2022年5月31日火曜日

小池晃議員、怒る! 「後ろの官僚さん わらってるんじゃないよ! アナタたち! 笑うって場所じゃないでしょ! 無責任だよ!」(2022.5.31参院予算委員会/小池晃議員)



 

〈藤原定家の時代011〉仁安2(1167)年 平重盛に諸道の海賊追討の宣旨 平清盛、太政大臣を辞任(但し、以降も直接政治に関与続ける) 平盛子(12、清盛娘、故摂政基実室)従二位

 


仁安2(1167)年

5月10日

・権大納言平重盛に諸道の海賊追討の宣旨が下る(「兵範記」同日条)。盗賊取締の権限で、郎等を宣旨の使いとして全国に派遣可能となる。

仁安二年五月十日 宣旨

聞くならく、近日東山の駅路(えきろ)に緑林(りよくりん)の景競ひ起き、西海の州渚(しゆうしよ)に白波の声静らず。或は運漕の租税を奪取し、或は往来の人民を殺害す。之を朝章(ちようしよう)に論ずるに、皇化無きがごとし。宜しく権大納言平卿に仰せて東山東海山陽南海道等賊徒を追討せしむべし。

                           蔵人頭権右中弁平信範奉


東国の駅路に出没する緑林(山賊)や、西海の州渚に出没する白波(海賊)が、運搬中の租税を奪い取ったり、往来中の人民を殺害しているという。これを朝廷の憲章に照らし合わせてみるに、天皇の威が全くないもののごときであるゆえ、「権大納言平卿」(重盛)に命じて、東山・東海両道の山賊、山陽・南海両道の海賊を追討するように命じる、という内容。

当時、諸国で賊徒の蜂起がとくに問題になっていた形跡はない。かつて清盛に与えられていたであろうものと同様な宣旨が、改めて重盛に宛てて出されたものと見られる。

国家軍制の統括責任者としての地位を、後継者重盛にとどこおりなく引き渡すためにとられた措置。

賊徒の追討は、12世紀初頭に正盛(清盛の父)が白河院に登用されて以来、平氏起用の伝統的な方式。しかし、これまでの賊徒追討が特定の対象や地域に限定されたものであったのに対し、今回は、「東山・東海・山陽・南海道等の賊徒」というかたちで、広域的に、かつ対象を特定しない追討権が認定された。

しかし一方、この後、寿永2年(1183)5月まで10次にわたって平氏の追討使・追捕使補任が知られるが、このような頻繁な補任の更新は、この段階において、国制上の軍事統率権が依然として院・天皇権力に掌握されていたこと、平氏の軍事・検断の権原(けんげん)が安定したものではなかったことを示している。とりわけ、その軍事・検断権行使が追討使・追捕使補任による国衙在庁指揮を内容としたとすれば、院・天皇権力との政治的提携が必要不可欠の条件であったことは否定できない。「よろしく権大納言平卿に仰せ」との宣旨の文言は、一面に成り上がりながら、他面で王朝国家の傭兵隊長としての性格を脱しきれぬ平氏権力の限界を示している。

この宣旨を契機として、平氏の軍制は、諸国大番役の制と結合して展開し、とくに東国に対しても平氏の家人組織化が進められた。

5月15日

・興福寺別当恵信、大僧都宗覚などを流罪とする。

前別当の恵信が別当の尋範(じんぱん)を殺害しようとして押しかけ、合戦の末に禅定院・大乗院・喜多院などの堂舎が焼き払われる。

5月17日

・平清盛、太政大臣を辞任。政界からの形式的な引退、重盛に清盛の地位を譲ることを意味している。大功田として播磨印南野以下の所領与えられる。藤原忠雅(長女婿・左大臣兼雅の父)が太政大臣となる。

翌年には病気で出家していることから、体力の衰えを自覚していたと思われ、白河天皇が早くに位を堀河に譲ったり、摂関家の忠通が早くに基実に摂関を譲ったように、自己の確立した立場を後継者に譲ろうとしたものと考えられる。

7月11日

・九条兼実、「近日天下天変怪異、勝計すべからず」と記す(『玉葉』)。

7月20日

・後白河上皇、新造の山科殿に移る。 遠江守平信業(のぶなり)に長門国を与えて造営させる。

閏7月14日

・後白河上皇、罹病。御かふれ事=腫物。

閏7月21日

・蔵人頭平信範、清盛邸を訪れる。

「院に参り、法勝寺(ほつしようじ)荘々訴えの事を奏す。次に大相国(だいしようこく)に参る」(『兵範記』)。

8月

・「太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合」、参加歌人24人、判者は太皇太后宮前大進藤原清輔。主催者平経盛は平清盛弟。

