新宿御苑 2016-11-22
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明治39年(1906)6月
若山牧水(21)、英文科の同級生らと回覧雑誌「北斗」発行。6月末に帰省。
父が財産をなくし母は病床。牧水自身もしばらく病床に臥せったが、9月中旬に上京。
以下、伊藤整『日本文壇史』第10巻第6章より
(見出し、段落は適宜付した)
■北原白秋と若山牧水
●北原白秋
この年、明治39年(1906)、早稲田大学には詩や歌に熱心な学生が多く集まっていた。
その中で特に目立っていたのは、前年1月に大学の機関誌「早稲田学報」の原稿募集に応じて1位当選した長篇詩「全都覚醒の賦」を書いた北原隆吉(号は射水)であった。
「全都覚醒の賦」は上篇109行、下篇118行計227行からなる長い詩であった。
詩の方法は、明治35年1月「公孫樹下にたちて」を書いて以後、華麗なイメージを駆使し、詩壇の中心にありながら大阪に住んでいた薄田泣菫の影響を受けたものであった。しかし句読点もスタンザの区分もない詩句を227行も書き続ける表現力の豊かさは、読む人を驚かし、大都会の夜から朝にかけての変化を捉えようとするその野心的な構想が読む人を圧倒した。
彼は、この年(明治39年)から与謝野寛の新詩社に加わり、北原白秋という号で、毎月のように「明星」に詩を発表し、社でも有力な新詩人と認められていた。
彼は、福岡県の柳川(山門郡沖端村)の生れで、このとき数え年22歳。生家は代々柳川藩の御用達として、海運の税金の取り立てを請負い、また海産物問屋として九州一円に知られた旧家であった。父長太郎は本業として酒造業を営み、家号を油屋または古問屋(ふつどいや)と言った。
彼は柳川の中学伝習館3年生になった16歳の頃から、雑誌「文庫」を読み、また新雑誌「明星」を知った。翌明治34年沖端村の大火で生家が類焼し家計が傾き始めたが、その頃から文学に心を注ぎ、白秋の号で「福岡日々新聞」に歌を投書したり、友人と廻覧雑誌を作ったりした。
明治35年(18歳)、「文庫」に短歌を投書して選者、服部躬治(もとはる)に認められた。また、翌年、中学5年の時から「文庫」の詩欄に詩を投じて、選者、河井酔茗(すいめい)に知られた。
卒業直前、「硯香」という新聞を学内で刊行し、学校当局に睨まれ、明治37年春、卒業直前に中学校を退学して上京、早稲田大学英文科予科に入学した。
この頃、家は衰運に向っていたが、家に古い小判があり、母親がその小判を毎月1枚ずつ送ってくれるのを金に替えて学資にしていると言われた。
●若山牧水
牧水(本名、若山繁)は明治18年生れで、白秋と同年。出身は宮崎県東臼杵郡東郷村坪谷。祖父健海は蘭医と漢法医を兼ねた医師で、父立蔵もまた医師であった。
牧水も16、7歳の頃から国語漢文等に興味が傾き、「中学文壇」「秀才文壇」「中学世界」「新声」「文庫」などの投書雑誌に短歌、俳句を投書し、中学4年から卒業するまで友人と短歌専門の廻覧雑誌「野虹」を発行していた。
明治37年4月、延岡中学校を卒業して上京、早稲田大学に入学した。
牧水の関心は、その時期から短歌に集中していて、雑誌「新声」の短歌欄には毎号何首ずつかが選ばれていた。
しかし、この当時、雑誌「新声」は危機に瀕していた。
「新声」は、佐藤儀助が明治29年7月に第1号を出し、明治32年1月からは大判に改め、その年4月創刊の「明星」と争いながら若い読者投書家を集め発展した。しかし「明星」には、与謝野寛とその妻になった晶子という、経営者にして詩人という柱があったが、「新声」にはそれがなかった。詩人では蒲原有明が比較的この雑誌に縁が深く詩欄の選者をし、歌人では、柴舟屋上八郎が選者をしていた。この二人はともに明治9年生れで、与謝野寛と同様落合直文門下であったが、与謝野のような強い性格や指導力はなかった。
牧水が上京して早稲田大学に入った明治37年春、佐藤は雑誌「新声」を譲り渡し、新声社を解散した。そして彼は改めて規模を縮小した新潮社を起し、雑誌「新潮」をその年5月から創刊した。
佐藤から「新声」を買い取ったのは、北星草村松雄という小説家である。草村北星は「文芸界」を出していた金港堂書店に勤務しなから「明星」などに小説を書き、明治35年12月に金港堂から「浜子」という長篇小説を出版した。これは一種の家庭小説で、家庭小説は、明治33年出版の幽芳菊池清の「己が罪」が当時には類のないベストセラーとなって以来、流行の通俗小説の形式であった。「浜子」もまたその類の作品として、好評を得、版を重ねた。
草村は作品を書くかたわら、明治37年に隆文館という出版社を創立して出版を始めた。そして、買い取った「新声」を、翌38年2月から刊行しはじめた。
▲柴舟尾上八郎
明治37年4月、牧水は上京して麹町3番町の下宿に落ちつき、早稲田大学に通い、5月22日、尾上柴舟を本郷西片町の家に訪ねた。
その頃、新しく出版された「新潮」の歌欄の選者は金子薫園(くんえん)であった。
尾上八郎はこの時、数え年29歳。岡山県津山町の出身で、父北郷直衛は旧津山藩の武士。尾上は少年時代から歌作に興味を持っていた。15歳で上京、東京英語学校に学んだが転じて府立尋常中学に入り、17歳の時、同藩の尾上勁の養子になった。彼は、第一高等学校に入ったが、その間に大口鯛二、佐佐木信綱、落合直文などの歌風の影響を受け、一高に入ると、落合直文が教授をしていたので、その門に出入することになった。
