2019年8月28日水曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その33)「.....「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が 「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。....」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その32)「町内ではたちまち、在郷軍人、青年団員、町内有志の連合になる自警団が組織せられる。避難民中の壮年の男も、今までの疲れと飢えとを打ち忘れたかの如く、進んでこれに参加する。殺気は暮近き敗残の町のすみずみにみなぎり、人々の神経は針の如く鋭く作用(はたら)きだした。.....」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;文京区/根津・千駄木〉
相澤熈〔当時『国民新聞』記者。白山で被災〕
〔2日〕家へ帰ると町内の交親会から触れが回ってきた。不逞の徒が出没して危険だから、各戸一人ずつ、相違なく町内の警衛に出てこいというのであった。人の話に、この町内の外3町内が連合で自警本部を組織し、要所要所に張り番をして朝鮮人や社会主義者の放火する者を警戒するのだという。彼は昨年厳島神社に詣でた時そこで買った太いステッキを手にさげてM町の曲がり角に詰めることとなった。
「そのステッキで誰か打つつもりですか」
妻にこう問われて彼は少々困った。いまだかつて人を打った経験のない彼に、たとえ火つけが来ても、打ちのめすカがあろうとも思われなかった。詰所ではもう大勢来ていた。かねて懇意にしている文部省のH君、貴族院のI君、及びその他会社の人、鉄道省の人、植木屋の親方、大工、職工、雑誌記者、在郷軍人等の面々20余人、思い思いの武器を携えて町内に入る者出てゆく者を一々誰何していた。
「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が
「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。間もなく日が暮れた。どこの家でも、一切屋内では火を起さず外で炊いて提灯の光りで食事をすますと、早々戸外へ出てしまう。
警衛本部から伝令が来た。鮮人が井戸の中に硫酸を入れてあるいているから、井戸を警戒するように、又当座の飲み水は今のうちに汲んで置くようにというのであった。飲料水に毒を入れられては大変だから、まず第一に井戸を警戒しなければなるまいというので、彼は路次を入って突き当りの自分の家の門の前に、粗末な藤椅子を持ち出して、それに腰をかけてそこからお隣りの家の前にある堀井戸を見張る役を仰せつかった。路次を入ったその両側に6、7軒家が並んでいる。そこの妻君達が、毒を入れられぬうちに汲んで置こうというので手に手に手桶やバケツをさげて、彼の前を馳せ違う。提灯をつけた者、荷物を背負った者が一層頻繁に路次を出たり入ったりする。次第に暗くなるに従って、下町方面の空が、昨夜のように真赤になる。この狭い路地内にも一種言うべからざる世の不安と、火事に対する恐怖の色が人間の面にありありと現われて見えた。
〔略〕「あの火は何時ここへ来るでしょう」
「白山を上ってここまで来るまでには、まだ大分あります。多分こないでしょう」
「でも朝鮮人が火をつけると言いますから、何時焼けて来ないとも限りません」
「それはそうです。白山辺へつけられたら、それこそ騒動ですが、多分そんなことはないでしょう」

〔略。3日〕午後から非常に蒸し暑く、夕立が来そうで来なかった。3時頃本部から伝令が来た。鮮人が300人抜刀で押し寄せて来るから皆出て来いというのであった。彼は例のステッキを持って出て行った。大粒の雨が降り出したが、すぐやんだ。
やがて日が暮れた。彼は夕飯をたべに宅へ帰って、縁側から東の空を見ると、赤い色が全くとれて、火事とおぼしき怪しげな雲は跡形もなく消えていた。これで火事は全くおさまった。しかし警戒は一層厳重にするようにとの伝令が又来た。町内の曲がり角、四辻等は、それぞれ何かの武器を持って出張っている外に、3人5人隊を組んで、ここの路次そこの抜け裏等犬の這い入る穴までも探し出して絶えず巡回してあるいている。
〔略〕間もなく又呼び出しが来た。詰所へ行ってみると、既に文部省のH君や貴族院のI君なども見えてうしろの方に小さくなっていた。すると今度は向うの四辻の詰所の方から提灯を持った若い青年が駈けて来た。
「鮮人が巡査の服装をして西丸町へ入り込んだそうですから気をつけてください」と言って又もと来た路を引返した。
(「大地震のあと(ある記者の日記から)」『教育時論』1923年12月5日号、開発社)