8月1日

・平宗盛(21、時子の長子)、参議に任命。その後右大将・権大納言などを経て、異腹の長兄重盛が没した治承3(1179)年には嫡子の地位を継承。

8月10日

・清盛の太政大臣の功労として、播磨国の印南野(いなみの)、肥前国の杵島(きじま)郡、肥後国御代郡の南郷・土比郷などを「大功田(こうでん)」として子孫に継続して知行することを認めており(『公卿補任』)

8月29日

・蔵人頭平信範、清盛邸を訪れる。

「内に参る。次に殿下に参る。次に大相国に参る。次に院に参る。所々において条々を申す」(『兵範記』)。

翌日条にも「大相国」(清盛)に意見を求め、五節舞姫を献ずべき公卿や受領などが決まっている。

9月3日

・平清盛、厳島参詣に向かう。

9月18日

この日付け宗盛の自筆書状

おほいとのの申せと候。なりつなの申候みののくにのおほみのまきのこと、いそぎ申させおはしまして、じけのくだしぶみ、なりつなにたぶべく候。なりつながりとこそうけたまはり候へと申せと候に候。あなかしく

(仁安二年)九月十八日                   宗盛

右兵衛督


この文書には「宰相中将 済綱(なりつな)申 麻続(おみ)牧事」という受信者のメモがあり、宰相中将宗盛が藤原済綱の訴える美濃国の麻続牧について右兵衛督(平時忠)に伝えた書状と知られる。

「おほいとのの申せと候」とあるのは、「おほいとの」(大臣殿)の命令によってこの書状が記されていることを語っており、宗盛に命令を与えうる大臣は清盛以外には考えられないことから清盛の御教書といえる。平時忠は院の伝奏を勤めているので、清盛が済綱の訴えを聞いて院に頼み込んだものと考えられる。

清盛は院を動かしたり、院からの要請に沿って動いている。"

9月21日

・後白河上皇・女御平滋子、熊野参詣へ出発。平重盛・宗盛・知盛ら供奉。10月12日、熊野より還御

9月26日

・地震あり。

9月27日

・五条内裏、焼失。

10月21日

・この日の新日吉社での競馬には清盛が上皇に扈従。

11月6日

・九条良通、誕生。兼実の長男、のち内大臣、母は藤原兼子、文治4年2月20日没(22)。

11月18日

・平盛子(12、清盛娘、故摂政基実室)、高倉天皇の准母とされ従二位叙任、准三后の宣下うける。

12月

・平重盛、「日来所労」「昨今不快」により、9日の東宮の御書始(ごしよはじめ)には東宮大夫(だいぶ)の身でありながら出席せず、18日には大乗会(だいじようえ)の上卿(しようけい)になっていたのを交替する。

12月13日

・平宗盛・平時忠(41)、従三位に叙任。

12月18日

・八十嶋祭。乳母藤原邦子(藤原邦綱娘)が使を務める。

12月23日

この日、清盛は除目・叙位・僧事について、法皇から意見を求められ、「御定」が決まる(『兵範記』)。

清盛は、朝廷の公事や行事そのものにも直接関わっており、「権門」としてその存在に重みをなしている。

12月24日

・正三位・前左京大夫藤原顕広(54、定家の父)、俊成と改名。


つづく

食品値上げ、年1万品目突破も 6月以降、規模が拡大(時事); この夏の食品値上げが春を超える規模で進む見通しです。食品メーカーは6月1日以降も続々と値上げを実施。 帝国データの担当者は「『値上げの夏』どころか『値上げの秋』も来る可能性がある」と話す。   

2022年5月30日月曜日

鎌倉、長谷寺の紫陽花と花菖蒲 紫陽花はまだ全てが咲き揃っていない 花菖蒲は既に見頃 2022-05-30

 5月30日(月)、はれ

今日は5/23(月)に次いで一週間ぶりに長谷寺へ。

アジサイの咲き具合、期待値からするとやや低め。まだ咲き揃っているとは言えない状況。去年よりは遅い。

花菖蒲はもう見頃。五つの筏のうち三つは満開。


















〈藤原定家の時代010〉仁安2(1167)年 定家(6)紀伊守 後白河上皇(41)、新造法住寺殿(御所)に移る(清盛の後援を得て、後白河の院政は本格的に始まる) 藤原俊成(54)正三位 清盛(50)従一位太政大臣     

