2024年11月28日木曜日

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 PR会社「広報全般担当」は「事実でない」 斎藤知事の代理人弁護士(朝日) → 弁護士の知識(情報)不足が露呈して、「事実でない」に対する反証もイッパイでてきた / 斎藤兵庫県知事、代理人に丸投げ…代理人は困惑&返答に詰まる場面も “公選法違反疑惑”の解明に至らず(スポニチ) / 【終わらない兵庫県知事選】斎藤元彦知事&代理人弁護士「時間差会見」のあざとい狙い…二人揃ってPR会社美人社長をバッサリ切り捨て(日刊ゲンダイ)     

 



 

「NHK党は反社会的カルト集団」名誉毀損に当たらず 投稿のインターネット記者に賠償責任なし 東京地裁判決(東京) / N国党の「名誉毀損」の訴えが“棄却”… 原告が事実関係を「争わず」2回で“スピード結審” / N国市議に勝訴したライター「スラップ訴訟は民主主義をぶっ壊す」(弁護士ドットコム) / 「N国は反社会的カルト集団」の投稿、違法と認めず 東京地裁判決(朝日);「判決は、過去に立花党首が…『法律を守らない政党であるということを売りにしたい』…『アホみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう』と発言したーーことなどが真実だと指摘」 / 判決はN国党について、「違法と評価される行為を平然かつ盲目的に行う集団又は団体である」と認定しました /     



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 斎藤知事1期目の公約達成率は27.7% 出直し選、SNSで「達成率98%」の誤情報広がる(神戸新聞) / 記者会見(11/27)で、公約達成率98%はデマとバレる / 「朝日新聞が担当部署に取材したところ、実際の達成率は27.7%だった」 / 「記者 3年間の公約達成率98%は事実か  斎藤氏 公約達成着手率が98#余」 ← ハァ?  

大杉栄とその時代年表(328) 1901(明治34)年4月1日~2日 「一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』)

 

中江兆民

1901(明治34)年

4月

「「文壇照魔鏡」読みて 江湖の諸子に訴ふ」(新声)。鉄幹弁護

4月

同日付け『労働世界』第75号英文欄に高野房太郎が北京に滞在中との短信

4月

大阪市、日本初の市史編纂事業を開始。編纂主任は幸田成友。

4月

谷崎潤一郎(15)、府立第一中学校入学(現 日比谷高校)

4月

山県有朋、伊藤博文首相に「東洋同盟論」を送り、日英独3国同盟推進を建言。

4月

中江兆民、この月、紀州和歌の浦に数日遊んだが、ノドの狭窄がびどくなり呼吸困難を覚え、痛みも治まらなかった。兆民はガンではないかとの疑いを抱き、直ちに大阪へ帰り、耳鼻咽喉専門の堀内医師の診断を請うたところ、堀内医師は詳細に検視して、切開が必要と告げた。兆民はガンと察知し、一旦は切開手術を承諾した。しかしその報を聞いた妻弥が直ちに大阪に来て、ガン切開の危険を説き、維持策を取るよう説得し、切開手術は思い止まった。

兆民、堀内医師に死期の告知を請う。


「余一日堀内を問ひ、予め諱むこと無く明言し呉れんことを請ひ、因て是より愈々臨終に至る迄猶は幾何日月有る可きを問ふ、即ち此間に為す可き事と又楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を為さんと思へり、堀内医は極めて無害の長者なり、沈思二三分にして極めて言ひ悪くそふに曰く、一年半、善く養生すれば二年を保す可しと、余曰く余は高々五六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余の為めには寿命の豊年なりと、」


「一年半、諸君は短促(短期間)なりと曰(い)はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時(せいじ)限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』)


ここから、随筆集『一年有半』執筆に繋がってくる。

兆民は、執筆の楽しみを『一年有半』の中で、


「余の目下の楽(たのしみ)は、新聞を読む事と、一年有半を記する事と、喫食する事との三なり。」


と言う。

4月

荒畑寒村(13)、市立吉田小学校高等科卒業し、山下町の貿易商チャールズ・セールス商会オフィス・ボーイに就職。月給5円。夜間、横浜英語学校に通う。後、リチャード・ホーシェー経営の個人商会に移る。

4月

永井荷風(22)、 「日出国(やまと)新聞」主筆に転じた福地桜痴とともに入社、雑報記者となる。

4月

鈴木庫三(8)、田水山尋常小学校入学。成績良好。この前あたりから養家の経済状況悪化。後、更に貧しくなる。養家の農業を手伝いながら、実家から月謝・書籍代の援助を受けて、高等小学校に通う。1907年、14歳、経済状態から、幼年学校進学を諦める。この年設立された帝国模範中学会の通信会員となり勉強。

4月

米、ガソリンで走る最初の量産車、オールズモービル登場。生産量は当初週に10台強。

4月

ベルギー、普通選挙権を求めるゼネスト。

4月

エドゥアルト・トール、タイミル半島突端チェリュスキン岬に上陸。41日間調査。9月11日(露暦)ベンネト島を見つけるが、氷のために接岸できず、カチョルヌ島で2度目の越冬。

4月1日

私立女子美術学校、東京本郷に開校。女子美術大学の前身。

4月1日

京都博覧協会主催の第1回全国製作品博覧会開催(京都御苑)。

4月1日

ナイジェリア、奴隷廃止。

4月1日

フィリピン、アメリカに忠誠を誓う。

4月1日

4月1日 ロンドンの漱石


「四月一日(月)、 April Fools' Day (四月馬鹿の日 All Fools' Day 万愚節)。朝食に行くと、長尾半平(在パリ)から為替来る。八十ポンドのうち、七十ポンドをパリに送れというので正金銀行へ行き手続きする。結局十ポンド(二百シリング)借りたことになる。 Henry Fardel (ヘンリー・ファーデル)、正岡子規、直矩から手紙来る。ドイツ人の散髪屋で日本のこと話し合う。」(荒正人、前掲書)

*(Fardel は五高の教師)


4月1日

文部省、第三高等学校の法学部・工学部を廃止。鹿児島に第七高等学校造士館を設立。

9月11日、授業開始。

4月2日

4月2日~4日 ロンドンの漱石


「四月二日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。帰途、 Charing Cross (チャリング・クロス)の古本屋で二、三冊買う。馬車の上で日本に行ったことがあるというイギリス人から話しかけられる。入浴する。鏡(推定)から小包届く。 Miss Milde, 山田某に手紙を出す。

