2017年12月31日日曜日

Dvořák: Cello Concerto + 1 / Rostropovich Ozawa NHK Symphony Orchestra (1995 Movie Live)  +1はバッハ「無伴奏チェロ組曲第二番サラバンド」


Dvořák: Cello Concerto + 1
/ Rostropovich Ozawa NHK Symphony Orchestra (1995 Movie Live)
+1はバッハ「無伴奏チェロ組曲第二番サラバンド」
(演奏が終わっても拍手しないで下さい、と)



今年も虚言を吐きつづけた! 安倍首相の真っ赤な嘘&インチキ発言ワースト10(リテラ); モリカケにはじまり、共謀罪強行採決、北朝鮮問題、大義なき解散……と国民を完全に舐めきった態度に終始し、嘘の低レベルさ、アホさにも磨きがかかった。



大嘘1
「(加計学園の獣医学部新設計画を知ったのは)1月の20日の特区諮問会議」
7月24日、衆院予算委員会の閉会中審査

大嘘2
「この問題の本質は、岩盤規制にどのように穴をあけていくかだ」
6月5日、衆院決算行政監視委員会

大嘘3
「(国家戦略特区の)議事はすべて公開しています」
6月19日、記者会見冒頭発言ほか

大嘘4
「この解散は国難突破解散だ」
9月25日、記者会見冒頭発言

大嘘5
解散前「国民のみなさまに説明しながら選挙する」 →
選挙中「街頭演説で説明するよりも国会で説明したい」 →
選挙後「国会において丁寧な説明を積み重ねて参りました」
9月25日記者会見→10月9日『NEWS23』(TBS)→11月20日衆院本会議

大嘘6
「TOC条約を締結できなければ、東京オリンピック・パラリンピックを開けないと言っても過言ではない」
1月23日、衆院本会議

大嘘7
「『そもそも』を辞書で調べたら『基本的に』という意味もある」
4月19日、衆院法務委員会

大嘘8
「我が国に北朝鮮がミサイルを発射」
「我が国を飛び越えるミサイル発射という暴挙は、これまでにない深刻かつ重大な脅威」
8月29日、記者会見

大嘘9
「(山口敬之氏のことは)取材対象として知っている」
11日30日、参院予算委員会

大嘘10
「私や妻が(認可や国有地払い下げに)関係していたということになれば、これはもう、まさに、私は総理大臣首相も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい」
「(獣医学部新設で)私がもし働きかけて決めているとあれば、責任を取る」
2月17日衆院予算委員会/3月13日参院予算委員会



紅白歌合戦:欅坂46 倒れたのは平手さん3人 過呼吸で(毎日新聞) / 欅坂46鈴本美愉、ステージ上で倒れる(オリコンニュース) / 動画あり / 欅坂46『紅白』で鈴本美愉が突如「意識不明」に......「働かせすぎ」の余波か— 【公式】サイゾーまとめ / 欅坂46と内村さんのコラボの際に平手友梨奈さんが震えていて、ダンスの合間に内村さんが心配そうに話しかけていました。ステージで倒れていた人もいた様子。舞台裏では終了後4人ぐらいが抱きかかえられて運ばれていきました。 — Digitalラテ面@毎日新聞放送取材G




















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(動画)関西人500人が選んだ暴言!珍言!迷言!コイツ何言うとんねんランキング1位 安倍昭恵「つらい1年でした。最後に立派な勲章を頂き、頑張ってきてよかった」 キム兄「何がつらいねんていう1位でしょ」 西川史子「おまえが言うなっていう(1位)」


加計だけ2大学に補助金《特区に獣医学部決定直後——16年度新設私大事業》決定理由、公表すべき【東京新聞1面12/31】 ; 二〇一六年度に国が実施した私立大学への研究補助事業で、安倍晋三首相の友人が理事長を務める学校法人「加計学園」だけが運営する二校が選定されていたことが分かった。当時は加計学園に有利な条件で国家戦略特区での獣医学部新設が決まったばかりの時期



