2021年1月4日月曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ10)「この情景をそのまま文章にしたのが「九月十四日の朝」で、九月末に発行された「ホトトギス」(第五巻第十一号)に掲載された。口述筆記した虚子の腕もあるが、死を前にしてこれほど清澄な心境で綴られた文章は珍しい。人は死の寸前、安らかな気持ちになり看取る者をほっとさせるといわれているが、子規の場合もこの時がそれであったかもしれない。」     

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)「「柿二つ」は虚子が子規の晩年の数年間をその死まで描いた小説で、大正四年一月から四月まで朝日新聞に連載された。この年、数えで四十二歳の虚子は大阪毎日新聞「俳句欄」の選者も務めており、『俳句と自分』や『子規居士と余』を相次いで刊行するなど忙しい年であった。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ10)

3 九月十四日の朝


子規が死を迎える数日前、九月十三日の宿直は虚子であった。その晩子規は久しぶりに熟睡できたのか、翌十四日は朝から機嫌がよく甲州葡萄を十粒ほど食べ、虚子にもすすめた。それから子規は、寝ついてから初めてと思えるほど安らかな気持ちになって庭を眺め、虚子と須磨保養所にいた頃のことなど話した。


其処へ納豆々々といぶ売声が聞えた。其れは今迄に一度も聞えた事のない裏門に当つてであつた。

「裏門に納豆売が来たよ。これは珍らしい。」と彼は嬉しさうに言った。「買つてお遣りなさい。」

母親が其れを買ひに出るのを待兼ねるやうにして又言った。

「早くお呼びなさい。さうせんと行つてしまふ。」

漸く母の声で呼びとめて其れを買つてゐる容子なので彼は安心したらしく黙つた。

「納豆をお食べるのか。」とKは怪しんで聞いた。

「いゝえ、私は食ひはせんけれど此裏門の方には滅多に物売が来んけれな、たまに来た時は奨励の為め買つて遣るのよ。折角此処迄来て誰も買ふものが無かつたら一度で懲りてしまふからな。」

其朝の安静は尚ほ暫く続いた。彼は一つ筆記して貰ほうか、と言ってKに文章を筆記させた。其れは不浄の掃除から納豆を買はせる迄の其朝の記事であった。

「題は何とせうかな。」と筆記を終へてからKは聞いた。

「九月十四日の朝、とでもしておくれ。」

母や妹も今朝の珍しい平穏な容態に安心して茶の間で落着いた朝食を取つた。(第二十回 死)


この情景をそのまま文章にしたのが「九月十四日の朝」で、九月末に発行された「ホトトギス」(第五巻第十一号)に掲載された。口述筆記した虚子の腕もあるが、死を前にしてこれほど清澄な心境で綴られた文章は珍しい。人は死の寸前、安らかな気持ちになり看取る者をほっとさせるといわれているが、子規の場合もこの時がそれであったかもしれない。

翌日、看護当番だった碧梧桐も子規に言われるまま、枕頭にあったこの文章を一読した。子規は弱々しい声で「余程長く書いた積りだったが」といった。その頃の子規はたった原稿用紙四枚程度の文章を口述するのも長く感じられるほど、弱り切っていたのである。

死の前日の十八日は朝から容態が悪く、十時過ぎに碧梧桐が呼ばれた。そして四か月程前の五月十五日と同じように、子規が絶筆を書くのを介添えすることになった。その時の模様は碧梧桐が「君が絶筆」(『子規全集』別巻二)に詳しく書いているが、・・・・・


(略)


・・・・・十一時頃、碧梧桐が陸家の電話を借りて虚子に急を知らせたが、虚子が来たのは子親が昏睡状態にはいってからだった。

そんなわけか「柿二つ」には絶筆を書く場面は出てこない。そればかりか虚子がこのことに触れるのは、昭和二十六年九月の子規五十年忌記念に刊行した『子規五十年忌雑記』(創元社)が初めてだ。その中で虚子は「九月十四日の朝」の口述筆記の話を記したあと、


九月十七日は碧梧桐の当番であつたが、その時辞世ともいふべき糸瓜の三句を認めたのであつた。筆力雄健少しも平常と異らなかった。


と書いているだけだ。

辞世の三句については同書の「子規の句」の解説で取り上げ、子規が好んで糸瓜を詠んだ例として『仰臥漫録』の明治三十四年九月二十一日に出てくる、


草木国土悉皆(しつかい)成仏

糸 瓜 さ へ 仏 に な る ぞ 後(おく) る ゝ な


を挙げている。前書きの「草木国土悉皆成仏」は心のあるもののみならず、心のない草木まであらゆる物が成仏するという「涅槃経」の一節を引いたもので、虚子は《あの糸瓜も仏になるのでないか、自分も仏になるのだ、どちらが先に仏になるか、自分の方が先きに仏にならう、おくれは取るまい、といふ句》だと解説している。


つづく



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