2012年2月22日水曜日

仁和3年(887)7月30日 「五畿七道大地震」(南海・東南海・東海地震) 直後に台風襲来

横浜 東戸塚 白旗神社(2012-02-12)
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仁和3年(887)
この年
・出羽国守から中央政府へ、国府を新しい地に遷建することについての申請書が出された。
太政大臣基経はこの件に関し、出羽国での経験者の意見を聴取した。
まず、民部大輔惟良高尚(たかひさ)、大膳大夫小野春風、左京亮藤原高松らの所見を聞くと、彼らの主張はまちまちであった。
次に、伊予国守藤原保則を招致してその意見を聞き、結局、保則の方策を採択し、国府の地を動かさないことに決めた。
高尚・春風・保則らは出羽国の経験者である。
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5月
・この年、鬼が女を殺したという怪談が宮中から巷に流れ、この月から霖雨(りんう)降り続き、京師の人々は飢えに喘いでいた。
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7月2日
・大地震。6日にも。
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7月27日
・光孝天皇、この日まで3日連続で相撲(すまい)を見物。
この時点で光孝の健康に異常はないと思われる。
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7月30日
「五畿七道大地震」(南海・東南海・東海地震)
1ヶ月ほど前から前震が続いていたが、この日午後3時頃大地震が発生。
都では官衙や民家が倒壊し、多くの人々が圧死した。
畿内でも同様の被害が報告され、とくに被害の大きかった摂津国では巨大な津波が押し寄せ、溺死する者も多かった。
その後も余震が20日以上も続き、虫や鳥に異常な行動がみられ、奇妙な噂話も囁かれたという。


M8.0~8.5。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる(「理科年表」)

『日本三代実録』より
7月30日 申の時、地大震動し、数剋を経歴して震ることなほ止まず。
天皇、仁壽殿を出でて紫宸殿の南庭におはし、大蔵省に命じて七丈の幄二つを立てて御在所と為し給ひき。
諸司の倉屋及び東西京の蘆舎、ところどころ顛覆(てんぷく)し、圧殺せらるる者おほく、或は失神して頓死する者有りき。
亥の時、また震ること三度。
五畿内七道の諸国も同日に大震ありて官舎多く損じ、海潮陸に漲りて溺死者あげて計るべからず、そのうち摂津国もっとも甚(はなはだ)しかりき。
夜中、東西に声有り、雷の如き者二(ふたたび)なりき。

8月1日
昼夜に地震ること二度なりき。

8月2日
昼地震ること三度なりき。

8月4日
地震ること五度なりき。
この日、達智門上に気有り、煙の如くにして煙に非ず、虹の如くにして虹に非ず、飛び上がりて天につきき。
或は人見て、皆曰ひけらく、『これ羽蟻なり』と。時人云ひけらく、『古今未だかくの如き異有らず』と。
陰陽寮占ひて曰ひけらく、『大風洪水失火等の災有るべし』と。

8月5日
昼、地震ること五度、夜大いに震りき。京師の人民、家より出でてみちに居りき。

8月7日
地震。

8月8日
羽蟻あり。大蔵の正蔵院より出で、群れ飛びて天をきはめ、船岳につく。
その気、虹の如くなりき。

8月9日、13日、14日、16日、23日地震。
24日二度地震。
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8月20日

・余震も続く中、この日、山城国に大風雨。
多くの建物が潰され、鴨川・葛野川が氾濫し、再び多くの死者が出た。
巨大地震と台風、その被害の大きさは想像を絶するほどであっただろう。
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