 


〈藤原定家の時代009〉永萬2/仁安元(1166)年 藤原俊成(53、定家の父)従三位 藤原成範・平頼盛(忠盛五男)従三位 後白河上皇(40)第4皇子憲仁親王(6、後の高倉天皇)を皇太子 平時子(42)二位、平滋子(25)三位 平清盛(49)内大臣 藤原定家(5)従五位下 より続く

仁安2(1167)年

この年

・藤原定家(6)、紀伊守に任ぜられる。季光を定家と改める。

1月
・平重盛、 従ニ位に叙任。
・平時忠(時子の弟)、右大弁に昇任。
清盛の武門平家には弁官経験者がいなかったから、政治実務に堪能な彼の存在は、特別な意味がある。2月に参議入り、右衛門督(かみ)を兼ね、翌仁安3年7月には検非違使別当、8月には権中納言になる。清盛の強力な後押しによるものと思われる。

・天台座主の快修(かいしゆう)、山門から追われる。

1月19日
・後白河上皇(41)、新造法住寺殿(御所)に移る。平清盛の義妹小弁の君を寵愛し、女御とする(のちの建春門院)。
院の年預(ねんよ)の三位藤原俊盛に讃岐・周防二ヵ国の知行国を与えて新御所を造営させる。この後、法住寺の御所は後白河院政の政治的・文化的な基地となってゆく。
20日の皇太子の朝覲行啓(ちようきんぎようけい)はあたかも朝覲行幸の儀式のようであったという。
28日には六条天皇の朝覲行幸があって、叙位・除目が法住寺御所で行われている。
清盛の後援を得て、後白河の院政は本格的に始まる。
院政の構造
政治の裁断権は基本的には院が握り、その院の政治を摂関が文書の内覧を通じて助言を行う形で補佐し、武家の平氏が武力を通じて朝廷を守護する形で補佐した。文においては摂関が、武においては武家が院を補佐する体制が確立した。
朝廷の政務を支えたのは陣定(じんのさだめ)や議定などの公卿会議のメンバーであり、院の諮問を受けて重大事の審議にあたったが、その決定はあくまでも院の決定の参考にとどまった。メンバーは天皇の後宮を輩出した閑院流(かんいんりゆう)の三条や徳大寺、また花山院などの英雄の家の貴族や、白河・鳥羽院の時代に実務官人から公卿に昇進して家を興した勧修寺流や日野流などの名家の貴族である。さらに通常の政務では、蔵人が重要な役割を果たす。

蔵人と伝奏の役割
諸官司からの訴えは蔵人に集められ、その奏聞を受けた院が裁断する仕組みになっており、勧修寺流や平氏の「日記の家」と称される家の出身の官が蔵人の多くを占めていた。蔵人の奏聞を院に取り次いだのが伝奏であって、これには蔵人や弁官を経た官人や、院の乳父の家の人々、さらには芸能などに関わって頭角を表した人々など、院近臣(いんのきんしん)が任じられた。彼らは院政の経済的基盤である膨大な荘園や知行国を足場にして、院の近習や北面の家を形成していた。
1月20日
・平滋子(26、皇太子憲仁親王(後の高倉天皇)の実母、「東の御方」と呼ばれる、時子の妹)に女御の宣下。滋子を媒介して上皇と清盛との信頼関係がいっそう大きくなる。
1月28日
・平頼盛(36)、正三位に叙任。後白河上皇(1127~92)院中に、執事として藤原隆季が見える(「玉葉」同日条)。

1月28日
・藤原顕家(54、この年12月、俊成に改名)、正三位に叙される。12月、それまで身を置いていた薬室家を離れて本流の御子左家に復し、名も顕広を俊戌と改める。10歳で父俊忠に死別した俊成は、薬室家の「猶子」となって40余年、公卿にまで昇ったことがこの決断を促した要因であった。
2月3日
・山門から追われ、院の壇所にいた天台座主の快修、山門内の不和や東塔・西塔の合戦に対して上皇から何の沙汰もないことに不満をもらして逐電。

