2019年8月31日土曜日

旧東海道歩き 大磯にある旧吉田茂邸に立ち寄った 2019-08-31

8月31日、曇のち晴れ
今日は旧東海道歩きのうち、大磯宿の京方見附跡以降、JR二宮駅まで歩いた。
(旧東海道大磯宿の記事は別記事にて。未作成)

JR大磯駅と二宮駅の間には旧東海道史蹟ではないが、吉田茂邸があるのでそこに立ち寄った。
旧邸宅は2009年に焼失し、いまあるのは2017年4月に再建されたもの。なお、邸宅内へは入場料500円が必要。庭園のみの場合は無料。私は、てくてく歩きが主目的なので庭園だけにした。

焼失まえの建物でも、昭和22年築(新館は昭和30年)というので、失礼ながらじっくり見るほどのお宅ではなさそうだ。焼失を免れた内門(兜門、↓2枚目の写真)は昭和29年築とのこと。

吉田茂像、北の丸公園にある像よりもジサマだね。








▼2019/8月の累計平均歩数は10,300歩/日で目標はクリヤした。
年度でみた累計平均でも10,483歩/日でクリヤだった。

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その35)「暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2、3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、〔略〕彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっているまえを通り過ぎて行きました。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その33)「.....「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が 「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。....」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町〉
倉富勇三郎〔枢密院護長〕
〔2日夜、赤坂丹後坂の自宅で、近隣に住む安藤則光から不穏な噂を聞く〕
朝鮮人千人ばかり、横浜の方より東京に侵入せんとし、大森区にて警察官がこれを禦ぎたるも、人少く力及ばず、遂に朝鮮人500人ばかり、東京に侵入せる趣につき、これを防ぐ為、丹後町にても自警団を組織する企てありという。少時の後、数十人団を為し、夜警に当たりたり。
〔略〕夜半頃、報あり。「朝鮮人200人ばかり、青山御所に侵入せる旨、赤坂見付上の警察官より通知あり。婦人には朝鮮人が暴行を為すにつき、男子と婦人とを識別すべからざるように為すため、婦人は手巾を以て頭を包みいるようにすべし」と。下婢等はこれを聞き大に恐れたり。流言の人を惑わすまた甚だし。
(倉富勇三郎日記研究会編『倉富勇三郎日記・第三巻』国書刊行会、2015年)

島崎藤村〔作家〕
〔2日、飯倉片町で〕「放火をするものがあるから、気をつけるように」。その警告がこんな混乱した町の空気の中へ伝わって来た。
私たちが集っていた場所は片町の電車通りからもよく見える位置にあったので、他からの避難者で疲れた足を休めに立寄るものも少くなかった。〔略〕そこへ見慣れぬ35、6ばかりの洋服を着た男が来て立った。この町の人達が眼にも見えない恐ろしい敵の来襲を聞いたのは、その男からであった。〔略〕物ずきか、悪戯か、それとも親切か、いずれとも分らないようなその男の残して置いて行ったものが、かえって皆を不安にした。
〔略〕 こんな時に耳の早いのは子供等だ。婦女子供はなるべく町の外へ避難せよ。夕方にはそんな声さえ私達の耳へ入った。大震、大火、旋風、海嘯(つなみ) - ありとあらゆる天変地異の襲いかかって来たようなこの非常時に、些細な風聞にも動かされ易くなっていたのは、子供等ばかりでもなかった。休まず眠らずにいた大人までが、みんな子供のようになっていた。
兎も角も、私達は他からの人の入込み易いこんな門前の位置から、婦女子供を隠したかった。・・・そこで私は竹沢さんと連立って、相良さんの邸内をこの町の人達のために開放するよう、その交渉に出掛けた。〔略〕「井戸に毒を入れる者があるそうですから気をつけて下さい」。こんな警告が、そこに集っていたものの不安を増させた。みんな提灯のあかりを消して沈まり返っていた。
〔略。相良邸で〕「敵が来る、敵が来る・・・」お伽噺でもない限りは信じられないような2千人もの敵が襲って来るという風聞はその翌日〔3日〕になっても続いた。敵は既に六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕の付近で撃退せられたから安心せよというものがあり、いや、その残党がもぐり込んで来ないとも限らないというものがあった。〔略〕「いずれ、こんなことを言い触らして歩く奴があるんでさ - こういう時には、馬鹿や狂人がよく飛出しますからね」といって憤慨するものがあった。こんなに多くの人が苦しみを重ねているのを見たら、敵でも私達を救う気になるだろう。〔略〕この町の人達が各自に互いを護ろうとするようになったのは、それからであった。北隣の鈴木さん、小原さんなぞについてお前の弟達も思い思いに用心の棒を携え、日の暮れるころから町を護りに出るようになった。夜の12時には、また大きな地震が来るという流言の伝わったのも、その3日目の晩であった。
(「飯倉だより(子に送る手紙)」『編年体大正文学全集・第12巻 - 大正12(1923)年』ゆまに書房、2002年) 

関かねじ
〔青山南町4丁目で〕翌日の夕方から朝鮮人の暴動があるから外に出ないようにと大声でふれ歩いていた。何が何だか解らないので落ち着かない思いで家の中にこもった。〔略〕2日の午後3時頃流言蜚語が町を流れ出した。朝鮮人が青山辺にも放火して歩くから気をつけるようにとふれ歩いて走って回る。水は使えないし電気はつかないし、流言蜚語は恐ろしいし、一人住いの私はどうして良いか分らなかった。落ち着かない気持をハラハラさせながら、流言蜚語を聞きながら、下町はどんどん焼けているという話を聞きながら、3日3晩本当に生きた心地なく過した。
(世田谷区老人大学編『世田谷区老人大学修了記念論文集・第1期修了生』世田谷区老人大学事務局、1919年)

多賀義勝
〔2日〕朝鮮人暴動の噂が流れはじめた。なんとなく町が騒然としはじめた。井戸に毒が投げこまれるというので、町内のすべての井戸に番人が見張りに立った。父は軍刀を持ち出した。私と弟は、従姉が日の丸の腕章を作ってくれたのを着けて、鉄棒を持って寺の門前に歩哨に立った。
そのうち暴徒の一隊が六本木で掠奪をはじめたと、見てきたようなことを言う人も出てきた。みんな流言だったのだが、うっかりすると信じかねないような情況だった。交替の合い間に谷町の通りに出ると、避難して来る人の群れが切れることなく続いていた。
(多賀義勝『大正の銀座赤坂』青蛙房、1917年)