四月三日(水)、 Glasgow University (グラスゴー大学)から examiner に任命すると公式通知来る。

四月四日(木)、 Easter Holiday のため下宿の主人夫妻は田舎の妻の実家に行く。 Miss Sparrow (スパロー嬢)一人残る。彼女は娯楽を好まず、働くことに満足しているようで、その理由を尋ねると、神を信じるからだと答える。田中孝太郎に妻からの手紙来る。田中孝太郎の旧師(横浜商業学校(推定))が留守宅に訪ねて、父親と対談中、御子息は、何年位外国にいるかと聞くので、二、三年位と答えると、旧師は、せっかく行ったのだから、五、六年は滞在していたほうがよいと云う。妻はそれを陰で聞いて、大層悲しく思ったとのこと。これを聞いて、女性の情と昔風の先生の様子は、小説のようだと思う。」(荒正人、前掲書)


つづく


ネタニヤフにICC逮捕状 世界は「西側の指導者」を拘束できるか?(クーリエ・ジャポン);「イスラエル紙「ハアレツ」は逮捕状の発行を受けて、「イスラエルにとって前例のない道徳的な汚点だ」とする社説を掲載し、ネタニヤフとガラントのほか、彼らがガザでおこなう「民族浄化」を止めようとしない国民も非難した。 「イスラエル、そしてイスラエル国民全員にとっての問題は、...ICCに指摘された、政府と軍による恐ろしい行動が問題なのだが、イスラエル国民のほとんどはそのことに無関心のままだ」 「ハマスがイスラエル人に対しておぞましい戦争犯罪を犯し、降伏も人質解放も拒んでいるからといって、イスラエル軍によるガザでの大量殺戮や破壊が正当化されるわけではない」」

2024年11月27日水曜日

「ショートでかわいらしい雰囲気の女性」“被害総額10数億”三菱UFJ貸金庫から客の資産を盗んだ元行員の“正体”「女優でいえば…」(文春オンライン) / 三菱UFJ行員が貸金庫から窃盗 Yahoo!知恵袋で3年前に酷似事案告白、「なぜスルー」の声も(J-CASTニュース) / 三菱UFJ銀行員が十数億円を窃取 顧客約60人の資産、貸金庫から(朝日); 三菱UFJ銀行は22日、東京都内の貸金庫から顧客の資産を盗んでいたとして、貸金庫の責任者だった行員を14日付で懲戒解雇したと発表した。被害者は約60人に上り、時価で十数億円の被害を確認したという。

大杉栄とその時代年表(327) 1901(明治34)年3月22日~31日 「おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

 

藤代禎輔

大杉栄とその時代年表(326) 1901(明治34)年3月15日~21日 「総ての楽、総ての自由は尽く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。」(子規「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

3月22日

中江兆民、商用で大阪へ赴こうとして仕度を整えた際、突然ノド部分から多量の出血があったが、しばらくして止まったので予定どおり出発。

実は、前年秋頃から兆民の健康に異変を生じていた。11月頃より声がかすれるようになったが、痛みは感じなかったので放置していた。その後左首筋に硬いしこりがあり、押えると痛みを感じるので、咽喉専門医の診察を受けたところ、喉頭カタルと診断された。この年3月の長野遊説時には首筋のしこりは大きくなり痛みも感じるようになっていた。

3月23日

「明星」第11号、1ヶ月遅れで発行。巻頭に鳳晶子の「おち椿」79首、山川登美子は「紅鶯」15首を寄せる。「明星」第12号は5月25日発行。この月、鉄幹第3詩集「鉄幹子」、翌4月、第4詩集「紫」発刊。

3月23日

フィリピン、米支配に反乱を起こしたエミリオ・アギナルド、逮捕。

4月2日、米への忠誠を誓う。

3月23日

3月23日~26日 ロンドンの漱石


「三月二十三日(土)、夜、 Metropole Theatre (メトロポール劇場)で Robert Marshall (ロバート・マーシャル)の ""The Royal Family"" (『王室家族』)を観る。翌朝のためワイシャツ・靴下を替える準備をする。

三月二十四日(日)、井原斗南を Balham (バラム)に訪ねる。不在。渡辺雷を Clapham Common (クラッパム共有地)に訪ねる。不在。田中孝太郎と同行である。

三月二十六日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。夜、井原斗南訪ねて来て、三月二十八日(木)の夕食に招待される。長尾半平(在パリ)から手紙来る。」(荒正人、前掲書)


3月24日

東京地裁・区裁の判検事ら、司法官増俸予算削減に抗議し、辞表提出。各地の地裁にも波及。

3月24日

第15議会閉会。

3月24日

英外相、林董駐英公使に英独協商は満州にも適用と回答。

3月24日

ランズダウン英外相、揚子江協定(1900.10.16)を満州に適用することを回答。

3月25日

珍田捨己駐露公使、満州に関する露清約定等について露に抗議。

3月26日


「 ある日左千夫鯉(こい)三尾を携へ来りこれを盥(たらい)に入れてわが病牀の傍(かたわら)に置く。いふ、君は病に籠(こも)りて世の春を知らず、故に今鯉を水に放ちて春水(しゅんすい)四沢に満つる様を見せしむるなりと。いと興ある言ひざまや。さらば吾も一句ものせんとて考ふれど思ふやうに成らず。とやかくと作り直し思ひ更(か)へてやうやう十句に至りぬ。さはれ数は十句にして十句にあらず、一意を十様に言ひこころみたるのみ。

 (後略)

(三月二十六日)」(子規「墨汁一滴」)"


3月27日

佐藤栄作、誕生。

3月27日

ロンドンの漱石


「三月二十七日(水)、 Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊している常陸丸の立花銑三郎より手紙あり、病気帰国の途中なので直ちに見舞う。容態悪い。立花銑三郎と同船の医学士望月淳一と渡辺雷を British Museum (大英博物館)と National Gallery (ナショナル・ギャラリー)に案内する。夜、渡辺雷来る。(立花銑三郎のことをさらに話したものと思われる)領事館の諸井六郎(推定)が examiner (試験委員)の件で来訪する。」(荒正人、前掲書)


