2019年2月3日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その32)「町内ではたちまち、在郷軍人、青年団員、町内有志の連合になる自警団が組織せられる。避難民中の壮年の男も、今までの疲れと飢えとを打ち忘れたかの如く、進んでこれに参加する。殺気は暮近き敗残の町のすみずみにみなぎり、人々の神経は針の如く鋭く作用(はたら)きだした。.....」

大正12年(1923)9月2日(その31)「不逞鮮人の1人や2人が仮にあったとしても、この大火災に対して、その一つや二つの爆弾に何等の権威があろう。冷静を欠いた人達はこの常識で推断される何でもない事実を考える余裕もなく、惨禍の結果を不逞鮮人の跳梁に因るものとした。」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;文京区/小石川〉
田淵巌
2日午後3時、4時頃と覚しきころ、小石川は、爆発を起して区内の人々の心胆を寒からしめた砲兵工廠の隣、政界の惑星、彗昼を以て呼ばれたる観樹将軍三浦梧楼子の上富坂観樹庵の広庭、驚愕と飢えと疲れとは、日ごろのみえも外聞も何のそのその、どうとその身を叢の上、土の上に臥し横え、昏々死せる如く眠るもの、呻くもの、叫ぶもの、あるものは失いし財貨の事を話して、かえらぬ事に執着し、あるものは離散せし肉親の甲乙の身の上を気遣う・・・今はもう上空を回旋せし午前の飛行機の事も夢幻の如く忘れ果てて、狂おしきばかりの焦心であり、暴燥であった。
しかしながら、五尺の身を起して積極進取、自ら食をあさり歩き、とり出して得ざりし財物を持ち来り、失いし人をもとめる気力とてはもちろんある筈はなかった。焦慮燥心はかえって飢えと疲れとを強めゆくばかり、やがて誰もぐったりと失望、絶望の淵に陥った如く、だんまり込んでしまう・・・。
そうしたその時! 広庭の小高い所に立った、武装甲斐甲斐しい一在郷軍人らしい中年の男があった。突如破れ鐘のような蛮声が、鮨づめの人の上にひびき渡った。そのにわか作りの馬糞紙のメガホーンはある事を語った。死せる如く横たわっていた人々は、たちまち別人の如くすっくと立ち上がった。その蒼白の顔面に凹ませて持つ瞳の輝きの、いかに異様なりしよ!!
極度の緊張! その時、人々の口は死人の如くこわばり黙する。
おそろしく引きしまった広庭のその時の空気!
その空気をうちふるわして、メガホーンの蛮声はなおもつづけられた。
在郷軍人は、いい終わると飛鳥の如く彼方へと駆け出していった。その後姿を瞬きもせざる注意に見送った人々は、その姿の彼方に消えると共に、ようやく我にかえったように、ホッと太息をついた。
とたちまち怒涛の如きうなりが、どっと広庭一帯に起った。 - 呪いと恐怖と絶望とを一度に音に表したようなそのさざめきが・・・。       
しばらくすると、その雑音のすべてをかき消す「生命がけなる魂の絶叫」が起った。またしてもざーっと魂のうなり - その雑音がひろがって来た。
町内ではたちまち、在郷軍人、青年団員、町内有志の連合になる自警団が組織せられる。避難民中の壮年の男も、今までの疲れと飢えとを打ち忘れたかの如く、進んでこれに参加する。殺気は暮近き敗残の町のすみずみにみなぎり、人々の神経は針の如く鋭く作用(はたら)きだした。この世を滅亡せしめる悪魔の劫火は、東の天をあかあかと彩ってゆく。余震なおやまざる裡に、恐怖の第二夜は近づいてくるのだ。
自警団の人々は、町名しるしたる白布を右肩より左脇へ、頭は後鉢巻甲斐甲斐しく、町の入口、町内の要所要所を、水ももらさぬ堅固さに固めていった。
〔略〕折から、下富坂の方向に当って突如として 「ウワーッ!」という物々しいときの声が起った。かと思うと引きつづいて、けたたましい音が聞こえた。
「それッ!」というまもあらばこそ、ガヤガヤガヤと罵り騒ぐ声、玉ざるような叫喚!! 一度に起ってはまたしても「ウワーッ!!」という喊声となる。一伝令はまろぶように何事かを告げ来っては彼方へ一目散にかけ出す。
〔略〕しばらくすると、今度は最前、けたたましい叫びの起ったあたりから、歓喜、語調よりする鬨の声が「ウワーッ!」「万歳-ッ」と、死の沈黙を破って起った。つづいて息せき切った少年伝令が、宙を飛んでかけすぎる。
〔略。3日〕午前3時ごろであったろうか!眠るともなしに、うつらうつらしている人々の耳へ、夢の国よりの便りのような声が伝わって来た。
「皆さーん、ご安心ください。ただ今ニヶ師団の兵士がわが東京を護りに来てくれました。戒厳令が敷かれたのであります。ご安心なさーい。もう大丈夫ですぞッ・・・」
〔略〕と誰かがほんとうに嬉しそうに叫んだ。「有難う - ッ」 その声におびき出されたかのように、つづいて、誰からとなく「万歳 - ッ」という歓声が、真暗の中から起った。そして、しばしば鳴りが止まなかった。
(「第二夜の衝動! - ○○と○○と」『大地は壊れたり - 関東破壊大震災実記』神戸新聞社、1923年)