林正夫
当時、渋谷常盤松にあった農大に籍があった私が被災したのは、霞町のほうによった高樹館という下宿の一部屋。
不安のうちに明けた翌2日、町内に住んでいた某予備役の陸軍少将が、早朝から仲間といた私たちのほうへやってきて、「きみら若い連中は、さあ、これをぶら下げてそのへんを警戒し、朝鮮人とみれば片っ端からたたき切ってしまえ!」と数本のドス、日本刀を指すのでした。
〔略。2日夜〕暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2、3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、〔略〕彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっているまえを通り過ぎて行きました。(談)
(「目の前の惨劇」『湖』1971年6月号、潮出版社)

赤坂青山警察署
9月2日午後4時頃、「鮮人の放火団体は、青山方面に襲来すべし」或は、「再び強震あるべし」等の流言いずこよりともなく宣伝せられて、人心頓(ひたぶる)に不安に陥るや、所謂自警団の成立を促し、同日の夕刻、帝大教授某理学博士を鮮人と誤認し、明治神宮表参道入口付近に於て、まさに危害を加えんとせるを、署員の救護により辛うじてこれを免れしめたるが如き、或は、北町5丁目なる某家の押入中に放火せる鮮人ありとの急告によりて、これを調査せしに、羅紗洋服地布片の焼け残りを発見せり、けだし同人が火災時に外出せる折、火気を防がんが為に拾得し来れるものにして、その臭気を嗅ぎたる付近の民衆は、これを出火と速断し、やがて又鮮人の放火なりと誤りたるが如き、その事例に乏しからず。
然るに翌3日午後6時半頃に至りては、更に、「大本教信者は爆弾を携帯し、数台の自動車に分乗して、まさに帝都を襲わんとす」との流言すら起り、倍々(ますます)、民心の動揺を来せしが、同4日午後11時30分、青山南町5丁目裏通方面に方り、数カ所より警笛の起ると共に、銃声、また頻りに聞ゆるに至りて、鮮人の襲来と誤認し、一時騒擾を生じたりしが、その真相を究むれば、付近邸内なる、月下の樹影を鮮人と誤認して警戒者の空砲を放てるものなりき。
爾来本署は、流言に就きて厳重なる偵察を遂げたる結果、その誤伝に過ぎざるを確めたるを以て、自警団の取締に着手すると共に、流言に惑うべからざるを説きて、民衆の反省を促せしも、容易にこれを信ぜざりしが、やがて警視庁の命令によりて戎・兇器の携帯を禁じその押収に着手するや、民衆はこれに反対し、氷川神社方面には、鮮人等暴行を逞くせる事実あり、いわんや、三軒茶屋付近に於ては、鮮人との闘争既に開始せられたるに於ておや。この時に方り、身を衛り、衆を護らんものは、唯武器あるのみ、もし、万一の変起らば、警察署は、能くこれを撃退して生命財産の安全を保障するを得るかとて、本署に来りて署長に肉薄するもの少なからず、即ちその事理を戒諭し、更に各団体の幹部と懇談するに及び、漸次、その意を得るに至りしが、疑心、未だ全く解けず、「青山墓地には、夜間密に鮮人等の潜伏して、陰謀を企つるものあり」との説行われたれぼ、誤解を一掃せんが為に、同5日午後8時、鷺・大森両警部補に命じ署員数10名を率い、歩兵第二連隊の一個大隊と協力して、一斉に厳密なる検索を実施せしが、遂にその隻影(せきえい)だに見ず。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

赤坂表町警察署
9月2日午後7時頃「不逞鮮人等大挙して管内に襲来せんとす」と云える流言の行わるるや、さなきだに疑懼の念を抱ける民衆は、更に不安の念を生じ、戎・兇器を携えて所在に横行する自警団の発生を促し、鮮人等の身辺危さを察し、管内在住の鮮人数十名を保護検束したりしが、翌3日に至りては、流言益々甚しく、更に「強震再襲すべ」との説を為すものあるに至る、この時に方り、鮮人に関する流言の信ずべからざる事既に明白となりしを以て、その意を宣伝して誤解を除くに努め、かつ青年団員の取締を励行すると共に、流言を流布するものの内偵に従い、同4日の夜半強震に関する流言の犯人を検挙せり。しかれども鮮人に対する反感は容易に一掃する能あず、暴行また衰えざるを以て、遂に自警団員等の携帯せる戎・兇器の押収を断行し、検束せる鮮人は習志野に護送して陸軍の手に交付せり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

「赤坂区震災誌」
2日となりたるに誰人がいい触らしたりとはなく、朝鮮人に対するあられもなさ取沙汰、それよりそれへと伝えられ、疑惧の間に自警団の出現を見るに至りたれば、人心次第に緊張し来りたる時も時3日の午後4時頃、何者か自動車2台、自転車1台を連ねて、朝鮮人2千名三田方面より暴行しつつ押寄せ来れりと、宣伝しつつ乃木坂付近を疾走せり、これと相前後して1名の身装卑からざる婦人、3名の女中に扶けられつつ乃木坂派出所に来り、唯今2千名の朝鮮人六本木方面に押寄せ来りたりと、訴え出でしかば居合せたる警官大に驚き、直に六本木方面に赴き偵察したるに、右は全く虚報にして1名の朝鮮人を認めたる歩哨が、これを呼止め取調をなさんとせしに、朝鮮人はいち早くその姿を隠したるより、2、3名の歩哨が荐(しきり)にその行衛を捜索し居たる折柄、その事実が早くも2千名襲来と、誇張申告せられたるものと明瞭したり。
(港区編『新修・港区史』港区、1979年)

麻布六本木警察署
9月2日午後5時に至りて、始めて不逞鮮人暴挙を企つとの流言あり、けだし管内に来れる品川以西の罹災者によりて伝えられしものの如し、これに於て人心の動揺甚しく、老・幼・婦女子の如きは麻布連隊に投じてその保護を受くるに至る。かくて自警団の成立を促し、これが為に1名の通行人は鮮人と誤解せられ、霞町に於て群集の殺害する所となれり。されば翌3日以来、或は戒厳令の本旨を宣伝し、或は一般民衆の戎・兇器携帯を禁止するなど、極力その取締を厳にせり。
しかれども隣接署との境界線付近に於ては、なお自警団体跋扈して通行人を誰何・審問し、鮮人なりとてこれを本署に同行し来るもの多し、これを取調ぶるに、概ね皆同胞にして鮮人にあらず。即ちその軽挙を戒むるも容易に耳を傾けざりしが、會ゝ(いよいよ)同日午後11時過、民衆の多くが寝に就きたる頃「只今大震あり早く屋外に出でよ」と叫びて各町を疾走するものあり、恐怖に充ちたる民衆はその声に驚き、枕を蹴って難を屋外に避けんとし、一時混乱の状を呈したるども、署員の制止によりて事無きを得たり。しかも鮮人に関する流言に至りてはなお止まず、自警団の専横また依然たりし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年) 

