2021年1月12日火曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ11)「要するに坪内稔典が「文章家・虚子」でいうように、《虚子に寄り添うか碧梧桐に寄り添うかで子規の死が違ってみえる》(「俳句」別冊「高濱虚子の世界」)のである。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ10)「この情景をそのまま文章にしたのが「九月十四日の朝」で、九月末に発行された「ホトトギス」(第五巻第十一号)に掲載された。口述筆記した虚子の腕もあるが、死を前にしてこれほど清澄な心境で綴られた文章は珍しい。人は死の寸前、安らかな気持ちになり看取る者をほっとさせるといわれているが、子規の場合もこの時がそれであったかもしれない。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ11)

4 十七夜の月

子規が死を迎える前夜の当直当番は虚子であった。「柿二つ」もこのあたりは実にリアルだ。


眠つたと思ふ間も無く老母の狼狽へた声に呼び起されてKは蹶(は)ね起きた。此時彼の呼吸(いき)は已(すで)に無かつたのであった。

Kはものにはじかれたやうに下駄を突かけて表に出た。

十七夜の月は最前よりも一層冴え渡つてゐた。Kは其時大空を仰いで何物かが其処に動いてゐるやうな心持がした。             (第二十回 死)


虚子が下駄を突っかけて表へ飛び出したのは、もちろん碧梧桐と鼠骨に急を知らせるためだった。


表から帰つたKを見ると、其迄黙つて枕元に坐つてゐる老母は其一人の老婦人に斯う言つた。

「NはKさんが一番好きであった。Kさんには一番お世話になった。」

さう言って老母は泣き伏した。

次の間からは妹の泣声が聞えた。

Kは黙って其処に坐った。     (同前)


碧梧桐はホトトギスの校正で疲れてぐっすり寝込んでいる所を、虚子に「升さんお死だよ」と言って起こされ、あわてて子規庵に駆けつけた。

翌朝、虚子はホトトギスに子規の死亡記事を割り込ませるため神田の印刷所に出かけた。その後、遺体を片付けることにし、八重が頭の方へ律が裾の方へまわった。碧梧桐は『子規の回想』〈続編〉で、


ともかく斜(はあす)かひになつた身体を真直に直さなければならない。静かに枕元へにじり寄られたをばさんは、さも思ひきつてといふやうな表情で、左り向きにぐつたり傾いてゐる肩を起しにかゝつて

「サア、も一遍痛いというてお見」

可なり強い調子で言はれた。何だかキヨツと水を浴びたやうな気がした。をばさんの眼からは、ボタボタ雫が落ちてゐた。お律さんも瞼をしぼだゝいて伏目になって……。

「サア、そちらも早ヨおしんか」

をばさんに励まされて、どうやら真直に蒲団に寝た形になった。少し北寄り、ずつと東の襖の方へ、蒲団ともずらした。

「どうも長い間お骨折りでしたが」

そんな御挨拶はこの際口には出なかった。又た「長いことお世話になりましたが」そんな辞礼を言ほうともされなかった。            (二十九 死後)


と、その時の模様を詳しく記す。碧梧桐がこの〈続編〉を書いたのは、昭和九年九月の子規の三十三回忌に間に合わせるためで、ここにも「柿二つ」と同じように八重の言葉が出てくるが、八重からは碧梧桐に対して礼や労いの言葉はなかった。もっとも遺骸を動かしている最中は、礼どころでないのは当たり前だ。しかし律義で昔気質の八重が、その後碧梧桐に礼の言葉が無かったとは考えにくい。これも勘ぐれば碧梧桐が「柿二つ」の「NはKさんが一番好きであつた。Kさんには一番お世話になった」に対比させたものであろう。

ちなみに碧梧桐がこれを書いた時、八重はすでにこの世の人でなく、律は六十五歳で健在だったが、そこまで深読みしたかどうかは分からない。八重が八十三歳で没したのは昭和二年で、律が七十二歳で没するのは昭和十六年であった。

ところで司馬遼太郎も『坂の上の雲』で子規の死を詳しく描く。しかし司馬は虚子の「柿二つ」と「子規居士と余」を参考にしたようで、「九日十四日の朝」は出てくるが子規が絶筆を書く場面は出てこない。もちろん八重の「サア、も一遍痛いというてお見」という悲痛な言葉も出てこない。要するに坪内稔典が「文章家・虚子」でいうように、《虚子に寄り添うか碧梧桐に寄り添うかで子規の死が違ってみえる》(「俳句」別冊「高濱虚子の世界」)のである。


5 よく親しみよく争ひたり


もあれ「柿二つ」に子規の辞世の句が出てこないのは淋しい。虚子がその場に居なかったといわれればそれ迄だが、画竜点晴を欠くと思われても仕方がない。

これは虚子が「柿二つ」を執筆した頃、碧梧桐との文学的対立がいっそう鮮明になっていたからかもしれない。虚子には「柿二つ」の最後の所でも碧梧桐のことを《彼の門下生の一人(にん)としてKの競争者として立つ - 今はH雑誌の編輯に携はりつゝある - 一俳人》と躊躇(ためら)わずに書くような一面もあった。彼が子規でありH雑誌が「ホトトギス」であることはいうまでもない。

しかし、こんな事があっても虚子は後に『俳句の五十年』で、


碧梧桐と私は不幸にして違つた俳句の道を歩んだともいへますが、一方からいへばそれが俳句界をして華やかならしめた原因であるともいへるのでありまして、又私の生涯におきましても、碧梧桐あるが為に、又碧梧桐は私があるが為に、お互ひに華やかな道を歩んで来たともいへるのであります。


と回顧しているように碧梧桐とは俳句の立場での対立は終生解けぬままだったが、日常の交際までいっさい絶ったわけではない。これがまた虚子の人間の大きさであり、人々に愛される所以だ。

大正五年に『碧梧桐句集』を出す時には虚子は自分の経営する俳書堂から出しているし、大正六年、内藤鳴雪の古希祝賀能が催された時は「自然(じねん)居士」で虚子がシテ、碧梧桐がワキと仲よく演じている。碧梧桐も昭和十一年に虚子がヨーロッパに外遊する時には横浜港まで見送って、虚子に外遊中の注意をこまごま与えた。碧梧桐は大正九年末から一年ほどかけてヨーロッパ、アメリカを回っているので外遊については先輩だった。また子規の三十三回忌では、碧梧桐は虚子を立てて自分より先に焼香させるという気くばりも忘れなかった。

子沢山だった虚子に較べて、碧梧桐は子宝に恵まれず義兄、青木月斗の三女美矢子を養女に迎えたが女学校時代に亡くすなど、家庭的には不幸だった。また俳句の世界でも一時は新傾向俳句を率いて時代の寵児となったが、やがて凋落し昭和七年には六十歳で俳壇を引退するなど、決して幸福とはいえなかった。

しかし没する前年の昭和十一年十二月には、昔の門弟たちの援助もあって念願の自分の家を持つことができた。その喜びも束の間、翌年一月二十二日、新居披露の祝宴を盛大におこなった翌日、腸チフスにかかり入院、三十日には危篤に陥った。このことをラジオのニュースで知った虚子はただちに病院へ駆けつけた。まだ意識があって、ふたことみこと言葉を交わすことができたが、翌二月一日、碧梧桐は六十五歳の生涯を閉じた。

虚子は三月発行の「ホトトギス」に、「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と前書きして、


たとふれば独楽(こま)のはぢける如くなり


と詠んでその死を悼んだ。


つづく



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