3月27日 漱石、ドイツへ留学していた旧友立花銑三郎をアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に見舞う。日記には「気の毒限ナシ」とある。


「・・・・・立花銑三郎は肺を病み、帰国中の常陸丸からその旨を知らせてきた。漱石はすぐにアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に彼を見舞った。どう見ても重病で、立花はその後、香港を出てすぐに船中で死亡した。ドイツで立花と親しかった藤代素人(禎輔)の回想「夏目君の片鱗」に、立花の句として真偽不明の話が残っている。おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


「立花銑三郎は、常陸丸で Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊中に芳賀矢一に手紙を出す。そのなかに、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」という句を書き添えている。日本とロシヤの戦争が近いことを知り、ロンドンに来ている日本人の生活を皮肉ったものと思われる。(藤代禎輔(素人)「夏目君の片鱗」『漱石全集』月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)


3月28日

北海道会法公布。

3月28日

3月28日~3月31 ロンドンの漱石


「三月二十八日(木)、朝、長尾半平(在パリ)から手紙来る。入浴のため外出する。夜、長尾半平に手紙を書き、借金を申し込む。その前か後に、 Miss Robert (ロバート嬢)とピンポンをする。多忙のため井原斗商の夕食招待は断る。

三月二十九日(金)、 Glasrow University (グラスゴー大学)の examiner に任命するとの総領事館(84 Bishopsgate Street Within, E.C.)からの通知を受ける。井原斗南から、夕食に応じられなかったことは残念だと葉書来る。

三月三十日(土)、「白シャツ襟ヲ易フ、近頃ハ毎日風ナリ、」(「日記」)昼、 Hippodrome (ヒッポドローム)を見に行く。安い席なく、五シリング払う。「帰リニ bus ニ乗ツタラ『アバタ』ノアル人ガ三人乗ツテ居タ、」(「日記」)夜、 Glasgow University (グラスゴー大学)の書記官 Clapperton に examiner 承諾したと書き送り、 Addison (アディスン)に試験問題を送る。

三月三十一日(日)、田中孝太郎と Brockwell Park (ブロックウェル公園)に行く。男女二人連れの一人は、金之助たちを日本人と云い、他の一人は中国人と云う。」(荒正人、前掲書)


長尾半平: "

「慶応一年(一八六五)七月二十八日生れ。昭和十一年(一九三六)六月三十日、京城にて死去する。明治二十四年(一八九一)七月、帝国大学工科大学土木科を卒業する。明治二十年(一八八七)、帝国大学に入学してまもなく麹町教会で受洗する。明治十五年(一八八二)、新潟中学校を卒業した年に禁酒を誓い、後に禁酒運動に尽力する。明治三十三年(一九〇〇)四月、台北市区計画委員の時に、ヨーロッパに出張し、八月、臨時台湾基隆築港技師になる。台湾総督官後藤新平の命令で、金銭や時間の制限なく出張していた。初めはホテル、次に漱石と同じ下宿、続いて近くに知り合いがあったので、そこに下宿した。漱石と同じ下宿にいた期間は、一月十九日(土)以後三月二十八日(木)以前と推定する。長尾半平は、四月中に、パリからロンドンに戻ったと想像される。その時、漱石の下宿にいたとも、近くの下宿に移っていたとも二通りの想像ができる。長尾半平の「ロンドン時代の夏目さん」(『漱石全集』二十巻 月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)には、次のように述べられている。

「或る時、夏目さんが金を貸してくれといふので、いくら位だいと問ねたところ、『まア二十ポンドぽかり』といふので、その時夏目さんがいかにも呑気なので、私はぷしつけに『一體その金は返してくれるんだか、それとも君にやるんだか』と問ねたところ、夏目さんはいかにも悠長に『いやア、返すんだよ』といつて、結局その時、二十ポンド程、夏目さんに貸したやうなわけである。」長尾半平は、日本に帰ってから、この金を返して貰ったと語っている。」(荒正人、前掲書)


3月29日

羽仁五郎、誕生。

3月29日

鉄幹、晶子に手紙。「粟田のかりね しのばれ候、あひたく候、四月の末とは遠き遠き候ことに候かな」。

3月29日

クラーク・ゲーブル、誕生。

3月30日

閣議、渡辺国武蔵相、突如、公債支弁国家事業の中止を提案。第4次伊藤内閣、渡辺と他閣僚の意見不一致となる。

5月2日伊藤は、閣内不統一で辞表提出。

3月30日

「荒城の月」「箱根八里」などを収めた「中学唱歌」、東京音楽学校から出版。

3月31日

アントニン・ドボルザークのオペラ『ルサルカ』初演(プラハ)。


つづく

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 PR会社の(折田)社長が県の有識者会議に出席し、県から15万円の謝礼が支払われていた。公職選挙法では県と利益を伴う契約の当事者が選挙に関して寄付することを禁止しています 選挙管理委員会「PR会社の社長が行った行為が寄付なら法に抵触する可能性…」 /   “広報”女性社長は「一度もやったことない」のに兵庫県eスポーツ検討会委員に選ばれていた…彼女を選挙カーに上げた理由を聞かれた知事は仰天回答(集英社オンライン)  



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 兵庫・斎藤知事の選挙カーでライブ配信 公選法違反疑惑を浮上させたPR会社・女性社長のSNS戦略の実態を目撃(AERA.dot); 〈広報全般を任せていただいていた〉 斎藤氏のアカウントすべてを〈管理・監修〉 選挙カーに同乗してライブ配信していた折田氏 「ガッツポーズなどの演出も折田さんの戦略」 「私の働きは400人分に見えていたんや!」 選挙運動への報酬は公選法違反の疑いが 斎藤氏の弁明と食い違う折田氏のブログ 「刑事告発も視野に入れている」   

 



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 「立花さんのYouTubeでテレビのウソがわかった」「メディアは一切信用しない」兵庫県知事選、斎藤元彦氏の応援団に“1か月密着取材” 見えてきた勝利の背景(NEWSポストセブン)



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 野村修也 テレビ(ミヤネ屋)で斎藤兵庫県知事を擁護 亀井弁護士の発言を遮ってまでの醜態だった模様 