つづく




「愛国」とは自国礼讃ではない…日本を「溺愛」する人に伝えたいこと 「愛国」という考え方の歴史(将基面 貴巳);「本来の「愛国心」とは政治権力の横暴から市民的自由と平等を守る〈共和主義的パトリオティズム〉である。〈共和主義的パトリオティズム〉は、自国を溺愛し、自国をひたすら誇りに思う自己礼讃とは無縁である。」



このような歴史的経緯を踏まえれば、なぜ現代日本では「愛国心」がナショナリズムと同一視されるのか、明白であろう。日本では、〈共和主義的パトリオティズム〉を明治時代に早々と捨て去り、「愛国心」をネイションの文化や歴史によって彩られるものとしてしまったのだ。

しかし、欧米においては、〈ナショナリズム的パトリオティズム〉の勢いに押されつつも〈共和主義的パトリオティズム〉の伝統は今日なお生き続けている。アメリカでは2017年に、ジャーナリズムの重鎮ダン・ラザーが愛国心を論じた書物を発表し、ベストセラーとなった。その書物は、“権力に対して異議申し立てをすることが愛国的である”と強調している。反体制派による政治権力への批判的態度こそが、本来の共和主義的愛国心パトリオティズムなのだ。

現代日本では、一般に「愛国者」を自認する人々とは、日本の文化や歴史を誇り、現政権を支持し「嫌韓」を叫ぶ体制派である。彼らは、〈ナショナリズム的パトリオティズム〉の信奉者たちである。

しかし、本来の「愛国心」とは政治権力の横暴から市民的自由と平等を守る〈共和主義的パトリオティズム〉である。〈共和主義的パトリオティズム〉は、自国を溺愛し、自国をひたすら誇りに思う自己礼讃とは無縁である。時の政府による権力行使が、市民的自由や平等を脅かしていないか、厳重に監視する態度にほかならない。

しかし、〈共和主義的パトリオティズム〉が今日なお息づいている欧米とは異なり、日本ではこれまで共和主義的愛国心パトリオティズムが根付くことはなかった。「愛国」が体制派の“専売特許”であるかのような傾向が日本では著しい所以である。

TICAD7 の会場ではKIMONOプロジェクトのおもてなし(TICAD7 第7回アフリカ開発会議) ← 「おもてなし」とは若い女性をズラーッと並べることです、って?



2019年8月30日金曜日

『朝日新聞』論壇時評(8/29)異論と向き合う 分断防ぐ、感情的つながり(津田大介) / 亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか(鈴木大介) / なぜ兵士は慰安所に並んだのか、なぜ男性は「慰安婦」問題に過剰反応をするのか――戦前から現代まで男性を縛る“有害な男らしさ”(平井和子 小島かほり)

ふとしたことがきっかけで、高校時代の理系教科の教師が、ごくフツーのネトウヨになってたのを知った。
また、あやふやな記憶だけど、暫く前のTLだったかに、田舎で一人暮らしのオヤジが寂しかろうとアイパッドを与えたら、すぐにネトウヨになったという話も聞いたような.....。
これ、なんでなんだろうね、などと、つい最近、高校時代の友人とメールのやりとりをした。

漠然とそんな問題意識を持ってた矢先、8月29日付け『朝日新聞』論壇時評の津田大介さんの記事を読み、この問題のある一面からの切り口のヒントを得た。


論壇時評
異論と向き合う 分断防ぐ、感情的つながり 津田大介

 あらゆるメディアで「分断」という文字を見ない日はなくなった。「分断」を朝日新聞のデータベース「聞蔵2」で検索すると、2010年には316件だった記事数が、昨年2018年には704件と倍以上に増加している。

 世界中で明らかになっているのは、保守・リベラルといったこれまでの枠組みへの不満と絶望だ。・・・・

(略)

分断は若者世代の話に限らない。米国の政治的分断を検証した2018年の研究によれば、65歳のグループが若者より政治的分断が進んでいるという結果が出たという(③)。日本でも嫌韓嫌中意識に裏打ちされたコンテンツを好む高齢者が増えている。鈴木大介は、父親という自らに最も近い存在の一人がなぜ「ネット右翼」思想に染まっていったのか、個人的な体験として語る(④)。鈴木は、真面目な勤め人でそれなりに人生で成功を収めた父親が晩年「ネット右翼」に変わっていった背景に、父親が若き日に見ていた「古き良き美しいニッポン」への慕情と喪失感があったとみる。平井和子も、ジェンダー研究家の視点から「新自由主義の競争社会の中で、孤立感や帰属意識の希薄化が進んで、保守派が唱える家族・郷土・国家などの共同体幻想へ飛びつきたくなる」と男性が陥りがちな右傾化の罠について語っている(⑤)。若者と高齢者の間で起きている分断に共通するのは、枠組みから外れた孤立感や失われた希望からくる喪失感だ。

(略)

上記の④⑤はこれ ↓





【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その34)「神田が焼けてしまったので早稲田の高等学校へ移った。そこの先生は公然と「私は朝鮮人狩りやりましたよ」と、別に不思議とも思わずに言っていた。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その33)「.....「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が 「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。....」
から続く

〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉
高山辰三〔文筆家〕
〔2日夕、駒込東片町で〕「朝鮮人が東京の片ッ端から放火して歩く。この大火の大半は彼等の放火だ」という噂が何所からともなく伝わって来た。
私にはそれがどうも、拠り所のない流言蜚語のように直感的に思われたが、何分にも場合が場合なので、一層、私達を不安の底に引きずり落とした。
町会から、早速、自警団に各戸一人ずつ出てくれと伝えて来た。各自皆、思い思いに棍棒やら竹竿やらステッキやらを持ち出してそこここの要所要所に立たなければならなかった。
〔略。3日〕私は更に、私の関係する日本橋本銀町の飲料商報社即ち高木商店の焼跡を見舞うために、大曲へ出て飯田橋の方へ歩いて行った。大曲の角の交番の壁に東京日日新聞の号外が貼ってあった。人だかりを別けて近よって見ると、3段抜きの大見出しで
「不逞鮮人各所に放火し、帝都に戒厳令を布く」という記事がある。それによると、不逞の鮮人200名が抜刀して目黒の競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとか、横浜方面から引きあげて来た鮮人がその途中で十数名の日本男女を殺したとかいう大袈裟なヨタがとばしてある。私はそれを苦々しく思いながら救護自動車や、罹災者の右往左往する河岸通りを飯田橋へ出た。
(「修羅の巷に立つ」田中貢太郎・高山辰三編『叙情日本大震災史』教文社、1924年)

