の間へ飾った。夕方に先生の鳥籠を探しにいつた。」(小宮豊隆宛鈴木三重吉手紙))」(荒正人、前掲書)

10月17日

6月の招待に対する文士の西園寺への答礼会。芝紅葉館。

柳浪、宙外、桂月、眉山、独歩(転地先湊町より上京)、花袋、秋声、藤村、鏡花(逼塞先の逗子より上京)、春葉、露伴、小波ら。天外、風葉、逍遥、鴎外、四迷は欠席。漱石には声かからず。

10月18日

幸徳の帰郷送別会を兼ね「社会主義金曜講演会」。90名。張継、北輝次郎、幸徳演説。堺、山川、片山出席。

10月18日

ハーグ万国平和会議が閉幕、ハーグ陸戦協定(陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約)締結。

10月18日

アメリカ・アイルランド間に無線電信サービスが開始。

10月19日

箕面有馬電気軌道株式会社設立。本社大阪、資本金550万円、専務取締役小林一三。

1910年3月10日、梅田~宝塚間開業。

1918年2月4日、阪神急行電鉄株式会社と改称。


つづく

0 件のコメント:

コメントを投稿