2017年12月30日土曜日

今日の富士山(横浜から) 2017-12-30

12月30日、はれ
明日は曇りの予報が出ているので、朝10時頃、近くの公園から富士山を撮った。




ついにニューヨークタイムズに伊藤詩織さんの特集が / She Broke Japan’s Silence on Rape(彼女が日本の強姦沈黙を破る) / NYタイムズの和訳ページのアクセスがなんと60万! / ニューヨークタイムスが詩織さん事件を報じる。日本の恥ずかしい実態が今、世界を駆け巡っている。しかし日本人の多くはまだ知らない。本当に情け無い国 / 事件のあったホテルの名前も書いてあるし、ホテルの防犯カメラのビデオにもアクセスできたらしい。日本で起きた事件なのに、なぜ海外の報道の方が詳しい? / 「フィガロ」の見出しは「伊藤詩織 強姦事件日本を震撼させる」ですけれど、..... / 仏メディアは、ルモンド、レクスプレス、フィガロ、BFMTV、Les Echos / 意識不明の女性をレイプしたと名指しされると「あれは合意だった」と開き直る男と、先の戦争を侵略と指摘されると「アジア解放のための戦争だった」と糊塗する行為はどこか通底している



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【面白い】たけしと鶴瓶が安倍政権やモリカケをこき下ろし!「京産大はあんまり金持ってなかったんじゃない」「籠池さんは騙された」「昭恵は出てこい」 (動画) 


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▼ウーマンラッシュアワー村本大輔


▼一方、松本人志らは・・・


「まさか自分が…」年末年始に突然、路上生活を強いられる人々 いま本当に必要な「支援」とは何か(大西 連 現代ビジネス)







イギリスBBCでは、「他のスポーツだったら貴乃花親方は内部告発の英雄として称賛されているだろう」と報道した。



▼横野某って?




加計学園の加計孝太郎理事長は28日、岡山県倉敷市で男子フィギュアスケート日本代表、田中刑事(けいじ)選手(23)の壮行会に出席した。加計学園の認可後記者会見すら開いてない、96億円も出す今治市民に未だに一言の説明もない。 / 現れたヘルスピア倉敷の買収も曰くつきの場所。旧社会保険庁の建造物払い下げ問題の中のサンピア倉敷。加計が理事長の加計学園が買って今はヘルスピア倉敷とかいう保養所。ここのオープンの時に特別来賓で来たのが安倍。






2017年12月29日金曜日

理研が非常勤職員を「大量雇い止め」で上がる現場の悲鳴


事件の涙(NHK)。 林真須美死刑囚の長男の回。両親が逮捕された後、自宅は壁一面に落書きされ放火された。施設に入った長男は壮絶ないじめに遭う。またカレーライスに何度も乾燥剤を入れられたと。.......




皇居東御苑に梅が開花始めた 紅冬至 八重野梅 八重寒紅 2017-12-27

12月27日
皇居東御苑に開花始めた梅

▼紅冬至

▼八重野梅

▼八重寒紅

エマニュエル・トッド氏 「介護・子育て、負担減らせ」 低出生率、日本に提言(毎日新聞);トッド氏は「親に対する子供の負担、子供に対する親の負担があまりに大きい」と述べ、介護や子育てが家族の負担になっている現状を問題視。「個人の問題から国の問題に変え、個人を解放しなければ出生率は上がらない」と指摘。


景気拡大なのに実質賃金が下がるアベノミクスの本質 「3%賃上げ」の虚実(石水喜夫 ダイヤモンドオンライン)


2017年12月28日木曜日

鎌倉 稲村ケ崎から富士山 お昼はうなぎの「つるや」さんで 2017-12-28

12月28日、はれ
26日(火)に富士山にお目にかかれなかったので、今日はそのリベンジ。
やっぱりこの辺りでは稲村ケ崎からの富士山が一番かな。
ま、少し雲がかかってるけど合格ということで。

お昼は、鎌倉で天然うなぎのお店として有名な「つるや」さんでうな重。
注文してから50分はかかるので、あらかじめ電話をしておいた。
そりゃ勿論、美味ですよ。
川端康成とか田中絹代とかがご贔屓だったとか。






『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(8) 第一章 アジア Ⅱ フィリピン(1終)

皇居東御苑 2017-12-27
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Ⅱ フィリピン
カガヤン、リンガエン、マニラ
スペイン側の文献に最初に登場するフィリピンにおける日本人の居住区は、日本人とスペイン人の間で最初の衝突が起きたことが知られるルソン島北部のカガヤンにあった。