寺田寅彦〔物理学者〕
〔9月2日〕巡査が来て、朝鮮人の放火者が徘徊するから用心しろと言って注意して回る。井戸に毒を投入するとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説がはやって人心が落ち着かない。
〔略。9月3日〕曙町会から招集があって東一を代理にやる。家々より夜警を出すことになったらしい。〔略〕鮮人らしいものがいろいろの姿で入り込んだというような伝令が来るが、事実としてもこれらの警戒はつまり形式的なものである。しかし、警戒の目的だけはこれでも達せられるだろう。ただ捕える事はできそうもない。
(『寺田寅彦全集・第14巻(日記等2)』岩波書店、1961年)

中川愛水〔音楽教育家〕
〔湯島天神女坂で〕2日目の夜私どもの夜警している所へ飯沼という人が来て、この町内も警察の命令で自警団を組織することになり、山口氏が団長になった、という話があった。
(『芸術』1923年11月号、芸術通信社)

咸錫憲〔牧師、思想家、独立運動家。当時高等師範受験準備で渡日。本郷の白山上の肴町に下宿。湯島の親戚の家で被災〕
〔2日、本郷の下宿に戻り〕米屋へ行くと米はすでになく、玄米しかないのでそれを買った。帰ろうとすると、竹槍・日本刀・棒を持った大勢がたかってきて「これが本物だ」と言いながらやってくる。その朝青年会の人達が「支那人が泥棒をしますから気をつけてください」と言いながら触れ回っていたので、直感的に「私の顔を支那人と見違えたのかもしれない。本物って何だ」と言いながら帰ろうとした。その横丁に曲る所に交番があり、顔を知られていたと見えて、そこの巡査が「いや、かまわない、安心だから」と皆を止めてしまった。帰ろうとしたが連れが理屈をこねて「これが本物だ、と言ってきたのにうやむやのうちに帰してしまうなんてことがありますか」と言ったので、「そんなに知りたきゃ行こう」と駒込警察に入れられた。多数の韓国人、誤って入れられた日本人1、2人、支那人1人がいた。そこで初めて真相がわかった。韓国人が何か暴動を起こすという口実で連れてこられていたのだった。そこで一晩を過した。
翌朝〔3日〕になると、自分の受け持ちの刑事(当時韓国の学生は皆、受け持ちの刑事があった)が見回りに来て「あっ君も来たのか」と言った。「これはいったいどうしたのですか」と言うと「いや間違っていたから、かまわないで出て来い」と自分と親戚の2人を引き出し、2階でパンを食べさせて、家に帰れと言った。連れが「僕達出るとすぐ殴り殺されるから行きません」といったが、かまわないから行けとなだめられて帰った。
その翌日〔4日〕の朝早く、下宿のむこうにある小さな教会の富永牧師が来て「君らのことはこの周りの人によく話していくから心配ない。ただ外出は一切するな」と必死で言うので、1週間じっと中にいて、それで無事に過した。
震災後1ヵ月かかなり過ぎた後、韓国の学生達の虐殺真相調査団ができ、講演会などがあって、やっと真相がわかった。東京市街ではそれほどひどくなかったが、ふちの部分に労働者がたくさんいた。亀戸でたくさん殺されたという話だ。
神田が焼けてしまったので早稲田の高等学校へ移った。そこの先生は公然と「私は朝鮮人狩りやりましたよ」と、別に不思議とも思わずに言っていた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き書き』1983年)

速水滉〔心理学者。当時本郷駒込在住。震災時は東北旅行中〕
2日の晩には鮮人の数百名が今にも押寄せて来るというので市中も郊外も大騒をした。後から家族のものから聴いたことであるが、警察官の中にも鮮人が襲撃するから警戒しろといって戸毎に触れ回ったものもあった。自分の会った近所の某女教師は早く支度して避難せよと警官に注意されて高輪御殿の方面に向ったところ、御殿はすでに鮮人の占領する所となったと聞いて、途中から引返して他の方面に逃げた、ということである。かような騒ぎは独り東京に止まらず、鎌倉でも横浜でも同様であったそうである。市中到る所、自警団とか自衛団とか名づくるものが組織され、竹槍とか、刀剣銃器の類が持出され、中には抜刀で行人を誰何した。後には放火窃盗に対する警戒の意味にもなったが、最初の間は専ら鮮人に対する防衛であった。否防衛というような消極的のものであるよりも、進んで積極的の手段を取るものが少なくなかったことは、この頃に至って暴挙を働いた自警団員や、青年団員の続々検挙されているのを見ても、明白を事実である。〔略〕(1923年10月1日)
(「流言蜚語の心理」『思想』1923年10月号、岩波書店)

渡辺初吉〔宇都宮市扇町新聞販売業宇陽舎主〕
「焦土の東京を一巡り 日本橋区内は大平原の様 竹槍鉄棒で青年団の警護」
本郷の焼残りの地で〔2日〕午後4時頃〔略〕鮮人1名青年団に発見され柱へ縛り付けられ「放火人」と札を立てて置かれたが間もなく群衆のために叩き殺されるのを見た。
〔略〕2日夜に入ると不逞鮮人が押しかけるというので、もしも狼籍するなら青年団も正当防禦で臨機の処置を執ってもよいとまで警官に言われたが、2日夜までには鮮人の徒党らしきものは出現しなかった。数名の鮮人が捕えられたのは事実であった。薩摩原では1名の鮮人が電車線路内に竹槍で突き殺されているのも見た。
(「いはらき新聞』1923年9月4日)