那須喜子〔当時府立第一高等女学校生徒〕
〔2日夜〕夕方松坂屋が焼けた時に、前の根津の権現に一夜野宿しました。そのうちに又人を驚かしたのは鮮人さわぎでした。その境内に鮮人が入ったというので皆がさわぎました。2、3日は鮮人さわぎで人々が抜刀で歩くので、夕方はうっかりしてあるけませんでした。
(『校友・震災記念』府立第一高等女学校内校友会、1924年)

〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉
井沢禮治〔当時本郷区富士前尋常小学校6年生〕
〔2日〕3時頃には、それ〇人だ、打殺せ、というあのさわぎが持ち上がった。うすぐらいちょうちんの光が家々にともされた頃には、天上の星がきらきらと光を放つ夜であった。
ぼっちゃんは服を着て、井戸端へ出た。主人や下男は皆自警に出る等、家は上を下への大混雑である。
9月2日の夜これほどおそろしい事はない。
「〇人200名某地に向かう各位警戒をせよ」
等という流言に皆はさもをひやして驚いていた。僕も一人位は捕えてやろうと苦心したが、それも出来なかった。
(「ポチ手記」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常六年の巻』培風館、1924年)

小畑惟清〔医学者〕
〔2日夜、大学病院に入るため竜岡町の鉄門を乗り越える〕その最中に闇から男が現われ、今、朝鮮人が押しかけて来るから、急げ、急げと言い捨てて再び闇の中へ消えて行った。皆あわてて土塀を乗り越してしまった。愈(いよいよ)大学病院構内に入り、私が先達で婦人科教室の前まで来た。遂に朝鮮人は現れなかった。
〔略。また火に追われて〕一行は最後の勇を鼓して大学赤門に来た。門を出でんとする時、傍から馳せて来た男が、タッタ今、朝鮮人が爆弾を投げて行った。急ぎ通れ、と呼ぶ。一行は吾を忘れて駈け出した。後振り返っても爆裂せず、本郷3丁目の角にかからんとする時、又もや同じ様をことで脅やかされた。後振り返っても爆裂の様子もない。本郷1丁目に来た。
(小畑惟清『一生の回顧 - 喜寿』私家版、1959年)

近藤栄一〔1903年生まれ。白山で被災〕 
2日目になると朝鮮人が井戸に毒を入れたという騒ぎがおき、梯子で通りをふさぎ、刀をたてて検問みたいにしてました。本郷には東大に通う朝鮮の学生たちがいっぱいいたんですよ。 (『谷中・根津・千駄木』24号、谷根千工房、1990年) 

 近藤憲二〔社会運動家〕 
〔2日〕駒込〔の労働運動社〕へ帰ったのは夜であった。そのときすでに「鮮人来襲」の流言が飛んでいた。 
〔略。3日〕その日から町に自警団ができ、私の尾行の私服が朝鮮人とまちがえられて、幾本かの抜身を突きつけられ、警察署へ引っぱって行かれるのを見た。自警団は署でお目玉を食ったことであろう。 (近藤憲二『一無政府主義者の回想』平凡社、1965年)

鈴木雷三〔当時24歳。駒込吉祥寺裏の自宅で被災〕 
〔2日〕本郷3丁目近い友人の所へ行った。ここは幸い火は無事だったが、流言や飛語が飛び交い、今にも東京は全滅するような話だった。共産党が武器を取って東京を占領するとか、朝鮮人が全部反乱を起こしたとか物騒な噂が、まことしやかに囁かれて人々を恐怖させた。 
〔略。3日?〕千住の石炭置き場なぞは1週間も燃え続けていた。本所・深川は全滅、焼け残った地区に今度は物凄い飛語が飛び、朝鮮人は片っ端から捕えられたり殺されたりした。 人心がこうなると常識を失い、お先走りの町内の者達が自警団を組織し、武器を持って往来する人々をいちいち調べた。九州弁の者達は言葉が変っているので、朝鮮人と誤られ、散々調べられた上、都々逸なぞを唄わされ解放されたりした。メガホンを持った町内会の者が、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んだらしい、井戸水を飲まないように」などと町内を怒鳴って歩く。どこから出たデマか知らないが、混乱時の人心というものは恐ろしいものである。逃れた朝鮮人が子どもを連れて青田の中に潜んでいると、町内会の者達がそれを引き出して殺してしまったりと、随分残酷なことをした。この震災で罪もない朝鮮人が数千人殺された。 (『向島墨堤夜話 - ヨミガエル明治大正ノ下町』栞文庫、2009年)

つづく



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