1582年、フィリピン総督ゴンサロ・ロンキージョ・デ・ぺニャローザは、カガヤン川河口に船長フアン・パブロ・デ・カリオンを送り、軍事行動の指揮を執らせた。フアンは中国船数隻と日本船1隻を攻撃し、さらに航海の途中、日本のサンパン船(平底の木造船)18隻と戦闘に及んだ。戦闘では、艦隊長とその息子、および日本人200人以上が殺害されたという。フアン・デ・カリオンはその地に住着き、日本人の追放を試みた。カガヤンには日本人600人以上が居住しており、スペイン人入植者に対して抵抗したが、すぐに鎮圧された。
その後、1586年に大村からの商船1隻がこの地を訪れるまで、日本人に関する情報は見当たらない。

また、日本人が頻繁に通商をおこなった別の地域にリンガエンがあり、日本人はそこにボルト・デ・ロス・ハポネセスと呼ばれる(スペイン語で「日本人の港」を意味する)小さな港を作っていた。この港は16世紀から17世紀初頭まで栄えた。1618年、フィリピン総督は、皮革製品がこの地域の主要産品であり、日本人商人が毎年日本に6万~8万頭分の鹿皮を積み出していると、スペイン当局に伝えている。

マニラ在住の日本人に関する情報は、1570年のマルティン・デ・ゴイティの記録に、彼がそこへ到着した時、中国人40人と日本人20人に出会った、と書かれている。日本人の1人はパブロという洗礼名を持つキリシタンで、彼は聖画を見せながら、スペイン人にロザリオを求めた。
マニラがフィリピン諸島の交易の中心地になると、日本人商人はカガヤンとリンガエンから徐々にマニラへ移住し始めた。1583年、マカオーマニラ間に通商が始まると、日本人の多くはマカオ経由で、マニラへ到来し始めた。

マニラ当局と日本人
当初、マニラでは、スペインの植民地当局と日本人コミュニティは互いに警戒し合っていた。
1584年、フィリピン総督はマカオから来たポルトガル商人バトロメウ・ヴァズ・ランデイロの二隻の船から軍事的支援を受け、サングレイ(在住中国人)の反乱を鎮めることができた。しかし3年後、日本人コミュニティに対しても反乱の疑いが持たれ始めた。豊臣秀吉が「伴天連追放令」(1587年)を発布した後、一隻の日本船がマニラへ到着した。その乗組員らが反乱を教唆しているという疑惑が浮上し、船員数名が逮捕され、通訳ディオニシオ・フェルナンデスが処刑された。

1588年、平戸から別の日本人の商船がマニラに到着し、乗組員に商売が許された。その後1589年に、キリスト教関係者と思われる日本人の一行がやってきた。そのキリスト教関係者たちはスパイで、秀吉が近い将来、マニラに軍事攻撃を仕掛けるために、この地域偵察していたという疑いがもたれ、彼らが日本へ出港すると、マニラの防備が増強された。また、マニラの日本人コミュニティはマニラ郊外のディラオへ強制的に移され、武器は没収された。

1593年6月の時点で、このコミュニティには日本人定住者300人以上がいて、その後の2年間で3倍以上に膨らんだ。フランシスコ・デ・ミサスの書簡には、マニラ在住日本人は、1595年時点で1000人以上であったと記されている。その急激な増加の原因は、マニラと長崎間の日本船による通商が、1590年代前半に盛んになったためであると考えられる。

1596年、フィリピン総督ドン・ペドロ・デ・アクーニャはフアン・デ・ガリナートを将軍として、カンボジアに遠征軍を派適した。その軍には日本人傭兵が多数参加していた。マニラの日本人コミュニティがスペイン当局に軍事的な支援を提供したのはこれが初めてであり、同様のことがその後も度々おこなわれた。
同年、ガレオン船サン・フェリペ号が、マニラからアカプルコへの往路、四国沖で遭難し、土佐浦戸に漂着した。当時の海難に関する国際法では、漂着船の然るべき救助は義務であったが、日本の法令に従って、秀吉は積荷没収を命じた。またそれに関連して、フランシスコ会宣教師や日本人キリシタン計26人が長崎へ送られ西坂で処刑された。その報復として、スペインのマニラ総督府は日本人追放を決定し、マニラ周辺の日本人定住者数は500人にまで減少した。