本郷駒込警察署
9月2日午後2時頃に至りて流言あり、曰く「今回の大火災は概ね不逞鮮人の放火に原因せるものにして、赤坂青山・深川の諸方面に於てはその現行を取押えたる者多し」と。人心これが為に稍々(やや)動ける折しも、幾もなく「鮮人は毒薬を井戸に投じたり」との風説さえ伝わりて、鮮人に対する迫害漸く行われ、早くもこれを捕えて本署に同行するものあり、就きてこれを検するに爆弾なりとせるものはパイナップルの缶詰にして、毒薬なりとせるものは砂糖の袋なりき。然るに夜に入るに及び、「下谷池之端七軒町は既に猛火の襲う所となり、今や将に根津八重垣町に於てその威を揮(ふる)えり、管内は到底全焼を免れざるべし」との流言起り万一を慮りて避難の用意に着手するもの少なからず、混乱の状益々甚し、然れども延焼の流言は下谷方面の鎮火に依りて自ら消滅したれども、鮮人に関するものに至りては漸次拡大せられ「鮮人等は左袖裏に赤布を纏い、或は赤線を描けり。警察官は軍人に変装せり。鮮人の婦人は妊婦を装い、腹部に爆弾を隠匿せり」など言える蜚語頻に行わるると共に、自警団の粗暴なる行動相ついで演出せられ、同3日午後2時頃駒込追分町に於て通行人4名に重傷を負わしめ、5日には公務を帯びたる輜重中尉を嫌疑者として本署に拉致せるなどの事ありしのみならず、戒厳令を誤解して、警察権はすべて軍隊に移れりと為し、眼中また警察なきに至る。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

本郷本富士警察署
9月2日午後2時頃、鮮人暴挙の流言伝わりて、人心漸く険悪となるや、戎・凶器を執りて鮮人を迫害するもの多し、これに於て本署は鮮人等を保護検束すると共に、自警団に警告する所ありしが、彼等は容易に耳を傾けず、3日以後に至りては狂暴特に甚しく、同胞にしてその危害を受くるもの亦頻々たり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『報知新聞』(1923年10月15日)
「13の少年まで検挙された ○○に暴行を加えて押収された兇器に村田銃」
本郷駒込署管内でも去月2日夜の混乱の際多数の○○に暴行を加えた悪自警団があるので、警視庁及検事局等から係官出張し昨14日までに同地自警団員山崎政七(13)、青木源治(41)外14名を駒込署に引致し、証拠品として押収した着剣の村田銃を突きつけ厳重取調べ中である。

つづく




432円の万引き、勾留19カ月 訴訟能力争い長期化(朝日新聞);「名古屋地裁(吉井隆平裁判長)は29日、懲役1年2カ月(求刑懲役1年6カ月)の実刑判決を言い渡した。被害が少額で犯行も認めていたにもかかわらず裁判は1年4カ月も続き、勾留日数が刑期に算入されて即日釈放となった。」    



ヤジで排除…警察強権化の背後に“安倍政権のヒムラー”の影 ;「最近の警察組織が強権的になったといわれている背景に、1月に警察庁警備局長に就いた大石吉彦氏の存在がささやかれています。大石さんは第2次安倍政権の発足と同時に警備課長から首相秘書官となり、安倍首相と食事やゴルフを重ねてきた。」 「大石さんは警備課を警備運用部へ格上げして体制を増員。国民の思想信条の自由や表現の自由、集会の自由などを“取り締まる”姿勢を強化したのです」 






日韓関係を中心とした朝鮮半島情勢(浅井基文); 元「徴用工」問題に関しても、未払い賃金などの財産に係る請求権の問題と、強制連行や強制労働で人権を蹂躙されたことに対する賠償の問題は区別する必要がある。1965年の請求権協定の交渉で話し合われたのは前者の問題であって、人道に反する行為や人権侵害に対する賠償については含まれていない







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朝鮮人徴用工 「終わった話」ではない(山口響 長崎新聞)← 読んで下さい。多くの冷静な日本人は、この話が理解できると信じます。なぜ、韓国が反発しているのか? そのことを理解せずに、国民性のせいするなどというのは、日本人自身の知的劣化です。— 平野啓一郎

日本は出世意欲が最低、断トツで自己研鑽していない国に【アジア太平洋14か国調査】(MONEYzine) ; 「日本の上昇志向は最も弱く、管理職志向・出世意欲は最低、断トツで自己研鑽していない..... 男性中心で強い同調圧力、自社でしか通用しない業務プロセスの習得を通じた業務遂行能力の長期育成、年功的人材運用――これらが見られる組織において.....」   




『モーニングショー』で「甲子園の暑さに耐えるのが教育」元高校野球監督が“極右論客”に! 改憲主張や慰安婦否定も(リテラ); 開星高校(島根県)野球部元監督の野々村直通.....2010年の甲子園で、初戦で21世紀枠の高校に負けた試合後のインタビューで「21世紀枠に負けたのは末代までの恥。切腹して死にたい」と発言.....なんと吉本興業所属らしい.....



 それは、決勝戦を前に今回の甲子園を振り返る特集を企画した8月22日放送『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)に出演した、開星高校(島根県)野球部元監督の野々村直通氏だ。

 野々村氏といえば、島根県の開星高校の野球監督だった2010年の甲子園で、初戦で21世紀枠の高校に負けた試合後のインタビューで「21世紀枠に負けたのは末代までの恥。切腹して死にたい」と発言し、問題になった人物。そんな人物にいま高校野球について解説させるとは驚きだが、この野々村氏、なんと吉本興業所属らしい。


2019年8月29日木曜日

東品川海上公園 アイル橋 屋上庭園のキキョウとダリア 東戸塚で晩ご飯 2019-08-29

8月29日、はれ
今日は久しぶりに品川の長男宅へ。
共働きの家族のための食糧差し入れとマゴちゃんの保育園お迎え。

差し入れのメインは松茸ご飯と鮭フライ。

今日は初めて鮭フライをやった。
ま、下拵えは全てやって貰って、私は揚げるだけなのだが、それでも初めてにしてはうまくできた。
家人は早朝から大車輪であった。

長男宅の近くの東品川海上公園
アイル橋の写真、う~ン、もうひとつ、何とかなりませんか、というレベル。
お花も端境期だったかな。

マゴちゃんとひととき遊んで、遅くなるのもしんどいので長男宅は早めに辞して、自宅近くで晩ご飯。
というか一杯。

冷やかし半分で家族ラインしたら、次男から即いいねの反応があった。
まだ仕事してんだろうな。










またゴゴスマ! → 東国原英夫氏の「ゴゴスマ」での金慶珠氏に対しての言動の壊れっぷりが異常すぎる件 #ゴゴスマ - NAVER まとめ / 『ゴゴスマ』で今度は東国原英夫が韓国ヘイト丸出し、金慶珠を攻撃!「日本男子も韓国女性を暴行しなけりゃ」発言の反省もなく(リテラ)