2月7日
・平維盛(重盛の長子、9)、従五位下・美濃権守となる。
生年については諸説あるが、『玉葉』承安2(1172)年2月21日条に14歳とあり、平治元(1159)年生まれとなる。
この日、東宮のこの年の御給(ごきゅう)で従五位下の位に任じられた。朝廷には御給(年官・年爵などとも)という制度があった。それを与えられるのは院・宮などで、これを給主(きゅうしゅ)という。給主は自己に与えられた官・位を希望者に売り、買った者をそれぞれ任官・叙位させた。売官制の一種である。この時の売り主である東宮は、後白河と平滋子の間に生まれた憲仁親王である。五位以上の官人が貴族であるから、維盛は9歳にして貴族社会デビューを果たした。
その後、仁安4年正月5日従五位上、翌嘉応2年12月30日には右近衛権少将に任じた。
2月11日
・平清盛(50)、武士で初めての従一位太政大臣に任命。子の平重盛(30)は権大納言に、平時忠(38、時子の弟)は参議兼右兵衛督に任命。藤原忠雅、内大臣(右近衛大将)に任命。
日本秋津嶋はわづかに六十六ケ国、平家知行の国三十余ケ国、すでに半国に越えたり。その他荘園田畠いくらというに数を知らず」(「平家物語」)。

2月11日
・久我通親、右近衛権少将に任ぜられる。

2月13日
・後白河院、熊野精進屋に入御。19日、熊野に御幸。3月13日、熊野より還御

2月15日
・法印明雲、天台(延暦寺)座主となる。快修と座主の座を争う。

2月23日
・平清盛、厳島神社参詣に出発。自ら書写した般若心経を奉納(法華経28・無量義経・観普賢経・般若心経・阿弥陀経、全32巻)。平清盛、平頼盛、盛国・盛信・重康(郎等)が署名。
清盛の厳島行きは、太政大臣に就任するという所願が成就したことを厳島社に伝えるため。厳島神社に奉納されている般若心経の奥書には「仁安二年二月二十三日 太政大臣従一位平朝臣清盛書写之」とあり、出発直前に書写され持参したものとわかる。「仁安元年十一月十八日」の日付の追加された厳島願文もこの時に持参した。 

4月6日
・清盛、厳島から戻り、13日には高野山に参詣(かつて清盛を厳島参詣に向かわしめた夢は、この高野山で見たもの)。


つづく

(記者解説)空文化する「専守防衛」 核心避け、「敵基地攻撃」呼び方論争 編集委員・佐藤武嗣(朝日);「米軍幹部は「政策や装備で論じるべきは目的や運用方法なのに、日本人は核心部分ではなく呼び方で論争する」と言う。本質の議論を避け「ゴールポストを動かすしかない」と言い回しでごまかす…専守防衛を掲げつつ理念を形骸化させるのも「ゴールポストを動かす」一環だろう」   

 

2022年5月29日日曜日

維新・石井章参議院議員の舌禍(「顔で選んでくれれば一番」)をまったく気にしていない! → 維新・松沢成文氏「還暦超えたおじいさんも、若い美人系の女性候補もいる」政党の多様性アピール(日刊スポーツ) / 日本維新の会大久保候補 「私は顔で売ってるつもりはないので褒め言葉かなと思ってる」 / 「顔で選べば1番」発言の維新・石井議員が釈明「『いい挨拶だった』と受け取っていると思う」(FNN);「また、外見について言及することが駄目だと言うのであれば、選挙の際のポスターの写真掲載をやめるべきだとの持論を展開した」 / 「うちの候補者の顔が一番良い」発言の石井議員 批判受け撤回「土下座しろって言うなら土下座しますよ」(TBS) / 維新・石井章参院議員が立候補予定者を「顔が一番良い」発言 藤田幹事長が厳重注意(TBS) / 「顔で選べば1番」維新石井氏が発言 女性5人出馬の参院選栃木選挙区巡り(下野新聞)        



 

コロナ禍で30時間に1人の億万長者が誕生し、100万人が貧困に追いやられている (ハフポスト日本版) / 573人が新たに大富豪 コロナ禍で貧富の差拡大―NGO報告(時事);「上位10人の大富豪だけで、世界全体の下位40%に当たる31億人よりも多くの資産を占有しているという。  過去2年間における大富豪の資産総額の増加額は、それ以前の23年間の合計を上回った。また、コロナ禍によって製薬業界で新たに40人が大富豪となった。」    