1598年頃、この日本人コミュニティは徐々に活況を取り戻した。
この年、日本人傭兵の一団が総督ルイス・ペレス・ダスマリニャス(在位、1593~96)に随行してカンボジアへ向かった。
1603年には、マニラで蜂起したサングレイの暴動をスペイン人が鎮圧するために、日本人が傭兵として動員された。
ところが、1606年、日本人コミュニティもまた、スペイン当局に対して不満を抱き、反乱を起こした。きっかけはマニラの王立大審問院(レアル・アウディエンシフ)が公布したマニラからの日本人追放令であった。反乱は教会関係者らの介入により、未遂に終わった。

しかし、翌1607年~1608年、新たな反乱が発生し、コミュニティはスペイン軍による鎮圧で壊滅状態となった。
同年、ビベロ・デ・ベラスコの外交使節は徳川家康に対し、マニラへ来る日本人は商人と船員に限るよう依頼した。1608年8月6日に使節一行を受け入れた家康は、フィリピンで暴動を起こす日本人はすべて処刑されることに同意した。しかし、実際には、日本人傭兵/海賊のマニラ定住を阻止するための、具体的な対策は採られなかった。

日本人コミュニティ
1614年12月21日、江戸幕府の禁教令を受けて、教会関係者33人と日本人100人以上がマニラに渡った。その中には、秀吉の有力な家臣であった高山右近と内藤如安もいた。右近の没後、故国へ帰れない日本人たちは、内藤如安の指揮の下、マニラにサン・ミゲル居住地を築いた。そこには、若者たちが将来日本に帰還する可能性を配慮し、キリスト教の布教に役立つよう、セミナリオ(神学校)のような施設も建てられた。
その後日本人コミュニティは1608年から15年の間に再建され、日本人傭兵はフィリピンの駐屯部隊において、重要な地位を占めるようになっていった。
1615年、日本人傭兵約500人が、総督フアン・デ・シルバ率いる対オランダ遠征隊に加わり、マラッカ海峡に向かった。その際、マニラに残された兵士たちは、スペイン人500人と日本人およびパンパンゴ先住民総計700名で、オランダの攻撃からマニラを守るため、海上警備にあたった。
1619年の時点で、日本人コミュニティの人口は約2000人であった。
翌年には、3000人との記録がある。
1623年12月31日には、さらに3000人以上へと増加していた。マニラ在住の日本人が急増した背景には、日本とマニラの間の通商往来が盛んになっていたことが考えられる。

日本からは朱印船だけではなく、長崎在住のヨーロッパ人がフィリピンへ来航するようになっていた。
1619年11月22日、ドン・フェルナンド・デ・フィゲイロアを船長とする船が、長崎からマニラへ入港した。その船には、ポルトガル人4名、ビスカヤ人2名、フランドル人1名、ガリシア人1名、カスティーリヤ人1名、ジェノバ人1名が乗っていた。

1620年5月11日には、マニラの外港カビテ港にサント・アントニオ号が長崎から到着した。その船は、同年3月26日に長崎を出発したが、船長は、長崎在住の有力なポルトガル大商人、マヌエル・ロドリゲス・ナヴァーロであった。そこには、日本人船員101人が乗り組んでいた。

呪術を使う日本人奴隷
1621年3月6日、日本人で奴隷身分の2人の女性ウルスラ・ジャボーナとドミンガ・ジャボーナが「魔女」であるとして告発され、その報告がフィリピンからメキシコへ送られた。ウルスラはドゥエナン・イザベル・デ・モンテネグロという女性の病気を治す依頼を受けた。ドゥエナンがウルスラに症状を詳しく説明したところ、ウルスラは、病気は呪いのせいであると診断した。そしてウルスラは、呪いの主として、モンテネグロ家の奴隷を言い当てた。
ウルスラには過去を読む力があり、依頼者の手相を読みとるだけで未来が予測できると信じられていた。唯一「手相読み」があたらなかったのは、逃亡した黒人奴隷についてであった。ウルスラは、この黒人はフィリピンにいて、日本にもマラッカにも逃げていないと断言した。ウルスラはまたこの奴隷が元の主人のところへ戻ってくることを保証したが、それは実現しなかった。