2024年11月26日火曜日

庭の鉢植えのハイビスカスが開花した 2024-11-26

 11月26日(火)晴れのち曇りのち雨

2日ほど前からハイビスカスが花開く気配。

まさかと思ったけど、今朝、しっかり開花していた。

なんか嬉しい。

このハイビスカス、長男が海外駐在する際に譲り受けたもの。

譲り受けた時は、まだ「草」の様だったけど、今は(モチロン今も「草」だけど)「木」のようにしっかりした幹に育っている。


大杉栄とその時代年表(326) 1901(明治34)年3月15日~21日 「総ての楽、総ての自由は尽く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。」(子規「墨汁一滴」)

 

キュー宮殿

大杉栄とその時代年表(325) 1901(明治34)年3月12日~14日 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。」(漱石「日記」) より続く

1901(明治34)年

3月15日

上海の張園でロシアの要求を拒否する集会。「拒俄運動」。

3月15日

大杉栄(16)、幼年学校隣接の地方裁判所が火事になり「御真影」の警護につく。


3月15日

「 散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治(とうじ)に行く楽、紅燈(こうとう)緑酒(りょくしゅ)美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓こする楽、道灌山(どうかんやま)に武蔵野の広きを眺めて崖端(がけはな)の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥(ざが)の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠(かわや)に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪(かんしゃく)の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。――総ての楽、総ての自由は尽(ことごと)く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇(はげ)しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸(ようや)く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。

 耶蘇(ヤソ)信者某(なにがし)一日余の枕辺(ちんぺん)に来り説いて曰(いわ)くこの世は短いです、次の世は永いです、あなたはキリストのおよみ返りを信ずる事によつて幸福でありますと。余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、奈何(いかん)せん余が現在の苦痛余り劇しくしていまだ永遠の幸福を謀るに暇(いとま)あらず。願くは神先づ余に一日の間(ひま)を与へて二十四時の間(あいだ)自由に身を動かしたらふく食を貪(むさぼ)らしめよ。而して後に徐(おもむ)ろに永遠の幸福を考へ見んか。

(三月十五日)」(子規「墨汁一滴」)

3月15日

独、ビューロー宰相、揚子江協定の満州適用を否定。英日独間の反露ブロック交渉中断。

3月16日

義和団事件での軍事費を捻出するための増税諸法案、12日の勅語を受けて、貴族院で可決。

3月16日

田中正造、衆議院で足尾銅山鉱毒事件を見過ごす政府を非難。

3月16日

この日の漱石


「三月十六日(土)、田中孝太郎と共に、 Metropole Theatre (メトロポール劇場)で Ralph Lumley (ラルフ・ラムリー)の ""In the Soup"" (『スープの中で』)という滑稽劇を見る。」(荒正人、前掲書)


3月16日 この日付け漱石の『日記』。


日本ハ三十年前ニ覚メタリト云フ。然レドモ半鐘ノ声デ急ニ飛ビ起キタルナリ。其覚メタルハ本当ノ覚メタルニアラズ。狼狽シツゝアルナリ。只西洋カラ吸収スルニ急ニシテ、消化スルニ暇(イトマ)ナキナリ。文学モ政治モ商業モ皆然ラン。日本ハ真ニ目ガ醒ネバダメダ


3月17日

3月17日~18日 ロンドンの漱石


「三月十七日(日)、襟白シャツを替える。昼、田中孝太郎と共に、 Kew Garden (キュー・ガーデン 植物園)を見、 Kew Palace (キュー宮殿)に赴く。

三月十八日(月)、中根重一からの手紙で、次女恒子の生れたこと知らせてくる。立花銑三郎(在ベルリン)宛手紙に、二、三日前、芳賀矢一と藤代禎輔(素人)からの連絡で病気で帰国することを知ったが、その際、 London に寄るなら、自分の下宿に来ないかと伝える。日本人相手の下宿屋だが、現在は他に日本人は一人(田中孝太郎)いるだけで、暫くすると、フランスから一、二名乗るかも知れぬと書き添える。」(荒正人、前掲書)


3月18日 この日付け漱石の『日記』。


「吾人ノ眠ル間、吾人ノ働ク間、吾人が行尿送尿の裡(ウチ)に、地球ハ回転シツゝアルナリ。吾人ノ知ラヌ間ニ回転シツゝアルナリ。運命ノ車ハ之卜共ニ回転シツゝアルナリ。知ラザル者ハ危(アヤフ)シ。知ル者ハ運命ヲ形(カタチヅ)クルヲ得ン」


3月17日

露、サンクト・ペテルブルク、反帝政派暴動。レフ・トルストイ破門に抗議の学生がカザン大聖堂に押し掛けミサを中止させようと路上で反帝政のビラ配布。コサック兵が鎮圧。同様の暴動は、モスクワ、オデッサ、キエフ、ハリコフでも発生。

3月18日

黒岩涙香「巌窟王」連載。1年3ヶ月。

3月19日

3月19日~20日 ロンドンの漱石


「三月十九日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。謝礼を払う。夜、入浴に行く。煙草四箱を買う。

三月二十日(水)、風雨激しい。 Camberwell Park (キャンパーウェル公園)を散歩する。鏡から手紙(二月十日(日)付)届く。(出産を伝えたものと思われる)」(荒正人、前掲書)


3月20日

張之洞湖広総督、小田切上海領事に満州三省開放提議。

5月11日、政府は見合わせることを勧告。

3月20日

加藤外相、清国公使に満州に関する露の期限付き要求(3月26日まで)を拒否することを勧告。露に対しても、要求の撤回を勧告。

3月21日

ロンドンの漱石


「三月二十一日(木)、文部省からの送金届かず大いに困る。金沢の藤井乙男(紫影)から、書籍購入の委託を受ける。イギリス・フランス・ドイツは、世界の強国と自惚れているが、ギリシャやローマの滅びたことを忘れている。日本は未来に向って、誠実な努力を払うべきだと思う。」(荒正人、前掲書)


3月21日付け漱石のロンドン日記

ヨーロッパ列強について、


「(前略)英人ハ天下一ノ強国卜思ヘリ仏人モ天下一ノ強国卜思へり独乙人モシカ思ヘリ彼等ハ過去ニ歴史アルコトヲ忘レツゝアルナリ羅馬ハ亡ピタリ希臘モ亡ビタリ今ノ英国仏国独乙ハ亡プルノ期ナキカ、」


