東京 江戸城東御苑(2011-11-15)
*大同4年(809)
4月1日
・平城天皇、詔を発して神野皇太弟への譲位の意思を表明し、翌日、東宮に移る。
この年の初めに発病し、なかなか回復しなかった。
平城は身体の不調を怨霊の仕業と悩み、王位を離れれば禍いから免れるのではないかと考えた。
恐らく平城自身は、天皇には執着していただろうし、側近の薬子・仲成らは退位に反対したであろうが、早良や伊予の怨霊には抗しえなかった。
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4月3日
・神野親王(平城の同母弟)が践祚、13日に即位式を挙げた嵯峨天皇となる。
翌日、嵯峨天皇は平城の皇子高岳(たかおか)親王を皇太子に立てる。
この時点では、嵯峨天皇の皇子は、まだ生まれていない。
乙牟漏系の中では高岳親王は有力な皇位継承候補者の1人であるが、嵯峨は、高岳親王の母である伊勢継子に、皇太后なり皇太夫人なりを贈っていない。高岳親王への伝位を確定するには、詰めを欠いた措置である。
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4月20日
・嵯峨天皇、観察使の特典である食封(じきふ)を停止し、代償として外任(国司)を兼ねさせ、公廨稲(くげとう)の配分にあずからせる。
平城朝においても、財政節約の為、2~3の観察使は食封返納を申し出ていた。
しかし、この措置は、観察使の創設者である平城上皇の感情を刺激したかもしれない。
嵯峨朝の概観
旱害・水害に起因する飢饉・疫病に悩まされながら、軍事的には「中外無事」を謳う嵯峨天皇は、『内裏儀式』『内裏式』を編纂させ、年中行事の整備に努める。
一方、『弘仁格(こうにんきやく)』『弘仁式(こうにんしき)』を纏めさせ、律令制施行以来の法令を整理する。
宮中の諸門・殿舎等に中国風の名称が付し、儀式も唐風化し、日本初の勅撰漢詩文集『凌雲集』『文章秀麗集』編纂と相侯って世は中国風の文化に彩られる。
最澄・空海のもたらした天台宗・真言宗が、紆余曲折を経ながらも、日本仏教界に確固たる地位を築いていく。
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7月
・退位後の平城上皇は、「病を数処に避け、五遷の後、平城に宮す」(『日本後紀』)とある。
「五遷」は7月に始まり、全て平安京内における転居である。
上皇の病いは一進一退の状況が続いているようである。
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7月3日
・井上内親王の宇智陵に使者を派遣し、陵内を清め読経をあげる。
井上内親王らの怨霊に脅かされる平城上皇の様子がわかる。
折からの旱魃も井上内親王の祟りとされた。
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7月16日
・空海、嵯峨天皇の許可を得て入京。
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8月11日
・嵯峨天皇の親王、仁子(よしこ)内親王(4歳)、斎王となる。
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8月24日
・最澄の空海に宛てた最古の手紙。
最澄は経典・儀軌・悉曇釈等の借用を申し出る。
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8月30日
・朝覲行幸(ちようきんぎようこう)の初見。
この日、嵯峨天皇が平城上皇を訪問。
やがて承和元年(834)正月の仁明天皇による嵯峨上皇と母后橘嘉智子への行幸のように、孝道に従う姿勢を表明する場面として華々しく展開されることになる。
嵯峨天皇の元来の意図は、天皇は譲位後の君主に対して、私的には敬意を表すものの、公的な面、政務に関わる面では彼らを排除することを示すためであった。
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11月
・平城上皇を巡る情勢が急変。
平城の病が快方に向ったようで、上皇の要望により、朝廷が上皇の院の候補地を踏査させる。
上皇は、平安京の外、摂津か平城旧都にその落ち着き先を求めたようである。
間もなく政府は右兵衛督仲成らを平城旧都に遣わし、上皇のために新宮を遣らせようとしている。
仲成の採用は上皇の指示であったかもしれないし、上皇による平城古都の選定には、仲成・薬子の助言があったかもしれない。
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12月初め
・譲位した平城上皇は、皇太子時代から寵愛していた藤原薬子や、多数の官僚たちを伴って水路をとって平城故宮に移る。
まだ新宮殿は完成していないので、故右大臣大中臣清麻呂の旧邸に仮りの居所を求める。
薬子の兄仲成(なかなり)は、前月以来平城宮改修に従事し、雇夫2,500人が働いていた。
藤原薬子は桓武朝初期の権臣、長岡京で暗殺された種継の女で、藤原縄主(式家)に嫁し、三男二女を産む。
長女が平城の東宮時代にその宮に入り、これが契機となり薬子は安殿に近づき、関係を結ぶ。
桓武はこの情事を嫌い、薬子を東宮から退けたと伝えられている。
しかし、安殿が即位すると、薬子との関係は元に戻ってしまう。
薬子は尚侍(天皇に常侍する女官の長)で、平城天皇になってからは薬子との関係は一層深まったようだ。
しかし天皇は、さすがに薬子を公然と皇后・夫人にはできなかったようだ。
逆に、平城には皇后・夫人がいないのも、この寵姫薬子の存在によるものである。
仲成は薬子の兄。
薬子の支援もあって、左衛士督・右大弁・観察使、参議と上る。
もし父が横死しなければ、桓武の時代に栄進の機会に恵まれていたであろう。
それだけに、北家の内麻呂・葛野麻呂・園人、同じ式家系の緒嗣・縄主(薬子の夫)、南家の雄友・乙叡に対する激しい競争心、遅れをとった焦りがあった。
仲成にとって、妹薬子を通して平城との関係を強めることが、今後の栄進の無二の保証であった。
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名古屋は無粋。特殊鋼最強というのが興ざめな、大同特殊鋼。
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