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おまけに増税って! → <働き方改革の死角>日本、続く賃金低迷 97年比 先進国で唯一減(東京新聞); 時間あたりでみた日本人の賃金が21年間で8.2%減り、先進国中、唯一マイナスに。企業の人件費抑制が主因だが「働けど賃金低迷」が消費をさらに冷え込ませる悪循環。年金財政検証で賃金の右肩上がりを前提にした甘さも露わになりこのままなら年金支給額もさらに減少しそうです。



恥知らずで愚かな歴史改竄主義者 → 安倍首相 ユネスコ事業の政治利用防止へ積極協力の考え | NHKニュース ;「「南京事件」の資料が登録、韓国や中国などの市民団体が慰安婦問題に関する資料の登録を申請。日本政府が、事業が政治利用されているとして改善を求めています。」

コロワイド(かっぱ寿、甘太郎、牛角、温野菜)の会長がやばすぎて.....「生殺与奪の権は私が握っている」 / 24時間営業やめたら増収 ロイヤルホストの働き方改革 黒須康宏ロイヤルホールディングス社長





《関連記事》

宮本岳志さんの主張するカジノ反対の説明がわかりやすい(動画) / 宮本さんのおっしゃる通りです。博打で倉建つのは胴元だけです。 — 内田樹



▼安倍晋三の腰ぎんちゃく



2019年8月28日水曜日

ネトウヨ経済評論を見える化してみたら大崩壊 ;「韓国経済崩壊!」 「中国経済崩壊!」 「日本経済スゴイ!」 ネトウヨさんはずーっとそう言い続けてるな。 ウヨさん自慢の経済評論とその結果を見える化してみたで。 一旦冷静になって受け止めてくれるかな。



【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その33)「.....「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が 「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。....」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その32)「町内ではたちまち、在郷軍人、青年団員、町内有志の連合になる自警団が組織せられる。避難民中の壮年の男も、今までの疲れと飢えとを打ち忘れたかの如く、進んでこれに参加する。殺気は暮近き敗残の町のすみずみにみなぎり、人々の神経は針の如く鋭く作用(はたら)きだした。.....」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;文京区/根津・千駄木〉
相澤熈〔当時『国民新聞』記者。白山で被災〕
〔2日〕家へ帰ると町内の交親会から触れが回ってきた。不逞の徒が出没して危険だから、各戸一人ずつ、相違なく町内の警衛に出てこいというのであった。人の話に、この町内の外3町内が連合で自警本部を組織し、要所要所に張り番をして朝鮮人や社会主義者の放火する者を警戒するのだという。彼は昨年厳島神社に詣でた時そこで買った太いステッキを手にさげてM町の曲がり角に詰めることとなった。
「そのステッキで誰か打つつもりですか」
妻にこう問われて彼は少々困った。いまだかつて人を打った経験のない彼に、たとえ火つけが来ても、打ちのめすカがあろうとも思われなかった。詰所ではもう大勢来ていた。かねて懇意にしている文部省のH君、貴族院のI君、及びその他会社の人、鉄道省の人、植木屋の親方、大工、職工、雑誌記者、在郷軍人等の面々20余人、思い思いの武器を携えて町内に入る者出てゆく者を一々誰何していた。
「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が
「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。間もなく日が暮れた。どこの家でも、一切屋内では火を起さず外で炊いて提灯の光りで食事をすますと、早々戸外へ出てしまう。
警衛本部から伝令が来た。鮮人が井戸の中に硫酸を入れてあるいているから、井戸を警戒するように、又当座の飲み水は今のうちに汲んで置くようにというのであった。飲料水に毒を入れられては大変だから、まず第一に井戸を警戒しなければなるまいというので、彼は路次を入って突き当りの自分の家の門の前に、粗末な藤椅子を持ち出して、それに腰をかけてそこからお隣りの家の前にある堀井戸を見張る役を仰せつかった。路次を入ったその両側に6、7軒家が並んでいる。そこの妻君達が、毒を入れられぬうちに汲んで置こうというので手に手に手桶やバケツをさげて、彼の前を馳せ違う。提灯をつけた者、荷物を背負った者が一層頻繁に路次を出たり入ったりする。次第に暗くなるに従って、下町方面の空が、昨夜のように真赤になる。この狭い路地内にも一種言うべからざる世の不安と、火事に対する恐怖の色が人間の面にありありと現われて見えた。
〔略〕「あの火は何時ここへ来るでしょう」
「白山を上ってここまで来るまでには、まだ大分あります。多分こないでしょう」
「でも朝鮮人が火をつけると言いますから、何時焼けて来ないとも限りません」
「それはそうです。白山辺へつけられたら、それこそ騒動ですが、多分そんなことはないでしょう」

〔略。3日〕午後から非常に蒸し暑く、夕立が来そうで来なかった。3時頃本部から伝令が来た。鮮人が300人抜刀で押し寄せて来るから皆出て来いというのであった。彼は例のステッキを持って出て行った。大粒の雨が降り出したが、すぐやんだ。
やがて日が暮れた。彼は夕飯をたべに宅へ帰って、縁側から東の空を見ると、赤い色が全くとれて、火事とおぼしき怪しげな雲は跡形もなく消えていた。これで火事は全くおさまった。しかし警戒は一層厳重にするようにとの伝令が又来た。町内の曲がり角、四辻等は、それぞれ何かの武器を持って出張っている外に、3人5人隊を組んで、ここの路次そこの抜け裏等犬の這い入る穴までも探し出して絶えず巡回してあるいている。
〔略〕間もなく又呼び出しが来た。詰所へ行ってみると、既に文部省のH君や貴族院のI君なども見えてうしろの方に小さくなっていた。すると今度は向うの四辻の詰所の方から提灯を持った若い青年が駈けて来た。
「鮮人が巡査の服装をして西丸町へ入り込んだそうですから気をつけてください」と言って又もと来た路を引返した。
(「大地震のあと(ある記者の日記から)」『教育時論』1923年12月5日号、開発社)

那須喜子〔当時府立第一高等女学校生徒〕
〔2日夜〕夕方松坂屋が焼けた時に、前の根津の権現に一夜野宿しました。そのうちに又人を驚かしたのは鮮人さわぎでした。その境内に鮮人が入ったというので皆がさわぎました。2、3日は鮮人さわぎで人々が抜刀で歩くので、夕方はうっかりしてあるけませんでした。
(『校友・震災記念』府立第一高等女学校内校友会、1924年)

〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉
井沢禮治〔当時本郷区富士前尋常小学校6年生〕
〔2日〕3時頃には、それ〇人だ、打殺せ、というあのさわぎが持ち上がった。うすぐらいちょうちんの光が家々にともされた頃には、天上の星がきらきらと光を放つ夜であった。
ぼっちゃんは服を着て、井戸端へ出た。主人や下男は皆自警に出る等、家は上を下への大混雑である。
9月2日の夜これほどおそろしい事はない。
「〇人200名某地に向かう各位警戒をせよ」
等という流言に皆はさもをひやして驚いていた。僕も一人位は捕えてやろうと苦心したが、それも出来なかった。
(「ポチ手記」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常六年の巻』培風館、1924年)

小畑惟清〔医学者〕
〔2日夜、大学病院に入るため竜岡町の鉄門を乗り越える〕その最中に闇から男が現われ、今、朝鮮人が押しかけて来るから、急げ、急げと言い捨てて再び闇の中へ消えて行った。皆あわてて土塀を乗り越してしまった。愈(いよいよ)大学病院構内に入り、私が先達で婦人科教室の前まで来た。遂に朝鮮人は現れなかった。
〔略。また火に追われて〕一行は最後の勇を鼓して大学赤門に来た。門を出でんとする時、傍から馳せて来た男が、タッタ今、朝鮮人が爆弾を投げて行った。急ぎ通れ、と呼ぶ。一行は吾を忘れて駈け出した。後振り返っても爆裂せず、本郷3丁目の角にかからんとする時、又もや同じ様をことで脅やかされた。後振り返っても爆裂の様子もない。本郷1丁目に来た。
(小畑惟清『一生の回顧 - 喜寿』私家版、1959年)

近藤栄一〔1903年生まれ。白山で被災〕 
2日目になると朝鮮人が井戸に毒を入れたという騒ぎがおき、梯子で通りをふさぎ、刀をたてて検問みたいにしてました。本郷には東大に通う朝鮮の学生たちがいっぱいいたんですよ。 (『谷中・根津・千駄木』24号、谷根千工房、1990年) 

 近藤憲二〔社会運動家〕 
〔2日〕駒込〔の労働運動社〕へ帰ったのは夜であった。そのときすでに「鮮人来襲」の流言が飛んでいた。 
〔略。3日〕その日から町に自警団ができ、私の尾行の私服が朝鮮人とまちがえられて、幾本かの抜身を突きつけられ、警察署へ引っぱって行かれるのを見た。自警団は署でお目玉を食ったことであろう。 (近藤憲二『一無政府主義者の回想』平凡社、1965年)

鈴木雷三〔当時24歳。駒込吉祥寺裏の自宅で被災〕 
〔2日〕本郷3丁目近い友人の所へ行った。ここは幸い火は無事だったが、流言や飛語が飛び交い、今にも東京は全滅するような話だった。共産党が武器を取って東京を占領するとか、朝鮮人が全部反乱を起こしたとか物騒な噂が、まことしやかに囁かれて人々を恐怖させた。 
〔略。3日?〕千住の石炭置き場なぞは1週間も燃え続けていた。本所・深川は全滅、焼け残った地区に今度は物凄い飛語が飛び、朝鮮人は片っ端から捕えられたり殺されたりした。 人心がこうなると常識を失い、お先走りの町内の者達が自警団を組織し、武器を持って往来する人々をいちいち調べた。九州弁の者達は言葉が変っているので、朝鮮人と誤られ、散々調べられた上、都々逸なぞを唄わされ解放されたりした。メガホンを持った町内会の者が、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んだらしい、井戸水を飲まないように」などと町内を怒鳴って歩く。どこから出たデマか知らないが、混乱時の人心というものは恐ろしいものである。逃れた朝鮮人が子どもを連れて青田の中に潜んでいると、町内会の者達がそれを引き出して殺してしまったりと、随分残酷なことをした。この震災で罪もない朝鮮人が数千人殺された。 (『向島墨堤夜話 - ヨミガエル明治大正ノ下町』栞文庫、2009年)

つづく



演説中に抗議受けた文科相「大声出す権利保障されない」 / 演説にやじの権利「保障されず」 / 柴山文科相に批判の嵐 英語民間試験に異議の学生を即排除 / 参院選「安倍やめろ」に続き埼玉知事選でも…警察が柴山文科相への抗議を違法排除! 当の柴山も「表現の自由」制限を主張する横暴 / 一人で抗議しているのに対して「大集団になるから」と弾圧を正当化する文科大臣     





























毎日新聞がひどい反韓ヘイト扇動川柳を「秀逸」と評価してる件→記事&ツイート削除(NAVERまとめ) / は? 『嫌韓をあおる』と受け止めた読者が悪いのか! → 「毎日新聞社として、掲載に当たり『嫌韓』をあおる意図はありませんでしたが、『嫌韓をあおる』と受け止められた方がいらっしゃったという事実については、真摯に受け止めております。」










武田邦彦氏の「ゴゴスマ」での反韓ヘイト扇動が異常すぎる件(NAVERまとめ); 日本人女性がソウルで韓国人男性のナンパを無視し暴行された事件に関して、武田邦彦氏の「ゴゴスマ」での反韓ヘイト扇動が異常すぎる件を記録。 更新日: 2019年08月28日 / 韓国人の暴行事件に『ゴゴスマ』で武田邦彦が「日本男子も韓国女性が来たら暴行しなけりゃいかん」とヘイトクライム煽動     














2019年8月27日火曜日

旧東海道を歩く(13) 平塚宿 (馬入橋)~馬入一里塚~江戸見附跡~脇本陣跡~高札場跡~問屋場跡~本陣跡~京方見附跡~(平塚宿の碑)

旧東海道を歩く(12) 茅ヶ崎 一里塚跡~牡丹餅茶屋碑~東海道の松並木~茅ヶ崎一里塚~南湖の左富士~鶴嶺八幡宮鳥居~史跡、天然記念物旧相模川橋脚
から続く





▼相模川を渡る直前で平塚市に入る

▼相模川に架かる馬入橋上で62km


▼馬入橋を渡るとすぐに「馬入一里塚」があり、旧東海道はここで国道一号線と暫く別れる


▼JR平塚駅前を通過

▼平塚宿の江戸見附跡(平塚宿の江戸側入口)






▼平塚宿京方見附(平塚宿の京都側の入口)
ここで旧東海道は国道一号線と合流する

▼平塚宿の碑
これは現在の行政区域、平塚市と大磯町との境



(余談)
この日(8/26)は一気に大磯宿の京都側入口まで歩く予定であったので、普段は軽く済ませるお昼は平塚駅の駅そばにした。


公取委、芸能事務所の問題行為を提示。「テレビ局に圧力かけて妨害」「独立を諦めさせる」など…資料の内容とは? / 【独禁法に抵触】芸能事務所の問題行為、公取委が例示 ; 「移籍、独立を諦めさせる」「出演先や移籍先に圧力をかけて芸能活動を妨害する」など。実質的な指針として業界への周知にも活用する。