と、世界の帝国主義列強国イギリス、フランス、ドイツの前途を思い、それでは日本はどうすればよいのかを考える。


「日本ハ過去ニ於テ比較的ニ満足ナル現在ヲ有シツゝアリ、未来ハ如何アルベキカ、自ラ得意ニナル勿レ、自ラ棄ル勿レ黙々トシテ牛ノ如クセヨ孜々トシテ鶏ノ如クセヨ内ヲ虚ニシテ大呼スル勿レ真面目ニ考へヨ誠実ニ語レ摯実ニ行へ汝ノ現今ニ播ク種ハヤガテ汝ノ収ムベキ未来トナツテ現ハルベシ」


と真面目に考える。

留学中の漱石はとくに愛国者である。しかし、脱亜入欧主義者でも、国家主義者でも、帝国主義支持者でもない。世界が見えるロンドンから日本の過去、現在、未来を透視している漱石である。


また、この日の『日記』には、


ふたたび、「カルルスバード一瓶ヲ買フ」(胃腸薬)とある。


つづく

2024年11月25日月曜日

七里ヶ浜からの富士山 ほんの少し紅葉が始まった鶴岡八幡宮国宝館まえ 2024-11-25

 11月25日(月)はれ

今日は朝からクリヤな富士山が見えそうなので、七里ガ浜に行ってみた。

いつものように、朝の間はグズグズしていたので、現地着は正午頃。それでも、まあまあクリヤな富士山を見ることができた。

次に、経験的には鎌倉でも早めの紅葉が見える鶴岡八幡宮に向かった。

お目当ての国宝館まえ、ほんの少しだけ紅葉が始まっていた。

いやはや、今年の紅葉巡り、どうなるか見当もつかない。

▼七里ヶ浜からの富士山(正午ころ)


▼行合川鉄橋と江ノ電


▼鶴岡八幡宮源平池

▼国宝館まえ
位置で紅葉が始まっている


▼柳原神池周辺
まだ紅葉とは言えないレベル


【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】(11/25百条委員会サボって全国知事会出席。東京のマスコミにきっちり詰められる) → 斎藤知事代理人弁護士 PR会社にポスターデザイン費として約71万円払うも契約書はなし(カンテレ) /「PR会社に70万円支払い」兵庫県の斎藤元彦知事「SNSなどについて意見を伺った」公選法違反との指摘は「事実ない」否定(FNN) /  PR会社にポスターデザイン制作費などの名目で70万円あまりを支払ったと認める 斎藤元彦知事のSNS戦略に公職選挙法違反の疑い指摘(TBS) / 斎藤氏代理人「70万円はチラシやポスターのデザイン制作費」 後援会名義で支払いと説明(産経) / 斎藤元彦知事ヤバい体質また露呈! SNS戦略めぐる公選法違反「釈明の墓穴」…PR会社タダ働きでも消えない買収疑惑(日刊ゲンダイ) / 玉川徹「選挙運動は記載されてる事だけが許される。それ以外の記載がない事は全て許されない。SNS戦略も記載がないので許されない。」 / PR会社社長「答えるなと言われている」(口止め!) / 斎藤「折田さんはボランティア」 / 記者「ポスターを製作する人がなぜ斎藤さんの横で選挙カーの上に乗ってSNSを配信していたんでしょうか」 答え「そこを含めて今、代理人、弁護士が対応を考えていますので」 / 齋藤氏が広報戦略費を払った場合→公職選挙法違反 無償で戦略企画した場合→政治資金規正法違反    


〈報道ステーションのツイート全文〉

【#斎藤知事】公選法違反の可能性は?PR会社社長は“ボランティア”

▼#公職選挙法 では選挙運動は原則“無報酬”

例外として“報酬が支払える場合”も

・選挙運動の事務員

選挙事務所内で事務作業をする人

・車上運動員

いわゆる“ウグイス嬢”など

・手話通訳者

演説などを手話で通訳

→これ以外に報酬を支払うと“#買収罪”

また、ポスター製作を業者が有償で行うことも認められる

▼今回は何を問題視?

日本大学法学部 安野修右 専任講師

「業者が主体的に選挙運動の企画・立案を行っていた場合、選挙運動にあたる可能性が高い。もし斎藤氏の陣営が報酬等を支払っていたとしたら、公職選挙法“買収罪”抵触の可能性」

▼斎藤知事は25日の取材で…

「ポスターなどの製作費として、PR会社に70万円ほど支払った。SNSは斎藤事務所が主体的に運用。PR会社の社長はボランティアとして参加した」

日本大学法学部 安野修右 専任講師

「報酬を受け取るべき業務を無償で行っていたとしたら、“#寄附行為”にあたる可能性。仮に県と利害関係があり、寄附行為をしていたとすれば、公職選挙法199条1項“特定の寄附の禁止”に該当する可能性も」




 



〈報道ステーション+サタステ ツイート全文〉

【#兵庫県知事選 PR会社社長は『ボランティア参加』】

兵庫県 #斎藤元彦 知事

(Q.SNS全般を任せ、広報の金を払っていたのでは?)

「今回の件について、公選法違反にならないと認識」

▼先週水曜日、PR会社社長が公開したnote

「今回広報全般を任せていただいていた立場として、まとめを残しておきたいと思います」

「私が監修者として運用戦略立案、アカウントの立ち上げ、プロフィール作成、コンテンツ企画、信頼できる少数精鋭のチームで協力しながら運用していました」

「ご本人は私の提案を真剣に聞いてくださり、広報全般を任せていただくことになりました」

「そのような仕事を東京の大手代理店ではなく、兵庫県にある会社が手掛けたということもアピールしておきたいです」

総務省によると、ネットを利用した選挙運動への対価として報酬を支払っていた場合、公職選挙法の『買収罪』が適用される可能性があります

兵庫県 斎藤元彦知事

「(PR会社に)ポスターの制作などを依頼したという事実はございます」

「制作物を依頼したということが事実でございます」

(Q.お金は払っている?)

「製作費として70万円ほど支払っています」

斎藤知事の代理人弁護士は、あくまでポスターなどの製作費であり、公職選挙法違反にはあたらないとしています

(Q.70万円以外は一切払っていない?)

「そうです」

(Q.ネット戦略立案については無償でやってもらった?)