〈藤原定家の時代009〉永萬2/仁安元(1166)年 藤原俊成(53、定家の父)従三位 藤原成範・平頼盛(忠盛五男)従三位 後白河上皇(40)第4皇子憲仁親王(6、後の高倉天皇)を皇太子 平時子(42)二位、平滋子(25)三位 平清盛(49)内大臣 藤原定家(5)従五位下        

 


〈藤原定家の時代008〉永萬2/仁安元(1166)年 木曽義仲(駒王丸)元服 備後国大田荘の立券 平時忠の三事兼帯 清盛、正二位 人々の不安 摂関家領の横領 より続く

永萬2/仁安元(1166)年

8月6日

・地震あり。

8月27日

・「仁安」に改元。

8月27日

・藤原顕広(53、俊成)、従三位に叙せられ、念願の公卿の地位に就く。翌年12月24日、本流に復し、俊成と改名。

8月27日

・藤原成範・平頼盛(忠盛五男)、従三位に叙任。九条兼実(18)、左大将に任命。院近臣の藤原成親、参議。

忠盛五男頼盛:

各国守を歴任。さらに越前・尾張・紀伊・加賀・佐渡の知行国主。

仁安元年太宰大弐(だいに)となり、同年8月従三位に進む。翌々年参議。寿永2(1183)年正二位・権大納言に昇る。清盛の弟中でもっとも栄進した。

頼盛は清盛とそりが合わず、一門中に少なからぬ不協和音を奏でる。平家の治承3年クーデタでは、反対派公卿の大量解官(げかん)のなかに頼盛の右衛門督(うえもんのかみ)も入っており、彼を六波羅に討つとの噂さえ流れたほど。

清盛は忠盛の長男で嫡子であるが、実子ではなく白河院の落胤。

一方頼盛は『源平盛衰記』が「当腹ノ嫡子」と書く(巻一「忠雅播磨米」)。「当腹」とは嫡妻(むかいめ、正妻)の子という意味で、忠盛の正室になった修理大夫(しゅりのだいぶ)藤原宗兼の娘宗子(そうし)が生んだ子である。頼盛と母を同じくする兄に家盛がいたが、久安5年2月天折。

母の宗子は白河・鳥羽院の代表的近臣、藤原顕季・家成らの縁者であり、頼盛自身も後白河院政期、院近臣や鳥羽と美福門院の間に生まれた八条院暲子(しょうし)に代表される女院勢力と政治的に連携していた。

彼の妻は、八条院の乳母と法印寛雅(かんが、鬼界島に流された俊寛僧都の父)の間に生まれた娘である。

早くに母を亡くし後ろ盾をもたない清盛に比べ、頼盛は正妻の子であり十分なバックアップがあった。もし清盛が皇胤でなければ、また速やかな昇進を果たしていなければ、頼盛が一門の棟梁になったかもしれない。それが頼盛と彼の周辺にとっての不満のたねであった。

9月1日

・藤原定家の伯父快修、天台座主に還補。

9月4日

・後白河院、日吉社に御幸。5日、還御。9日、熊野精進屋に入御

10月5日

・後白河院、熊野より還御

10月10日

・後白河上皇(40)第4皇子憲仁親王(6、後の高倉天皇)を皇太子とする。平清盛、東宮大夫に任命。東宮の亮には清盛の弟教盛(のりもり)が就任。九条兼実(18)、皇太子傅(ふ)に任命。権大夫(ごんのだいぶ)に邦綱、亮(すけ)に教盛(のりもり)、権亮(ごんのすけ)に藤原実守、大進(だいしん)に知盛、権大進に藤原光雅(みつまさ)が任じられる。

東宮坊の主要な官職は傅の摂関家の九条兼実以外は、平氏一門が占め、さらに乳母には藤原邦綱の娘と重盛の室が選ばれ、重盛は乳父(めのと)となった。21日には清盛の妻時子が二位に、滋子が三位に叙される。こうして東宮を平氏が支える体制が生まれる。

『兵範記』が語る当日の模様。

後白河上皇と同宿していた憲仁は、東山の法住寺殿から上皇とともに東三条邸に向かった。殿上人30余人が前駆となって、その後を13人の公卿が行進し、続いて院の車とその護衛の重盛が行き、さらに検非違使、五位・六位の30余人が続く。次に憲仁の行列となり、前駆18人に続く公卿7人の最後尾には清盛が位置し、憲仁の車には母の滋子(しげこ)が同乗、右中将藤原実守(さねもり)が後に控え、検非違使らが続き、最後尾は摂政の行列であったという。

