2012年2月22日水曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(17) 「十四 歌舞伎-愛すべきいかがわしさ」(その二)

京都 法然院(2011-12-30)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(17) 
「十四 歌舞伎-愛すべきいかがわしさ」(その二)
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荷風は、左團次のために、二本の台本を書く。
明治43年明治座上演「平維盛」、大正11年帝国劇場上演の「秋の別れ」。
いずれも一幕もの、上演は客の関心を呼ばず成功にはならなかった。
「平維盛」は、いかにも荷風らしい、敗北趣味、反武断主義がうかがえる。
平維盛は、富士川の合戦で敗走した弱将。木曾義仲と闘ったときも大敗し、西国に落ち、高野山に入山したが、最後には、那智の海に入水して死んだ。武将としては駄目だが、しかし、文人としては才があったという。
荷風はこの弱さを主人公に選んだ。敗れていくもの、消えていくものに思い入れをする荷風好みの主人公。
「平維盛」は、維盛が高野山に落ちていく姿を描いているが、劇的盛り上がりはほとんどなく、おそらく退屈な舞台になっただろうと推測されるが、最後のところで、荷風ならではの敗北趣味、貴族趣味が出ている。

落ちていく維盛ら一行が、おぼろ夜のなかで、岩の上から海に身を投げようとする、平家一門の姫らしい「美しき女性」をみとめる。
助けるいとまもなく姫は、海に身を投じ、あとは「たゞ波の面に、不知火の光の湧立つばかり」。
それを見て、維盛は、あの姫はあれでよかったのではないかという。
「平維盛」はこの維盛の台詞だけでいまもなお生命を持った作品になっている。

「哀れな事を致したなア。然し與三兵衛、やがて滅行く我一族の、殊にはかよはき女の身、人知れず此の夜更に入水なせしは、あるにかひ無き憂世にさすらひ、厭(イトハ)しき矢喚(ヤサケビ)の聲に魂を消さんより、必定西の御国を志す、深さ覚悟があつての事ならん。死を恐るゝ世の常の習慣に捉れ、其れを引止め妨げなば、徒に穢土の苦しみを蒙らすも同じ事。路隔りて助くる事もかなはざりしは、却て互の仕合であった。南無西方極楽世界。いざ、急いで参らう」

自らも海に身を投げる運命にある維盛が、入水した同門の姫の死こそをむしろ讃える。
戦いの世から去って平安な「西の御国」を目ざす姫にこそ美しいものを見る。

荷風の敗北趣味と、武断的なものに対する嫌悪があらわれている。

小木新造「荷風の『江戸芸術論』考」(「木村修一先生喜寿記念論文集①、知識人社会とその周囲」雄山閣、昭和50年所載)。
「平維盛」に、荷風の反権力思想を読みとる。
「荷風はこの作品を通じて、矢たけびの声に魂をかき消されて、武人の誉れに生きるだけが人間の真の生き方なのだろうか、と疑問符を観客に投げかけているのではないか」。

この戯曲が書かれた明治43年は、「ふらんす物語」「歓楽」が発禁処分になった直後。
荷風は、水鳥の羽音に驚いて逃げ出した敵将のほうが、武断的な猛将よりもいいのではないかと反語的にいっているのだろう。
「戦争のむなしさを、残酷さを問う課題は永遠の意味をもつ」(小木新造)

明治の歌舞伎も、新時代に応じて改革が必要と、市川團十郎らを中心に現代的にアレンジされた「活歴」が上演されるようになる。
荷風はこの現代的な歌舞伎を嫌い、歌舞伎のよさは旧態依然たるところにあり、新時代に迎合することなどないという頑固なまでに保守の立場をとる。

左團次が、歌舞伎の外側で自由劇場を創設したことは支持した荷風も、歌舞伎そのものに関しては、古い型を残す昔のままの歌舞伎をよしとした。
「大窪だより」では、歌舞伎座で「勧進帳」を見たとき、弁慶の引込みに、花道揚幕のところから電気仕掛けで役者の顔を明るくしているのを見て、激怒したことが記されている。
従って、荷風は、新しい改良歌舞伎を試みる團十郎を嫌い、古い歌舞伎を継承する菊五郎のほうを支持する。

「團十郎が明治初年の官僚界に贔屓層多く遂に括歴と呼べる似而非藝術を起したるに引換へ菊五郎は名人小團次の後を継ぎ長く江戸町人の趣味を維持せしめ候段感謝の外無之候」

荷風には、團十郎が明治の官僚勢力を背にした新時代の旗手に、菊五郎が江戸町人の趣味を維持しようとする江戸文化の継承者に、見える。
ここでも、明治と江戸という二重性が荷風の認識の核になっている。

荷風の鴎外に対する唯一度の反論。
鴎外「旧劇の未来」(大正3咋)で、歌舞伎も時代に応じて変っていかないと古臭くて取り残されると書く。
荷風はただちに「江戸演劇の特徴」(大正3年)を書き、歌舞伎は古臭いからいいのであって、新しい「藝術」になどなって欲しくないと反論。

荷風の歌舞伎擁護は、「江戸町人の趣味」という言葉にあらわれるように、江戸時代の歌舞伎を、封建権力に対する江戸町人の抵抗の文化、平民芸術ととらえているところから生まれている。
だからこそ荷風は、明治の官僚をバックにした活歴に反発した。

「一見、保守的でうしろ向きの江戸趣味に淫しているように見える荷風は、実は歌舞伎を江戸町人の抵抗の文化としている点で、ひとりの抵抗者なのである。」(川本)

古い江戸の歌舞伎こそを支持しようとする荷風には、「明治国家が否定してやまない江戸文化の復権があり、荷風の意識の底には国家権力に対する秘めたる反骨精神が脈打っている」(小木新造)

「一幕見」(3頁ほどの短い歌舞伎擁護の随筆、”いかがわしさ”礼讃というべき過激な内容)。
吉原を遊廓として生理的に道徳的に警察的に見るのは「明治の見方である、文明の見方である」。
しかし、吉原は、いかがわしく、危険な悪風があるからこそいいのである。
同じように歌舞伎もまた悪弊があるからこそいいのである。

「(自分は)退歩と放棄を夢みるものである」
「役者はよろしく不品行なるべし。家柄、系図を重ずべし。交際をはでにすべし」
ここには、「ふらんす物語」「歓柴」の発禁処分直後の荷風の、明治文明への批判精神が脈打っている。

左團次は、昭和15年2月23日、胃癌のため死去。
当日の「日乗」、
「晴。午前猶睡眠中浅利鶴男氏来り名刺に杏花君病没の事をしるして去れり。午後往きて吊辞を陳ぶ。偶然梓月子の来るに會ふ。杏花君とは去年中秋の夕築地河岸の藍亭といふ酒楼に招かれしがこの世の名残りなりしなり。昨夜半過 十二時五分 木挽町南大曹病院にて入院数日の後歿せしと云。行年六十一なり。余杏花君と初て交を訂せしは明治四十二年秋自由劇場創立の時なりき」と記している。
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