「基本的にはご意見は伺ったり、アイデアは聞いたりしましたけど、斎藤元彦陣営・斎藤元彦として主体的に対応した」

「(PR会社社長は)ボランティアとして個人で参加されたと認識しています」


▼“ボランティア”だったとしても問題が―

PR会社社長は、去年から兵庫県の『空飛ぶクルマ会議』で検討委員を務めていました

公職選挙法では、特定の地方公共団体と利害関係のある契約者が、その地方の知事選などでの寄付行為を禁止しています

→無償で業務をしていた場合、“寄付”に該当する可能性


兵庫県 斎藤元彦知事

(Q.県の検討委員を務めているという認識はあった?)

「いろんな場面で接触するということがありました」

(Q.契約上まずいことになるという意識はなかった?)

「今回については、知人の方を介して紹介をしていただいた」

「法令に抵触するような事実はないと認識していますので、代理人の弁護士に対応を一任していますから、そちらのほうでしっかりと確認をしていきたい


▼PR会社の社長はANNの取材に対して―

(Q.今回の件は仕事としてやっていた?)

「『答えるな』と言われています」

(Q.SNSの仕事を請け負っていた?)

「『答えないで』と言われています」

(Q.弁護士ですか?)

「そうですね」

(Q.説明が必要では?)

「それも含めて今答えられません」


 

 

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名古屋市長選挙の出口調査 国民民主党支持者の37.3%しか大塚さん(国民民主党の設立時の共同代表、国民民主党推薦)に投票してないのか!

 

反イスラエル・ボイコットが続く中、スターバックスがマレーシア全土で50店舗を閉鎖

 

大杉栄とその時代年表(325) 1901(明治34)年3月12日~14日 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。」(漱石「日記」)

 

荻原守衛

大杉栄とその時代年表(324) 1901(明治34)年3月5日~11日 「自分は子供の時から湯に入る事が大嫌ひだ。、、、殊に楊枝をくはへて朝湯に出かけるなどといふのは堕落の極である。、、、熱い湯に酔ふて熟柿のやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。」(「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

3月12日

貴族院に増税案の成立を命じる詔勅。

16日、一旦否決した増税案を可決。


3月12日

「不平十ヶ条

一、元老の死にさうで死なぬ不平

一、いくさの始まりさうで始まらぬ不平

一、大きな頭の出ぬ不平

一、郵便の消印が読めぬ不平

一、白米小売相場の容易に下落せぬ不平

一、板ガラスの日本で出来ぬ不平

一、日本画家に油絵の味が分らぬ不平

一、西洋人に日本酒の味が分らぬ不平

一、野道の真直について居らぬ不平

一、人間に羽の生えて居らぬ不平

(三月十二日)」(子規「墨汁一滴」)

3月12日

ロンドンの漱石

漱石に宛てて子供の誕生を知らせる手紙が山川信次郎(1月28日付け)から届く。子供はは女子で1月16日に生れていた。


「三月十二日(火)、白シャツ・下着・股引を替える。 Dr. Craig の許に赴く。帰途、 Bond Street (ボンド街)から東南に向って、Piccadilly Circus (ピカデリー広場)を経て、St. John's Park (聖ジョン公園)に赴く。公園の芝生に咲いている黄色と藤色のチューリップが美しい。山川信次郎からの葉書(一月二十八日(月)付)で、鏡が一月十六日(水)に出産との知らせある。(戸籍上は一月二十六日出生)」(荒正人、前掲書)


3月12日付け漱石の『日記』。


西洋人ハ執濃(シツコ)イヿガスキダ。華麗ナヿガスキダ。芝居ヲ観テモ分ル。食物ヲ見テモ分ル。建築及飾粧ヲ見テモ分ル。夫婦間ノ接吻や抱キ合フノヲ見テモ分ル。是ガ皆文学ニ返照(ヘンセウ)シテ居ル。故ニ洒落超脱(シヤラクテウダツ)ノ趣ニ乏シイ。出頭天外シ観ヨト云フ様ナ様ニ乏シイ。又笑而不答(ワラツテコタヘズ)心自閑(ココロオノヅカラカン)ト云フ趣ニ乏シイ

*「出頭天外看」;

「天外に出頭して看よ」。雲を突き抜けて澄み切った空がひろがる天から自分を見なさい、という意味の禅語

*「笑而不答心自閑」;

李白の七言絶句『山中答俗人』の一節。

        問余何意棲碧山     笑而不答心自閑

        桃花流水杳然去     別有天地非人間

 (下し文)

 余に問ふ 何の意ありてか碧山に棲むと   笑って答へず 心自(おのづか)ら閑なり

桃花 流水 杳然(ようぜん)と去る,   別に 天地の 人間(じんかん)に非ざる有り

 (現代語訳) 

わたしに尋ねた人がいる「どんな気持ちで、緑深い山奥に住んでいるのか」と

わたしはただ笑って答えはしないが、心は自ずとのどかでしずかでのんびりしている

「桃花源」の花びらははるか彼方に流れ去っていく

そこにこそ別の世界があるのであり、俗世間とは異なる別天地なのだ


3月13

荻原守衛(21)、横浜港から香港丸で出航、美術修行のためニューヨークまでの片道切符だけを手にしてアメリカに向かう。アメリカ、ヨーロッパに滞在し、41年3月11日に神戸に帰着。

3月13

この日付、与謝野晶子の滝野(鉄幹の内妻)宛書簡。滝野は鉄幹との離別の意志を晶子に伝え、晶子はそれに返書

晶子の上京(出奔)の決意を容易にする、滝野の晶子と鉄幹との結婚の承諾、鉄幹と滝野との離別の意志を伝えられたであろう書簡に対する晶子の返書。


「うれしく候 ミ情うれしく候 君すゐし給へみたりこゝちの 者に候やさしの姉君は そはすゐし給ふべく かゝるかなしきことになりて きこえかはしまゐらすちきりとは おもはず候ひし 人並ならぬつたなき手もつ子 それひたすらはづかしとおもひながらいつかはのとかに かきかはしまゐらすこと ゆるし給ふ世あるべく たのミ候ひしおもひ候ひし おのれか奇矯を売らむとてのうた その為に 師なる君にまであらぬ まかツミかけまゐらせし この子 にくしとこらし 給ハぬがくるしく候 この後はたゞたゞひろき ミ文をさしたのミまゐらすべく候 ゆるさせ給ふべくや つミの子この子かなしく候 おなつかしく候やさしさのミ文 涙せきあへす候ひし けふまことそゞろがき ゆるし給へ 何も何もゆるし給へ 御返しまで 候ひし この夕 晶子 姉君の ミ前に」