21日、兼実、左大将に辞任。11月12日兼実、右大臣に任命。

平教盛について、『源平盛衰記』には「(清盛は)兄弟多クオハシケル中ニ、コトニ此人ヲバ糸惜(いとほしく)オボシテ、一日モ見ネバ恋(こいし)クヲポツカナ(覚束な)ケレバトテ、六波羅ノ惣門ノ脇ニ家ヲ造テ居(すゑ)置給ヒタレバ、異名ニ門脇宰相卜申ケル也」(巻六「丹波少将被召捕」)とある。仁安元(1166)年10月10日、清盛が憲仁親王の東宮大夫に就任した際、次官たる亮には教盛が就任した。清盛が自分の兄弟と上司-下僚の関係になった例はほかになく、この人事は清盛の強い希望によって実現したと考えられる。

忠盛の四男教盛(のりもり):

久安4(1148)年従五位下、保元・平治の乱をはさんで国守などを歴任。応保元(1161)年憲仁(のりひと)親王(後白河第四皇子)の立太子を企てた陰謀に関係して官職を解かれる。翌年許され能登守・内蔵頭(くらのかみ)・東宮亮(とうぐうのすけ)を経る。仁安3(1168)年、憲仁が高倉天皇となって即位すると蔵人頭、そして参議になり正三位に進む。母は少納言藤原家隆の娘で、経盛の母同様、忠盛との関係は長続きしなかった。能登・越前の知行国主になっている。養和元年権中納言、翌寿永元(1182)年従二位、同2年正中納言に進む。

検非違使平盛国(伊勢平氏)、東宮主馬署の首(かみ)兼任を命じられ「主馬判官」と呼ばれる。

10月21日

・平時子(42)が二位、平滋子(25)が三位に叙任。

11月3日

・後白河院、新たに鳥羽離宮に北殿を造営してこの日御幸。

11月4日

・松殿基房、左大臣辞職。

11月11日

・平清盛(49)、内大臣に任命。清盛が美作の知行国主、平宗盛が美作守となる。藤原経宗、左大臣。九条兼実、右大臣。

11月13日

・久我通親、正五位下となる。

11月16日

・清盛の内大臣拝賀の儀式。前駆は30余人(13人の内殿上人、8人の院殿上人、10人の諸大夫に本家の勾当(こうとう)2人)、9人の公卿がつき従い、上皇・東宮・天皇・中宮・摂政邸を順々に回って、大波羅に戻ると、政所の吉書始(きつしよはじめ)めが行われ、侍所始めも行われた。

任大臣の拝賀の日に蔵人頭の藤原朝方(ともかた)と藤原実家が解官される。2人とも院近臣。解官理由は、任大臣の節会の直後に行われ五節(ごせち)の節会に出席しなかったというもの。節会不参は「希代の事」と称されており(『兵範記』)、清盛の内大臣就任への不快感の表明とも考えられる。

11月18日

・摂関家の基実(もとざね)の北政所となった盛子(清盛娘)、憲仁の准母として従三位となり、准三宮を宣下

11月21日

・平資盛、従五位下に叙任。平維盛より先。

12月

・宇佐宮大宮司の宇佐公通(きんみち)、大宰権少弐に任じられる。更に、安元2年(1176)には対島守、さらに豊前守などの受領になる。

12月1日

・京都で大火。

12月2日

・平清盛の辞任により、平重盛(29)が春宮大夫に任じられる。

12月22日

・皇太子憲仁親王、着袴の儀。

12月22日

・延暦寺五仏院など諸院、焼失。

12月30日

・平治の乱で功労のあった源頼政(61)、内の昇殿(皇居殿上の間の参内)を許される。

12月30日

・平資盛(重盛の子)、越前守となる。

12月30日

・藤原定家(5)、皇后宮の御給により従五位下となる。貴族社会入り。光季を季光と改める。

定家は、長寛元年(1163)の「皇后給」の「給」が当てられる(定家は皇后に配分された長寛元年分の年給の未使用分をこの年仁安元年に適用されて五位となる)。定家の給主の皇后は、藤原公能と定家の叔母豪子(ごうこ)との間の女の忻子(きんし)。この年の皇后宮大夫は忻子の兄弟の徳大寺実定、更に嘉応2(1170)年には俊成が実定より譲られ大夫となる。徳大寺家との強い繋がり。徳大寺実定は和歌・管弦に秀でた風流人で「平家物語」「古今著聞集」にも登場。