日本で「搾取」される移民労働者たち 日本で「搾取」されたと訴える移民労働者たちをBBCが取材した。世界的服飾ブランドの服を作っていた人や、自殺を図った人もいた。 (動画)










「日本会議は、もはや安倍政権の基盤とはいえないんじゃないか」.....参院選でも日本会議系の衛藤は、和田政宗の半分しか集票していない。この7年間のうちに、日本会議よりも急進的なネトウヨが台頭しそちらが「母屋」をとってしまったのではないか.....安倍政権のイデオロギー的基盤は、日本会議的なものというより維新的なもの.....伝統的保守を名乗りつつ、実は新保守主義的なイデオロギーで自民党を制覇していったのが、この7年間だったんじゃないか.....— こたつぬこ



2019年8月26日月曜日

インスタグラムに出禁を喰らいましたの巻 

インスタグラムに8/31までの出禁喰らいました。

8/24(土)夜、突然インスタからブロックの通知が来ました。
「いいね」のみならず投稿もブロックです。
コレ、重罪人扱い!

ログアウト/ログインをやるとクリヤできるとの説もあるようですが、当面、静観します。

但し、インスタの通知にあるようなサービスを利用したことは全くないので、これは完全な言いがかりです。濡れ衣です。おまけに、抗弁の方法がないので、始末におえない。「ご意見・ご感想」とかボタン有るけど、これカッコだけ。
ま、使わせてやってるというスタンスみえみえという感じですかね。

私の基本ポリシーは「いいね」のお返しです。
毎週、自分の1投稿に限定して「いいね」をしてくれた人に対して、木曜から日曜の4日かけて「いいね」のお返しをしてます。
半年ほど前からお陰様で1,000くらいの「いいね」を貰ってるので、4日かけてもなかなか大変です。

それでも、今年の7月10日前後に多くのインスタユーザが喰らったブロック騒ぎからは全く無縁でした。
多分この頃から、インスタの言う「ガイドライン」(全く開示されてない)の閾値が高く(厳しく)なったのだと理解してます。(或いは、その試行だったか)

8月になってから、2週連続で日曜日の夜に「軽微な」ブロックを喰らいました。
一度目は24時間後に確認したらOKだったので、二度目は8時間後に確認しました。これもOKでした。
なので、定量的/客観的な説明は困難ですが、このペースを守ってきた積りでした。

で、突然の出禁。
しかも、「いいね」だけだと思ったら、投稿も出来ずにひっかかったまま。

一つ気になるのは、出禁を喰らう8/24の昼に、インスタからパスワードを変えるように勧告があったことです。スクショを取らなかったので、このときのインスタ側の説明はよく理解できないままです。

ツイッターでも同じですが、無料で使わせてやってるんだ、オレの決めた規則(不開示)に従えというスタンス、ま、はっきり言ってムカつきますよね。

と言いながら、しゃーないので、8/31まで静かにしときます。

▼8/24の投稿
ぶさらがったまま投稿できてないですが、放置してあります。

▼インスタからの一方的ないいがかり
「ご意見・ご感想」ボタンはカタチだけ ← インチキはいけませんね

日米貿易交渉が大枠合意(日経新聞) ; “日本が米国産牛肉にかけている38.5%の関税は段階的に9%に下がる。豚肉はソーセージなどに使う低価格品の関税は1キログラム当たり482円から最終的に50円になる。”

【トランプは上機嫌】【害虫被害というウソはすぐバレた】 トウモロコシ追加購入に補助金 日米貿易首脳会談 理由の「害虫被害」わずか 年間輸入3カ月分275万トン(東京); 実際には被害は現在のところ拡大しておらず「畜産などに支障がない」(農水省)レベル。種類の違う米国産で国内産を代替することも困難。 / 中国が輸入しない米のトウモロコシ 日本が買います | NHKニュース / 安倍首相はトランプ大統領の『安倍首相が全ての(余剰)トウモロコシを買う』との言葉を慎重に訂正:『政府が買うのではなく、民間セクターが買う。』それを受けてトランプ大統領は安倍首相の言葉に対し、『日本の民間セクターは日本政府の言うことを聞く。米国とは違う。』 / 兵器に続きトウモロコシの爆買い。横浜が手を挙げたカジノも、米カジノ大手が日本に進出し金を巻き上げる構図だが、これもトランプの依頼..... / 日米首脳、混乱の合意発表=首相同行記者不在で実施(時事)←質問を嫌ったんだね    







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2019年8月25日日曜日

京都散歩(8/21) 錦市場~三条堺町イノダコーヒ本店~四条大橋~石塀小路~高台寺~円山公園長楽館、夜は西陣の京料理『松粂』 2019-08-21

8月21日、曇のち晴れ
朝からお墓参り2件(大宮松原、裏寺町)。

ランチは、
錦市場を通って三条堺町のイノダコーヒ本店。
ランチ後、次男と
三条通の古い建物を見ながら、寺町通りで南下し四条通りを東へ。
四条大橋を渡って祇園・石塀小路~高台寺の八坂の塔ビューポイントへ。
で、3時前、
余りに暑いので円山公園・長楽館で休憩。
夜は、
西陣の京料理『松粂』。

総歩数は前日と同じく1万4千歩。
(2日とも次男がつきあってくれたし、この日は全て次男にゴチになった)

京都散歩(8/20) 南禅寺(水路閣)~インクライン~岡崎疎水~白川に沿って~明智光秀の塚~祇園~四条大橋 2019-08-20

▼錦市場
相変らず若冲柄の飾りつけ
京のだいどこと言われた錦市場だがお土産屋さんが増えてきている



▼イノダコーヒ本店(コーヒーと語尾を伸ばさない)
高田渡の「コーヒーブルース」で有名
・・・と思ってたら、高倉健や池波正太郎もよく来ていたとインスタグラムで教えて貰った。
フンイキ抜群ですよ!





▼三条通の歴史的構築物
一番上は重要文化財「旧日銀京都支店」
明治39年竣工、辰野金吾設計
現在は京都文化博物館。この日は無料のコンサートをやっていた。



▼四条大橋と南座

▼石塀小路


▼高台寺駐車場階段からの八坂の塔

▼長楽館(明治42年竣工)
ダメ元で行ったけどラッキーにも入れた。



▼西陣の京料理『松粂』
もう5~6回は来てるかな。
いつも美味しく戴いてる。