3月13

柳家金語楼、誕生。

3月13

米第23代大統領ハリソン(67)、没。

3月13

ロンドンの漱石


「三月十三日(水)、午後四時頃から、 Mrs. Brett 過去のイギリス人の不品行について話す。日記」)」(荒正人、前掲書)


3月13日付「日記」

Knightの『沙翁集(シェイクスピア全集)』その他合して50円ばかりの書籍を買う。 書物屋の主人曰く、厭なお天気ですな、しかし書物ばかり読んでいる人には宜しゅう御座んしょう、と。 この日 Baker Streetにて中食す。 肉一皿、芋、菜、茶一椀と菓子二つなり。 一シリング十ペンスを払う。」(「日記」3月13日(水))


3月14

北京列国公使団、義和団事件の賠償範囲及び算定基礎を確定。


3月14

「 今日は病室の掃除だといふので昼飯後寐牀(ねどこ)を座敷の方へ移された。この二、三日は右向になつての仕事が過ぎたためでもあるか漸(ようや)く減じて居た局部の痛(いたみ)がまた少し増して来たので、座敷へ移つてからは左向に寐て痛所をいたはつて居た。いつもガラス障子の室に居たから紙障子に松の影が写つて居るのも趣が変つて初めは面白かつたが、遂にはそれも眼に入らぬやうになつてただ痛ばかりがチクチクと感ぜられる。いくら馴(な)れて見ても痛むのはやはり痛いので閉口して居ると、六つになる隣(となり)の女の子が画いたといふ画(え)を内の者が持つて来て見せた。見ると一尺ばかりの洋紙の小切(こぎれ)に墨で画いてある。真中に支那風の城門(勿論輪郭ばかり)を力ある線にて真直に画いて城楼(じょうろう)の棟には鳥が一羽とまつて居る。この城門の粉本(ふんぽん)は錦絵にあつたかも知らぬが、その城楼の窓の処を横に三分して「オ、シ、ロ」の三字が一区劃に一字づつ書いてあるのは新奇の意匠に違ひない。実に奇想だ。それから城門の下には猫が寐て居る。その上に「ネコ」と書いてある。輪郭ばかりであるが慥(たし)かに猫と見える。猫の右側には女の立つて居る処が画いてあるが、お児髷(ちごまげ)で振袖で下駄はいてしかも片足を前へ蹈み出して居る処まで分る。帯も後側だけは画いてある。城門の左側には自分の名前が正しく書けて居る。見れば見るほど実に面白い。城門に猫に少女といふ無意識の配合も面白いが棟の上に鳥が一羽居る処は実に妙で、最高い処に鳥が囀(さえず)つて居て最低い処に猫が寐て居る意匠抔(など)は古今の名画といふても善い。見て居る内に余は興に乗つて来たので直(ただち)に朱筆を取つて先づ城楼の左右に日の丸の旗を一本宛画いた。それから猫に赤い首玉を入れて鈴をつけて、女の襟と袖口と帯とに赤い線を少し引いて、頭には総(ふさ)のついた釵(かんざし)を一本着(つ)けた。それから左の方の名前の下に裸人形の形をなるべく子供らしく画いて、最後に小鳥の羽をチヨイと赤くした。さてこの合作の画を遠ざけて見ると墨と朱と善く調和して居る。うれしくてたまらぬ。そこで乾菓子(ひがし)や西洋菓子の美しいのをこの画に添へて、御褒美(ごほうび)だといふて隣へ持たせてやつた。

(三月十四日)」(子規「墨汁一滴」)

3月14

3月14日~15日 ロンドンの漱石


「三月十四日(木)、汚ない街を通ると、盲人がオルガンを弾き、イタリア人がヴァイオリンを弾いて、その傍に四歳ばかりの女の子、其赤な着物に其赤な頭巾を被って音楽にのって踊っている。

三月十五日(金)、日本人は中国人といわれると嫌がる。中国人は日本人よりも遥かに名誉ある国民である。現在は不振である。日本人と呼ばれるよりも、中国人と呼ばれるほうが名誉だと思ったほうがよいと記す。(「日記」)」(荒正人、前掲書)


3月15日 この日付け漱石の『日記』。


日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」


つづく

寛仁3年(1019)2月~3月 藤原道長(54)の出家 刀伊の入寇(Ⅰ.女真族、対馬・壱岐を襲撃)

江戸城(皇居)東御苑 カンザクラ 2013-02-26
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寛仁3年(1019)
2月
・この月、数ヶ月間精進物しか食べなかった道長は、眼病が重くなって2~3尺離れた人の顔すら見分けにくくなったので、医師や陰陽師の勧めにより、魚を食べることにした。
彼にとっては残念千万であったらしく、仏に50日間のお目こぼしを願ってから食べている。
日記に、「これただ仏法の為なり、身の為に非ず」と記す。
*
2月3日
・京都の放火・強盗
3日、京の東南方に火が見え、23日夜は群盗が故為尊親王の妻の中御門邸付近を荒らす。
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3月14日
・京都の放火・強盗
14日夜、内裏の東宮御座所の凝華舎の西の廊下に放火、発見が早く叩き消すことができた。
17日、穀倉院の倉が2棟焼失。
月末、群盗が常陸介藤原惟通の先妻の家に放火し、娘が焼け死んだ。
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3月21日
・藤原道長(54)、胸病が重く土御門第で出家。戒師は院源で、法名は行観(のち行覚に改めた)。
この月、胸病の重い発作が道長を襲い、彼は剃髪出家を決意。
21日、延暦寺の僧院源を招いて戒師とし、行観(のちに行覚)の法名を得た。
発作は月末には収まるが、実資によれば、「容顔老僧の如し」という状況で、彼の心境は、急速に来世に傾いていったと察せられる。
朝臣は土御門邸に続々と集まり、太皇太后・皇太后・中宮など、道長の3女もお見舞の行啓があった。
彼がその居邸である土御門邸のすぐ東に、壮麗な法成寺を建立する決心を固めたのは、この頃であろうと思われる。

