1907(明治40)年
10月20日
(漱石)
「十月二十日(日)、外出中、狩野亨吉訪れ、人形と石を土産にくれる。
十月二十四日 (木)、佐瀬武雄(蘭舟)の『葦切』(原稿)を読む。
十月二十五日 (金)、佐瀬武雄(蘭舟)宛手紙に、『葦切』の感想その他を伝える。
〔文部省第一回美術展覧会、上野竹の台(上野公園)で開催する。「文展」と称す。〕
十月二十六日 (土)、「『草雲雀』序」書く。
十月二十八日 (月)、『虞美人草』、『大阪朝日新聞』の連載終る。
十月二十九日 (火)、『虞美人草』、『東京朝日新聞』の連載終る。
『虞美人草』切抜帖の終りに、「秋の蚊の鳴かずなりたる書斎かな」と詠む。
十月三十日 (水)、『虞美人草』の出版、隆文堂と春陽豊激しく競合い、春陽堂に決まる。
『草雲雀』;森田草平・生田長江・川下江村共箸。三人は、明治三十九年七月東京帝国大学を同時に卒業。森田草平は英文学科、生田長江は哲学科、川下江村は独文学科である。在学中から、『明星』や『芸苑』に執筆していた。文学的傾向も似ていた。川下江村は卒業後一年で死去する。」(荒正人、前掲書)
10月22日
米、金融恐慌が始まる.
10月24日
ジョン・ピアポント・モルガン、エドワード・ヘンリー・ハリマン、ジェームズ・スティルマン、ヘンリー・クレー・フリックおよび他のウォールストリートの銀行家が、1907年の銀行パニックの舞台となっていたニューヨーク証券取引所の急落する株価へ投資するべく2500万ドルのプールを作成し、アメリカの金融危機を防ぐ。
10月25日
上野勧業博物館、第1回文部省美術展覧会(「文展」)、開催。~11月20日
日本画99点、西洋画91、彫刻16。公募展、優秀作品は政府が買い上げ。
新海竹太郎「ゆあみ」、和田三造「南風」、菱田春草「賢首菩薩」、下村観山「木の間の秋」ほか。
帝大教授、美学者の大塚保治、東京美術学校校長正木直彦、東京美術学校校の西洋画科教授黒田清輝などが開催に尽力する。
正木直彦『回顧70年』
文部官僚として渡欧した際に牧野伸顕からその計画を聞いたときのことを振り返って、
「明治33年にドイツに居ったとき、私は岡田良平、福原鐐二郎とともにオーストリアを訪ねたことがあった。その時、オーストリアの公使は牧野伸顕さんで、イタリアから転じられたばかりのところであった。会って話してみると、大層美術のことに趣味を持っておられ、かつ欧米各国の美術施設にも精通していることが分かった。
(略)
しきりに日本に於いても文部省あたりで、美術の奨励法を講ずべきであると力説せられ、それについてはフランスのサロンの如きものを文部省が主催すべきである、と述べられたのであった。もちろん我々はこれに大いに賛意を表し、共々この実現に努むべきことを約したのであった。」
文展開催のニュースは、日本の画壇を盛り上げたが、審査委員の選考では紛糾した。
帝大総長の浜尾新(はまおあらた)、京都高等工芸学校校長の中沢岩太(なかざわいわた)、正木直彦、黒田清輝らが選考にあたり、まず日本画の大家橋本雅邦の名前が挙がった。
審査委員の打診を受けた橋本雅邦は、東京美術学校を退職して日本美術院を設立していた「岡倉天心が参加するなら受ける」と答えた。岡倉天心はその突出した才能から、東京美術学校で排斥運動がおこったという経緯があり、危惧されたが、岡倉天心の先輩にあたる中沢岩太が「岡倉なら吾輩が抑えつける」とフォローにまわった。
岡倉天心は東京美術学校から日本美術院へと率いてきた「下村観山と横山大観も審査委員にするなら受ける」と答え、そうなると「東京の人数が多いから、京都の人数をもっと」と中沢岩太が言い出す。ここに見える日本画の派閥争いは、のちに文展の解散にもつながっている。
展示は、日本画、洋画、彫刻の3部門からなり、日本画では京都の竹内栖鳳の六曲一双の屏風「雨霽(あまばれ)」、東京の下村観山が出品した二曲一双の屏風「木の間の秋」、寺崎広業の「大仏開眼」などが評判となる。
洋画では無名の新人(和田三造「南風(なんぷう)」)が2等賞(最高賞)をとって話題をさらう。20代半ばだった和田三造は雑誌のインタビューに答えて、「こう責任を負うては将来が困ります」と戸惑いを見せた。
「前夜には文部大臣の招待で帝国ホテルへ行ったが、イヤハヤ大苦しみ。コンな目に逢ったのは産まれて初めてです。私はご覧の通りの日本服で、従来洋服と云ふものを着たことがない。当夜も此儘で行くつもりでしたが先生(黒田清輝)のたってのすすめで、洋服の借り着です。靴が小さくて痛いのには非常に弱りました。」
なお、1908(明治41)年開催の第2回文展では、前年に東京美術学校を卒業したばかりの朝倉文夫「闇」が彫刻部門の2等賞をとり頭角をあらわし、第3回で「山から来た男」で3等賞をとって評判を確かなものにした。
美術界を活気づけ、後世に残る多くの作品を世に送りだした文展だったが、審査委員の分裂が顕著になり1918(大正7)年に幕を閉じる。
翌年からは、文部大臣の管理下に新設された帝国美術院が主催する帝国美術院展(帝展)がスタート。帝展では審査委員は帝国美術院が推薦し、内閣が任命する中堅作家と決められていた。
10月27日
幸徳秋水、老母多治子・妻千代子と帰郷。
29日、梅田着。老母を親戚にあずけ富山(妻千代子の姉須賀子の嫁ぎ先富山地検判事松本安蔵)に向かう。
11月1日、大阪に戻る。
10月28日
現役歩兵科兵卒の帰休に関する件公布。歩兵科兵役を3年から2年制に改訂。即日施行。
10月30日
二葉亭四迷「平凡」(「東京朝日」、~12月31日、62回)
10月30日
野口雨情、岩泉主筆のために小樽日報社を追われ、31日退社する。啄木は主筆の懐柔策で月給25円に増俸され、三両の主任となるも、秘かに主筆排斥を画す。
10月30日
平野謙、生まれる
10月31日
ハワイのセントルイス野球団来日。~11月19日。東京芝三田の綱町グランドで慶応大学と対戦。初めて入場料を徴収。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