別の例として、1622年3月17日、外科医フアン・デ・イサソゴアラは、日本人フランシスコ・デ・ハボンを「呪術師」として告発した。フランシスコは、フアンに一種の薬草を渡し、それをフアンが恋する女性に与えれば、その女性もまた彼(フアン)に惚れるだろう、と伝えた。フランシスコ・デ・ハボンがフィリピンで異端審問にかけられたのか、あるいはメキシコへ送られたのかは不明である。

スペイン人官僚の日本人妻
史料から判明する日本人妻の例は、いくつかあるが、17世紀前半の有名な事例は、マリアーナ・ナバーロであろう。マリアーナは、スペイン人官僚で、マニラの王立大審問院における要職、検察官であったフアン・ナバーロの妻であった。フィリピンのエリート社会階層に属したマリアーナはキリスト教徒として模範的な人生を送り、教会には欠かさず通っていた。ところが、1613年、マリアーナは修道士ミゲル・デ・サン・フアンが彼女に対し、性的暴行を加えたとして告発した。
その告発記録によれば、修道士は告解室において、彼女と夫の性的関係について質問し、その後夫妻の家に無理やり同行して、彼女に性的関係を迫った、ということである。マリアーナの一件に関する書類は、メキシコ国家文書館の異端審問記録にあるが、事件の結末は、記録からは不明である。

エリート階級にあったマリアーナが修道士を告発した件に関連して、別の女性に関する一件も明らかになった。その女性の国籍、名前は不明である。「日本人」とは記されず、「インディア」と記される。「インディア」は、「インド人女性」や「先住民女性」を意味せず、「アジア人」全般に使われた呼称である。しかし、マリアーナに関連した史料にあるので、その女性は日本人であった可能性が高いと考えられる。彼女はマリアーナの件に類似して、修道士へルナンド・デ・モラガを告発した。

フィリピンと日本の断交
17世紀に入ると、スペイン当局とマニラ在住日本人との関係は悪化し始めた。
1619年と1623年には、複数の日本人グループがマニラを離れ、スペインにとっては最大の敵であるオランダ艦隊に加わった。
1624年、フィリピン総督アロンソ・ファハルド・イ・テンザ(在位、1618~24)が派遣した使節を江戸幕府は拒絶した。それによって、スペイン領フィリピンと日本との関係が正式に絶たれることになる。その理由は、キリスト教宣教師がマニラから密入国してくるのを阻止するためであった。
例外として、1630年、2隻の船がマニラにやってきた。これは1628年にアユタヤで起きた、スペイン船による高木作右衛門の朱印船焼き討ち事件に関連して、マニラの状況を偵察する(軍備などを調査して征服の可能性を探る)ためのものであったと言われる。
2隻の船は長崎奉行竹中采女と島原領主松倉重政が派遣したものであった。これらの船はマニラで商取引をおこなって帰っていったが、以降、マニラー日本間の通商は途絶え、人の往来もなくなった。
稀有な事例として、1632年頃、癩病患者130人が日本からマニラへ送られてくるような事件があった。





7時3分、東京・京橋の日本料理店「京都つゆしゃぶCHIRIRI」。小田尚・読売新聞グループ本社論説主幹、粕谷賢之・日本テレビ報道解説委員長、島田敏男・NHK解説副委員長、曽我豪・朝日新聞編集委員、田崎史郎・時事通信特別解説委員、石川一郎・BSジャパン社長と食事。(首相動静―12月26日)





人生は、手遅れのくり返しです。(ある僧侶) (鷲田清一 折々のことば『朝日新聞』2017-12-20)

人生は、手遅れのくり返しです。
ある僧侶

あの時はわからなかったけど今だったらわかるということが、人生にはよくある。
自分のしたことが、他人に思いも寄らぬ仕方で受けとめられ戸惑う。
他人の人生に意図せぬ屈折や傷を与えてしまい、そのことも後になってようやっと知る。
気づいた時はもう取り返しがつかない。
経験というのはたいていそんなふうに起こる。
母の年忌に、ある僧の言葉として住職から伺った。
(鷲田清一 折々のことば『朝日新聞』2017-12-20)


森友問題で財務省の嘘がまた発覚(週刊金曜日 BLOGOS); 森ゆう子議員「良心的な事務方は、『完全に詰み』と言っている。森友、加計、詩織さん準強姦事件は国家私物化3点セット。安倍首相が辞めるまで徹底的にやる」


安倍晋三「私にとってほんとに騒がしい一年でありました」 安倍昭恵「色んなことがあったのでつらい1年でした」 ← 言っとくけど、これで終わりじゃないよ!