『御堂関白記』には3月17日までは詳細な記事があるが、以後は翌年(寛仁4年)にも僅かな記事があるだけで、その翌治安元年は、9月1日条「念仏を初む、十一万遍」など、5日まで念仏の回数が書かれているだけ。
道長は、出家後も頼通に指示を与えて政治的に大きな力を持ち続けたが、日記は出家とともに終わったと言える。
日記は、官人として公事を記録し、子孫に拠るべき先例を伝えるためのものであるというその本質が見てとれる。

「宰相(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「大殿(藤原道長)は出家しました。法印院源を戒師としました。僧綱(そうごう)たちが伺候しました。院源及び事に従った僧綱たちに皆、禄を下給しました」ということだ。」(『小右記』寛仁3年(1019)3月21日条)
*
3月28日
・刀伊の入寇。
女真族、対馬・壱岐・筑前に来襲。
大宰権帥藤原隆家ら奮戦して撃退。

刀伊の襲来は3月末、賊船50隻による対馬・壱岐の襲撃に始まった。
対馬は、3月28日付で急を大宰府に報じている(この日、突然の攻撃があったと思われる)。
被害は甚大で、壱岐守藤原理忠(まさただ)は死に、対馬守遠晴(姓不明)は難を逃れたが、対馬からの急報は4月7日、大宰府に到着した。

一方、壱岐島分寺(とうぶんじ、国分寺と同じ)の講師常覚(じようかく)は、三度にわたって賊襲を撃退したが、ついに数百の敵に抗し得ず、単身逃れて同じく7日午後に大宰府に着いた。
大宰府はこの時初めて賊難を知ったが、その日、賊船は筑前怡土(いと)郡(福岡県糸島郡)に襲来し、志麻郡・早良郡などを掠め、暴れ廻った。

「それ賊徒の船、或いは長さ十二箇尋、或いは八、九尋、一船の檝(かい)は三四十人許り、乗る所五六十人、二三十人は刀を耀し奔騰(ほんとう)し、次で弓矢を帯し楯を負ふ者七八十人許り相従ふ」。

彼らの船は長さ8尋~12尋くらいというから、平均15mぐらい。櫂(かい)を30~40も並べ、非常に速く、50~60人を乗せるという。
上陸に際しては100人ばかりで一隊をなし、みな楯を持ち、前陣20~30人は鉾や太刀を持ち、これに弓矢を持った70~80人が従い、この類のものが10隊、或いは20隊と荒れ廻り、山野を駈け巡って馬や牛を斬っては食い、犬も殺して食う。
手当たりしだいに人を捕えて老人・子供は全て斬殺し、壮年男女はすべて船に追いこみ、穀物を奪い、民家を焼いたという。
壱岐島は、400人の島民が殺されたり捕えられたりして、残る者わずかに35人に過ぎなかったという。

■大宰権帥藤原隆家
伊周の弟で、花山法皇に矢を射かけて伊周左遷の原因を作った張本であるが、罪を許されて帰京。その後、出仕してからは政界に活躍することはなかったが、豪傑で、独特の風格をもって毅然とした態度を取り、人々に畏敬されていた。
道長の妨害を受けて実資が苦心した長和元年(1012)の娍子立后の際にも、その儀に参列した数少ない公卿の1人で、皇后宮大夫として娍子の世話を引き受けた。
しかし、その年冬頃、彼は目を突いて、それから眼を患ったらしい。
長和2年(1013)2月には皇后宮大夫も辞任して引き籠り、熊野詣などもして治療に努めたがはかばかしくなかった。

その頃、九州に宋の名医がいると聞いて、九州に行きたいと思ったらしい。
たまたま長和3年(1014)2月に大宰大弐平親信が辞任し、大宰府に空席が出来たので、彼は熱心に大宰権帥の任を望み、仲のよい実資にもそのことを語っている。

大宰帥(大宰府の長官)には親王が任ぜられるのが例になっていたが、これは名ばかりで、赴任せず、現地に赴いて実際の長官となるのは権帥か大弐であった。
大宰府は、九州全体を統率する小朝廷であり、外国貿易の利得も多く、都落ちの形とはいえ景気のよい官であった。
菅原道真、源高明、藤原伊周の例のように、大宰権帥は大臣を左遷するときの官名としても使われるが、この様な左遷の時の権帥任命には、実務には関与すべからずとの但し書きのついた命令が出て、待遇も罪人扱いになる。

その年6月、隆家は、僧清賢に砂金10両を持たせて九州に眼の薬を買いにやらせている。
清賢はそのとき実資にも子供のための薬を手に入れるように頼まれて、その代わりに実資の手配で早船を世話してもらい、九州で宋から来た医僧の恵清(えじよう)から薬を買って帰京している。隆家が聞きつけたという名医は、この恵清のことであろう。
この時の大宰府の空席には希望者が多かったが、11月7日、隆家は望みどおり大宰権帥に任ぜられた。

そして翌長和4年(1015)4月21日、参内して赴任する旨を奏上し、正二位に叙せられ、諸方から砂金150両・馬3疋をはじめ、多くの餞別を受けて任地に赴いた。

彼の九州での治績は不詳であるが、問題の多い大宰府ではあるけれども、彼の在任中、時に事件は見当たらない。
大宰権帥の任期は5年で、彼はその最終年にこの刀伊の事件に当面した。
『大鏡』には、彼が善政を施すとて、九州こぞって従ったとあり、多いに人望を集めていたらしい。
隆家が大宰府官人や豪族を率いて賊に対したことは、当時としては最良の条件を備えていたといえる。

隆家はなかなか気骨のある人物であったようだ。
ある日(寛弘年間か)、道長が土御門第の宴会に隆家を呼んだところ、みな服の紐を解いて盛り上がっているところに、隆家が遅れて正装でやって来た。「早く御紐を解かれなさい」と道長が言うが躊躇っていたので、ある人が「解いてやろう」と言うと、「隆家は不運な身だが、おまえらにそんなことをされる身ではない」と気色ばみ、道長が「まあまあ」と自分で紐を解いてやり、宴に興じたと『大鏡』に伝える。
道長も彼に一目おいていた。
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