年給制度:

有力貴族には毎年官位申請する権利があり、申請者の貴族(給主)は官位についた人物より任料を取得できる。

公卿に昇るコース:

①近衛少将・中将~参議・中納言・大納言に至るコース(定家)。

②蔵人・弁官~参議・中納言に至るコース(実務官人)。

③諸国の受領~三位に至るコース(諸大夫)。


つづく

【驚愕】生活保護申請者の事実を歪め謝罪もしない杉並区の「不誠実な対応」と「黒い闇」(週刊女性PRIME) / 【実録】生活保護申請者の「扶養照会拒否の申出書」を受け取らず、照会を強行した杉並福祉事務所の冷酷(週刊女性PRIME) /  【衝撃発言】生活保護申請で扶養照会拒否の申出書を受け取らなかった、杉並区の呆れた開き直り(週刊女性PRIME)         

2022年5月28日土曜日

北鎌倉散歩 浄智寺 オトギリソウ ユキノシタ アジサイ(まだ少し) トキワツユクサ 長寿禅寺(特別公開中) アジサイ(まだ少し) 

5月28日(土)、はれ
今日は、土曜日だけど北鎌倉散歩。ただ、東慶寺は境内で土木工事があるとのことで、今日28日(土)~30日(月)は立ち入り禁止となっていた。
なので、今日は浄智寺と特別公開中の長寿禅寺を参拝した。

▼浄智寺 このお寺は落ち着くいいお寺です。   



▼オトギリソウ 自己流調査なので自信はないが、、、


▼ユキノシタ そこここに夥しく

▼アジサイはまだ少し


▼トキワツユクサ 

▼長寿禅寺 アジサイはまだほんの少し
初夏の日差しを受けたモミジが眩しい
きれいに整えられた境内、気持ちがいい






トランプ前大統領「教師に銃を」 全米ライフル協会の年次総会で演説(テレ朝)   

国公立大や公的機関の研究者 来年3月に約3000人が大量雇い止め危機 岐路の「科学立国」(東京)   

 

〈藤原定家の時代008〉永萬2/仁安元(1166)年 木曽義仲(駒王丸)元服 備後国大田荘の立券 平時忠の三事兼帯 清盛、正二位 人々の不安 摂関家領の横領        

 


〈藤原定家の時代007〉長寛3/永萬元(1165)年 平重盛参議 六条天皇(2)即位 二条天皇(23)没 額打論 清水寺炎上 平清盛権大納言 憲仁(5、のちの高倉天皇、生母平滋子)親王 より続く

永萬2/仁安元(1166)年

この年

・木曽義仲(駒王丸)、京都の石清水八幡宮にて元服。義仲と名乗る

・平清盛、安芸国知行国主となる。志通原荘を厳島神社領に(現地支配を神主佐伯景弘、下司・地頭に寄進主体の在地領主)、壬生荘を憲仁親王(高倉)・建春門院へ寄進。

・藤原定家の妻、藤原実宗女(為家母)誕生

1月
・平重衡、備後国大田荘を御厨領として後白河上皇に寄進。本家、後白河上皇(6丈布150反上納)。預所、平重衡(米1800石以上を獲得)。下司職、橘氏(在地領主)。
備後国大田荘は清盛の子の重衡から後白河院領に寄進され、重衡が預所に任じられる。立荘を命じた院庁下文の正文は清盛によって進められている。清盛がこの荘園の領家、実質の領主であった(「高野山文書」『平安遺文』)。
「後白河院庁下文」によると、同荘は「太田並びに桑原両郷の荒野山河等を、尾張守平重衡(清盛の五男)が開発し、これを後白河上皇に寄進し、これをうけた上皇が院領荘園として立券した」いわゆる寄進型荘園である。
太田庄の地には本来の在地領主とみられる橘兼隆・同光家があり、実際の開発領主であった彼等が、全盛期の平氏一門の一人である重衡に所領寄進をしたことにより、重衝の領主権が成立した。この年(永万2年)には重衡はまだ11歳であるから、実際には平氏一門に寄せられた所領ということになる。平氏は、この所領保有をさらに確実なものとするために、この荘の預所職を重衡の手に留保して、本家寄進を行い、院領荘園としての立券が果された。
全盛期に近い平氏一門といえども、その所領荘園を確保するためには、上皇の権威を必要とし、上皇もまた本家寄進をうけることによって、平氏と利益をともにし得た。