尾上八郎は落合直文の浅香社で、与謝野寛、服部躬治、金子薫園等と知り合いになったが、金子が彼と尋常中学の同級生であったことを知り、その後は親しく交わるようになった。
尾上八郎は一高から東京帝国大学国文科に入り、同学の久保猪之吉、服部躬治、菊池駒次等と短歌会「いかづち会」を作った。
明治34年、大学卒業後は大学院に入り、在学中から訳していたハイネの詩を集めて訳詩集「ハイネの詩」を出した。この訳詩集は平明な七五調にハイネの抒情詩を生かしたもので、長い期間にわたり多くの愛読者を得た。その結果、ハイネとは尾上柴舟の訳したような甘美な詩ばかり書くセンチメンタルな詩人であるという通念が、長く日本の詩壇に残ることになった。
尾上柴舟は教師として生活し、はじめ井上円了の経営する哲学館に、明治35年から女子高等師範学校、早稲田大学などの講師になった。
牧水は、尾上柴舟の歌が、静かな韻律を持ち、新味があり、その調子の澄んでいるのか好きであった。彼の取った早稲田大学の規則書には講師尾上八郎と出ていたので、その講義を聞くのを楽しみにしていたが、尾上柴舟が教えていたのは高等師範部の国語科であり、牧水は講義を聞く機会がなかった。牧水自身も、もし本科に国文科があったら入学したであろうが、この当時の早稲田大学の学科には、英文科と哲学科しかなく、彼はその英文科を選んだ。
牧水が訪ねて行ったとき、柴舟は20歳の牧水を迎え、快く逢い、学問や創作上の話をして力づけた。
▲早稲田大学と白秋・牧水
北原白秋と若山牧水は、投書家時代に互いに名前を知っていたので、6月頃早稲田大学の教室で、互いに相手をそれと知り、親しくなった。牧水は脚気を煩って、葉山一色海岸に転地したが、8月には東京に戻り、白秋と親交を重ね、9月中旬には牛込の穴八幡下の清致館という下宿に同宿するようになった。
この時期、白秋は射水という号を使い、外に中林蘇水(しすい)という文学学生もいたので、牧水を含めて早稲田の三水と言われた。
明治38年9月、文学科予科の学生のために、坪内逍遥特別講話というのを毎週2時間ずつ行った。坪内は初めの数回、文学についての一般的概念を説明し、続いて文明の推移と、西欧思想の発展を説き、更に近代文学の趨勢を理解させようとして、イプセンの「ブランド」の解説をした。
このとき坪内逍遥は数え年46歳、背が低く、半白の薄い髪の毛を無造作に短かく刈った坪内は、和服を着て、緑なしの眼鏡の下に神経質らしい目を光らせながら話をした。話し始めには、口を不器用に動かしていたが、話に調子が出ると、さまざまな比喩や引例を次々と並べて、一つの話題に2時間では時間が足りないほどの熱の入れ方であった。
坪内は近年の持論である倫理教育と背馳しない強力な文学作品の例として、この「ブランド」を選んだ。
当時イプセンの訳は高安月郊(げつこう)のものがあるだけで、一般の文壇人には知られていなかったから、学生たちには新鮮な印象を与えた。
「ブランド」の筋は、若い牧師ブランドが、深い雪の危険な山道を越えて、その目的を達するために、多くの友と別れ、知人への愛情を拒み、母親への顧慮を棄てて、ただ絶対の理想を追って進む話。アグネスという愛人を得て子供が生れるが、ブランドはその子のためにも節操を曲げることを拒む。妻はそのために死ぬ。しかもなお彼は自分の執着を棄てず、「一切か無か」を合言葉として神とのみ一致する生活に入る。
この作品についての坪内の解説は、深刻な感銘を牧水に与えた。一切か無か、という言葉は、それ以後牧水が何か事を企てる毎に彼の口から出るようになった。
またこの時期に安部磯雄が受け持っていた「実践倫理」は、講義内容がきちんと組織づけられ、実例が豊かで、学生に喜ばれた。彼は少しも興奮することなく静かな声で5、600人も集る大講堂で話し、彼の講義が終ると満堂の学生は一斉に拍手するのか常であった。
明治37年に入学した白秋、牧水、蘇水等の級には土岐善麿らもいた。
▲22歳にして第一線の詩人白秋
彼らは、明治38年9月には本科1年に進学、英文科・哲学科が各100名くらいだった。
白秋は中学校を卒業していないので、本科入学資格を得るために神田辺の中学校にも席を置いていたが、それよりも彼の「明星」での活躍が目立ち、新詩社同人として仕事が急がしくなり、学校には顔を出さなくなっていた。
牧水は、白秋と連れ立って千駄ヶ谷村字大通549番地の新詩社を訪ねて与謝野晶子に逢ったり、また「文庫」の詩の選者河井酔茗を訪ねたりし、次第に詩壇・歌壇の仲間に入って行った。
翌明治39年、彼は級友の土岐善麿、安成貞雄、仲田勝之助たちが小説の創作を目的として作った北斗会に加わって、小説の研究も始め、回覧雑誌「北斗」を作った。
明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。
彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。しかもなお彼は有明や泣菫の影響下にあり、その点では前年明治38年に上京して、友人に金銭上の迷惑をかけながら詩集「あこがれ」を刊行し、また郷里岩手に帰った啄木と似ていた。
この年明治39年春、白秋は、再び牧水と同じ下宿にいたが、牧水は帰省し、白秋は与謝野寛、吉井勇、茅野蕭々等と関西旅行に出かけた。一行は、伊勢、紀伊、奈良、京都を歴遊して東京に帰った。
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