中馬馨〔政治家〕
〔2日夜明け、後楽園近くで〕途中から市電の線路の上を歩いてきた馨は、その停留所付近の人だかりの横を通り過ぎようとして、何か激しくものを打つ音を耳にした。そして、殺気立った声の飛び交うその中心に目をやって、その光景に思わず立ち止まった。
数十人の男たちに取り囲まれて、若い男が一人うずくまっていた。男たちはそれぞれ手頃な棒を持っていて、激しく罵っては力任せに若者の背中にそれを振り下ろしている。そのたびに彼は悲鳴を上げ、哀願するように何か言った。馨は、そのカタコトの日本語を耳にして、彼が朝鮮人だとわかった。先ほどからよほど締め付けられていたのであろう、顔中血だらけで、それが炎の照り返しのなかで無惨にゆがんで見えた。
”ひどいことをするっ”馨は思わず口走った。こんなことは許されない。止めねばならないと思った。
”おいっ、みんな、こいつチョーセンだ。朝鮮が紛れ込んでいるぞ”馨のその声を聞きとがめた右隣の男が、木刀を持った馨の右手を掴んで大声を上げた。"
"”此奴は「ひどいことをする」と言った。それにこんな木刀を持っていやがる。朝鮮にちがいない”左隣の男がそう言うと、後ろにいた男がいきなり、《この野郎-》とわめくと馨を羽交い絞めにした。《井戸の毒はこいつが指図したのに違いない》と誰かが叫んだ。それに《やっちまえ。叩き殺してしまえ》という殺気立った声が重なった。
〔略〕年かさの男が一人、馨の正面に立った。
〔略〕”おにいさんは朝鮮かい?”
”いや、僕は日本人だ”
”日本人なら、どうして朝鮮の味方をするんだい。えっ、にいさん”
”僕は通りがかりの人間だから、事情はわからない。悪いことをしたのなら、朝鮮人でも警察に連れていけばいいのじゃないかと思ったので、そう言ったまでです” 〔略〕
”あっちこっちで、朝鮮が火をつけたり井戸に毒を入れたり、集団で火事場泥棒ををやってるってことは、督察からもお達しがあるんだよ。それで警察の手が回りかねるから怪しい者は自警団を組んで手助けをしろとのことで、わしらはやっているんだ。だから、にいさんが朝鮮や、朝鮮に肩入れする主義者なら見逃すわけにはいかないんだ。どうでえ、そうでない何か証拠はあるかい?〃 〔略〕"
"”それなら、警察へ連れていってほしい。私の名前は中馬馨、早稲田高等学院の1年生です。警察で問い合あせてもらえばすぐにわかると思う” 〔略〕
”わかったよ。それじゃ警察へ行くことにしよう” 〔略。朝鮮人と思われるその若者と一緒に下富坂警察署へ連行される〕警部は男の話を途中でさえぎると、ほかの人間は目に入らぬように真っすぐ馨に向ってきた。
”何を企んでいたのか。貴様!” その目がすわっていた。〔略〕”諸君ご苦労-。こういう平気で嘘をつくのが一番怖い奴なんだ。不審な連中は片っ端から驚禁に通報するか連れてきてくれ。お上もきびしく詮議せよとのことだ。抵抗する奴は叩っ殺しても罪には問わないから、思いっ切りやって結構だ”
一気にそこまで言うと、警部は大きな声で警官を呼び、”此奴はわしがやるから、このチョーセンを締め上げろ”と命じた。そして、馨の襟首を掴んだまま引きずるように廊下を突き当たり、その右側にあるやや広い畳敷きの部屋に連れ込むと荒々しく引き戸を閉めた。
〔略〕警部はまさに狂ったように、背負い投げ・払い腰・足払いと次々と馨を畳に投げつけるなど、己の柔道の技に酔ったかのように責め続けた。〔略〕警部は自分で捕縛をかけた。”これ以上痛い目に遭いたくなかったら、自分のしたことを正直に白状しろ。貴様が朝鮮であろうと主義者であろうとどうでもよい。手に余ったら殺してもお咎めはなしとのお達しだ。警察をなめるんじゃないぞ” 〔略〕目を血走らせた警部は、警官が手にした竹刀を引ったくると、馨の腹部といわず背中といわずめった打ちにした。〔略〕先程の若い男が鮮血に染まって哀願する顔が見えた。〔署長が帰ってきて、中馬馨は昼近くに解放された〕
(黒田隆幸『月の石・上巻 - 都市復権にかけた中馬馨 命の軌跡』同友館、2001年)