健康格差を自己責任論で議論している段階ではありません(神原一光 日刊ゲンダイ)


2017年12月27日水曜日

東京ミチテラス 2017-12-27

12月27日
今日は職場の納会があった。
1時間ほどで切り上げて、東京ミチテラスへ。

ところが・・・、まァ、この催しのショボィこと。
そういえば去年もショボかったな。
でも、今年はもっとスゴイ。
おまけに一旦、列に入ったら出られないんだ。
そのうえ右に行くな左に行くなと、うるさいことこの上なし。

イルミネーションと言えば、ワタクシ流に言わせれば、
まだ見てられるのはミチテラスまえからあったイルミネーションだけだった(↓)。

観客の数、去年は押すな押すなだったけど、今年はそんなこと全然なかった。






2017年12月26日火曜日

炉心溶融認めず 官邸ではなく当時の東電社長判断(NHK); 東電が民主党に責任をなすりつけようとしていた / NHKニュースウォッチ9 東電が、福島第一原発事故後、2ヶ月以上メルトダウンを認めなかったのは、当時の民主党政権の官邸からの指示とされていたが、そんな指示はなく清水正孝元社長の判断だった。  「言葉の定義が不明確だったから」 / 以前、東電は自ら雇った弁護士が構成するインチキな「第三者委員会」で「官邸が隠せといった」という報告書を出しました。間違っていたことを認めた以上東電は関係者にきちんと謝罪すべきです。..... 安倍総理にも虚偽情報拡散の責任はあります — 菅 直人






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▼菅直人の過去のツイート



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鎌倉 好天であったが富士山ほとんど見えず 材木座海岸のウィンドサーファー 2017-12-26

12月26日、はれ
好天続き。
鎌倉、光明寺の裏山から富士山を見ようと出かけたが.....、おっと、富士山のところにだけ雲がかかって、ま、見えなくはないものの、殆ど見えないトホホ状況。
年内にもう一度見に行こう。

今日は風が強くサーフィン日和りなのかな、材木座はウィンドサーファーで溢れてた。

お昼はいつもの定番、「あしなや」(創業昭和11年)のサンマーメン。
グゥですよ。









『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(7) 第一章 アジア Ⅰマカオ(3終)

北の丸公園
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日本船のトラブル(マカオ事件)
1608年頃、ポルトガル人に仕える日本人傭兵に加え、マカオに到来する日本人奴隷の数が増加し、中国当局はマカオのポルトガル人居留地における日本人の存在を黙認できなくなっていた。

その頃、九州の大名有馬晴信が遣わした朱印船に乗ってマカオへ到来した日本人の船員らと、マカオのポルトガル人たちの間に争いが生じた。
マカオに逗留していた30~40人の武装した日本人集団が、町を略奪し日本に帰るためにマカオ市民のジャンク船を船ごと盗もうとする事件が発生した。
明朝官憲は、ポルトガル当局に対し渦中の日本人を引き渡すよう伝えた。明朝によるマカオのボルトガル人居留地行政への干渉を憂慮し、その命令を受け入れ難いマカオのポルトガル当局は、日本人に対し、明朝の兵士たちに見つからないよう、変装し武器を隠すこと、もし従わない場合、マカオから生きて出られないであろうと伝えた。その最中、ポルトガル人とマカオにいた別の日本人集団の間で新たな争いが起き、状況は悪化した。
暴徒化した日本人により特別治安院判事(オウヴィドール)が重傷を負い、マカオの有力市民の息子が戦闘に巻き込まれて死亡し、ボルトガル人数人とその奴隷たちが負傷した。日本人の中には戦いを放棄した者もいたが、戦闘を継統した日本人は、民家に立て籠もり、そこに有馬家の家臣たちも参入し、立て籠もった者たちは計約40人となった。
武器を捨て、当局に身柄を拘束された者たちは、軽い罰を受けた後、解放された。しかし、立て籠もった日本人たちは、ほとんど全員が殺害された。わずかな生存者は、イエズス会の神父らの仲介もあって、家から出て、処罰を逃れた。
事件後の調査で、現場にいた日本人から証言が集められた。その後、事件の首謀者と見られた日本人1人が処刑された。
その争乱には有馬家の家臣を含む船の乗組員にとどまらず、マカオ在住の日本人コミュニティの者たち(多くはポルトガル人に雇われた傭兵)も参加していた。