野上彌生子〔作家〕
〔2日〕小石川林町の高田さんの家に落着く。ここは避難者が通行しないからものさわがしくなくて気がおちついた。しかし鮮人が放火する懼れがあるので、町民が終夜警戒しているのだといって一夜じゅう人々の叫び声や誰何の声がきこえた。植物園の避難民にまざれ込んでいるのだという。 (野上彌生子『野上彌生子日記 - 震災前後』岩波書店、1984年)

橘浦泰雄〔社会運動家、民俗学者〕
〔9月2日〕藤森成吉宅の見舞からの帰り、護国寺下を通りかかった時、橋浦は「凶器を携えたる5、6人の人々僕を取り囲み、のっけに《朝鮮人だろう!》とて打ち兼ねまじき気配」で詰め寄られた。とって返し て藤森夫人に素性を明かしてもらい、事なきを得た。 9月4日は渋谷にある坂田家に病臥中のかつての義父を見舞い、5日は布施辰治、堺利彦の家を訪ねて無事を確認した。同じ日、橋浦の町内〔東京市外野方村〕でも火災防御のため警護団が組織され、橋浦も加入を要請された。「発起人へ若し鮮人目的の警衛なればその必要を認めざる故加入せぬと云い置きし所、それ等の故もありしが単なる火災盗難防禦との趣旨になりし故それとて不用とは思えど近所つき合いに出る事にす」と不承不承ながら引き受けることにした。(「日記的メモ」) (鶴見太郎『橋浦泰雄伝 - 柳田学の大いなる伴走者』晶文社、2000年)

和田信賢〔アナウンサー〕 
〔2日〕家の前を、蒲団や家財道具を満載した荷車や自転車がひっきりなしに通っていった。「午後2時頃にもっと大きい地震が来ますからお気をつけなさい」誰かが外で怒鳴っている声が聞こえて浮き足立つこともあった。 〔略〕2日の昼近くになって、近所の青年団と称する数人の男たちが和田の家へ入って来た。「朝鮮人が暴動を起こして、井戸に毒を投げ込んでいるという話です。各町内では一応自警団を作って警戒しているようですから御協力を頂きたいんです。おんな子供は今夜はとりあえず植物園へ避難して下さい」そう伝えると、みんな戦争でもはじまるようなこわい顔をして帰っていった。 信賢は、腸チフスの病みあがりでどこかにつかまらなければ歩けない弟の義信の手をひき、木村家の方も同じように泰之が勲の身体を支えて、母親たちに連れられ、すぐ隣りの帝大附属小石川植物園に向った。普段は鉄条網がめぐらされていて入れない植物園だが、青年団が切ったのか鉄条網はズタズタになっていた。和田家と木村家の人々は二夜を植物園で野宿した。朝鮮人などは襲いに来なかった。竹槍や家宝の刀剣まで持ち出して武装していた自警団は拍子抜けのていだった。 (山川静夫『そうそう そうなんだよ - 小説和田信賢』日本放送出版協会、1983年)

小石川富坂警察署
2日午前7、8時頃に至りて、鮮人放火の説漸く管内に喧伝せられ、大塚火薬庫襲撃の計画を為すものありとさえ称するに至る。これに於て火薬庫衛兵司令及び大塚署に注意せしが、午後1時頃、「地震の原因は富士山の爆発にあり」「東京湾沿岸に大海嘯ありて被害甚し」「大本教にては今回の地震を予知し、既にその教書中に記せるのみならず、信者等は政府の圧迫を憤り、数千名相携えて上京の途にあり」等の流言起り、更に「放火人あり注意すべし」「大震は終息せず、何時及び何時に何回あり。気象台警報」など記せる貼紙を電柱その他に為すものあり。午後3時頃に至りては、「不逞鮮人等毒薬を水源地に撒布せるが為、断水を為すの巳むなきに至りしが、今やこれを井戸にも投入し、或は飲食物に混入しつつあり、注意警戒を要す」との流言あり。民衆等の飲食物を携えて本署に来り検査を請うもの少なからず、而して放火準現行犯人なりとて、鮮人を拉致して同行し来るものまた多し、依りて即日その取調を開始したれども、皆事実にあらざりき、かくて自警団はここに生じ、春日町・指ケ谷町・掃除町方面の如き狂暴特に甚し、曾々午後5時00分、近衛歩兵第四連隊の兵士60名本署に到着したれば、その後協力して警戒取締の衝に当り〔略〕。 (『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく








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