明朝当局の日本人に対する警戒
その争乱の経過と結果は、明朝当局を警戒させることとなった。黙認してきたマカオにおける日本人の存在は見過ごしえないものとなり、またポルトガル人に対する信用も揺らいできた。
1614年、実質的にマカオを管理する広東省の両広総督(広東省・広西省の総督)張鳴崗は、マカオから日本人を追放する命令を下した。またポルトガル人が日本人の居留を認めてきた行為そのものが、明朝当局にとっては、裏切りとして認識された。
この間題の処置のため、明朝官憲たちがマカオを訪れると、港湾地帯は黒人と日本人奴隷で溢れかえっていた。そこで、明朝官憲は日本人90人以上を追放した。さらに、新たにポルトガル人が、マカオに日本人を連れてくるなら、その者を明朝の法に従って断首の刑に処すと脅した。

明朝からの圧力に対し、ポルトガル人らは、マカオ租借当初からこの地に滞在してきた「古ポルトガル人」の商人らは、中国当局が定めた法律に常に従っており、広東沿岸を襲う海賊との戦いを通じて、秩序の遵守に貢献した、マカオに日本人を連れてきているのは、中国人とアフリカ人傭兵たちであると主張した。
さらに、マカオ市の代表は、ポルトガル人と日本人の関係の悪化を示すために、マカオ事件に連鎖して1610年に長崎港内で起きたマードレ・デ・デウス号(ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号)事件について説明した。
それは、1609年にカピタン・モールとしてマカオから長崎へ渡ったアンドレ・ペッソアが、その年の末、長崎奉行と有馬晴信の軍勢に襲われて、船員・船もろともに自爆した事件である。この事件は、1608年のマカオ事件に対する復讐行為であると認識されており、マカオと日本の通商はこれにより中断された。加えてポルトガル人たちは、マカオに日本人が居留するのは、中国人の海冠がその地へ連れてきたためであると主張した。
その後も、マカオには日本人のコミュニティが存続したが、1614年の日本人(おそらく傭兵)90人の追放により、いったん事態は収束したと思われる。

キリシタンの移住
ところが同年(1614年)、日本国内のキリシタン問題によりマカオに多くの日本人が到着した。
1614年1月21日、江戸幕府は日本からの伴天連(宣教師)の追放を命じ、それに主だったキリシタンたちも随行した。宣教師や知行地を失った多くの有力な日本人キリシタンを乗せた3隻の船のうち、1隻はマニラへ、残り2隻はマカオへ向かった。キリシタンと宣教師約100人が分乗したと言われるから、この時出国したのは約300人ほどと推測される。
マカオ港に到着した日本人の数は不明であるが、1614年12月21日、マニラには教会関係者33人と日本人100人が到着したとの記録があり、マカオに到着したのは200人前後であったと推測できる。

この時代、日本人の奴隷取引は、あらゆる方面で禁止されていた。にもかかわらず、「モッソ・デ・セルヴィッソ(期限の有無を問わない奉公人)」たちは、イエズス会の宣教師に随行してマカオへ渡った。ポルトガル側の文献によれば、長崎奉行所はこれらの日本人の奉公人が出国するのを阻止しようとして、神父から引き離したとあるが、中には奉行所の監視を逃れて、乗船した者もいた。
すでにその時期、日本人奴隷の取引はマカオの商人の収入源ではなくなっていた。イエズス会士たちは未だ日本人の奉公人を使用していたが、ヨーロッパやインドのイエズス会、スペイン・ポルトガルを同君統治下に置く国王フェリペ3世(在位、1598~1621。ポルトガル国王フェリペ2世)、日本の為政者たちはマカオの奴隷商人に圧力をかけ、日本人奴隷の取引をやめさせることに成功した。

マカオには難民受け入れの準備がなく、多くの日本人の到着は大きな混乱をもたらした。日本から戻った宣教師や日本人キリシタンが投宿したマカオの聖パウロ学院はたちまち人で溢れかえり、とても窮屈なものになった。
1616年当時、学院には日本人学生10人がおり、ヨーロッパからの聖職者に対して、日本語(入門レベルから上級レベルまで)の教習がおこなわれていた。このような日本語教育は、近い将来、宣教師が日本人に扮装して密入国し、潜伏布教活動をおこなうための準備であった。

1625年の住民台帳
1625年、マカオでは、マカオ出生の市民と他の地で出生しマカオに定着した市民のうちの男性を対象とした人口調査が実施され、外国人の数も調べられた。マカオ生まれの市民の大半は、ポルトガル人の父親と日本人、中国人、マレー人、朝鮮人、インド人などの母親の間に生まれた混血者たちで、ジュルバッサと呼ばれた。ジュルバッサの語源はマレー語で、本来は通訳を意味したが、マカオでは通訳はおおよそ混血者によって担われたため、この単語が別の意味で定着したと言える。

この調査では、マカオに多数いたはずの他のアジア人の人種・民族別構成は扱われず、子供や女性の実数も不明である。
1625年の時点で、マカオにはポルトガル系またはヨーロッパ系の男性が358人、混血の男性は411人、外国人は75人住んでいた。
居住地域別で見ると、マカオ市民をマカオ地区、サン・ロウレンソ地区、サント・アントニオ地区の3地区に区分することができる。最も人口が多いマカオ地区には329人(43%)の男性が登録され、続いてサン・ロウレンソ地区に298人(39%)の男性、サント・アントニオ地区に142人(18%)の男性がそれぞれ登録されていた。マカオ地区内では、混血が55%(182人)を占め、残りの45%(147人)は、ポルトガル人かその他のヨーロッパ人であった。サン・ロウレンツ地区でもほぼ同様に、42%(126)はヨーロッパ人、58%(172人)が混血であった。サント・アントニオ地区では混血は40%(57人)、ヨーロッパ人は60%(85人)であった。

この1625年の史料からは、当時マカオにあったヨーロッパ人の居留社会は、徐々にその中核を、混血の子孫らが占めるようになってきたことがわかる。有名な探検家や航海者ではない、アジア各地に拡散したポルトガル人たちは、これまで歴史の中ではほとんど語られてこなかった。

彼らが歴史上果たした重要な役割は二つある。一つは、ポルトガル人が持っていた造船や操船、火器製造の技術などを、全アジア地域に広めたことである。二つ目は現地に定住することで、現地社会と緊密なつながりを形成し、その子供たちもまた、ヨーロッパとアジアの地域社会をつなぐ商業ネットワークを発展させた、という点である。

明朝当局によって日本人のマカオ逗留は違法とされ、厳罰の対象であったことから、マカオの日本人コミュニティに関する情報は多くはない。しかし、マカオには多くの日本人がおり、社会の重要な構成要素であった。日本人の一部は、船員などの季節労働者であり、マカオと長崎の間を常に往来する者たちであった。



藻谷浩介「85年生まれの人は428万人、仕事を得た。定年間近の人は515万人、仕事を失った。辞めた分を若い人で補おうにも90万人足りない。これが人手不足。若い人が就職しやすくなったのはアベノミクスに関係なく誰が首相でも必ずこうなる」




▼こんなこと言ってる人がいる

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100歳人生、生きるヒントは 五木寛之さんに聞く - 毎日新聞 ; 90代、無尽蔵の記憶に遊ぶ 80代、しがらみ捨て自由に 70代、下り途中の丘を楽しむ 60代、生活をリセットする 50代、下山の人生歩む覚悟を     


森友・加計著書巡り、朝日新聞社が評論家提訴 「名誉を著しく傷つけた」; 小川栄太郎の著書「徹底検証『森友・加計事件』 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」 / 「森友・加計は朝日の捏造」と断定し朝日から抗議を受けた小川榮太郎の安倍擁護本を自民党が大量購入!






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東京 カレッタ汐留のイルミネーション 2017-12-25

12月25日(月)
銀座で呑み会のお誘いがあったので、集合時間前にカレッタ汐留のイルミネーションを見に行った。
若い人たちで溢れていた。






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