1月12日
・藤原顕広(53、俊成)、左京大夫を辞し、成家を侍従に申し任ず。
2月4日
・地震あり。10日も地震あり。

2月26日
・行願寺を供養する。
3月
・平時忠(37、清盛妻時の弟)、本位に復帰。
二条天皇没後、清盛が後白河との同盟に方針を転じ、後白河院政が復活したため復権できた。

3月29日
・平治の乱の流人源師仲・藤原惟方、召還。師仲は同年10月21日正三位に復し、翌仁安2年1月28日従二位に叙任。召還後は終生官職につかず。
5月
・「中宮亮重家朝臣家歌合」。参加歌人28人、判者は正三位・前左京大夫藤原顕広(54、後の俊成)。
6月
・藤原隆房、右近衛少将となる。
・平時忠(37、清盛妻時の弟)、蔵人となり、五位蔵人・弁官・検非違使佐を兼ねる(三事兼帯)。
宮中(蔵人)と太政官(弁官)双方の実務に関与し、司法・警察・京中の民政(検非違使)をも握る広汎な権限をもつので、才幹ある人に限られ、極めたる栄誉とされた。桓武平氏高棟の系統全体では三事兼帯の人物を輩出する流れもあったが、時信(時子・時忠の父)直系では最初である。

6月6日
・平清盛(49)、正二位に叙任。

6月20日
・地震あり。
7月15日
・平重盛、中納言

7月15日
・平頼盛(35)、太宰大弐に任命(従三位・非参議)。10月2日、異例の現地赴任。娘を太宰府府官の原田種直に嫁がせる。

7月23日
・人々の不安。
『春日権現験記絵』巻11の3段に、この日、春日の一の鳥居の辺に札が立てられ、そこには春日の三宮が「希有(けう)なる幼き人に世を領(しり)て」と言い残し春日社を去っていったという「夢」が記されていたという。天下の政が不法なために、賀茂大明神が日本国を捨てて他所に移っていったという夢を見た人もいた。

7月25日
・応天門が倒壊する

7月26日
・摂政藤原基実(24、忠通の嫡子。二条天皇の関白、六条天皇の摂政。九条兼実の長兄)、没。
嫡男基通(7)は若年の為、27日、弟松殿基房(23、兼実の次兄、院近臣)が摂政に就任。

清盛は、摂関家領のうち摂政・関白の地位そのものに付属する「殿下渡領」(でんかのわたりりよう、興福寺・法成寺・平等院・勧学院・鹿方・方上)のみを基房に伝領させ、氏長者領をはじめとする大部分の家領及び邸宅などを、すべて近衛家に相続させ、しかも基通の幼少の間は、これを基実の未亡人としての盛子(清盛娘、北白川政所、11)があずかるということとした。そして、清盛が盛子の後見人となり、摂関家領の大部分を事実上支配する。
これに対して上皇は、表面上はこれを支持。
そもそも、この案は、中宮亮の藤原邦綱(くにつな)が清盛に提案し、『愚管抄』は、これ清盛が「アダニ目ヲサマシテ聞キ喜」んだと伝えている。
こうして摂関家領の管轄に成功した清盛は、27日、摂関家の家司(けいし)平信範(のぶのり)に三河国志貴(しき)荘を知行するよう家人(けにん)安芸守藤原能盛(よしもり)を通じて伝える(『兵範記』)。薩摩・大隅・日向三国にわたる大荘園の島津荘は邦綱の知行に帰し、のちに邦網の娘の大夫三位が知行している。
しかし、治承3年(1179)6月18日白川北政所平盛子(24)没後、所領(もと摂関家所有)を後白河院が没収し、その倉預かりに前大舎人頭平兼盛を任命。清盛の後白河院幽閉を招く一因となる。             

のち、平家一門と後白河院の対立から、治承3(1179)年11月15日、基房は失脚、出家を条件に備前へ配流。 

摂関家領の横領
「さる程に其年(仁安元年)の七月二十六日 俄にこの摂政のうせられにければ、清盛の君こはいかにといふばかりなきなげきにてある程に、・・・邦綱が清盛公が許にゆきて云けるやうは『この殿下の御跡の事は、必しもみな一の人につくべき事にても候はぬなり。かたがたにわかれてこそ候しを、知足院殿の御時の末にこそ一になりて候しを、法性寺殿ばかりこそ皆すべておはしまし候へ。この北政所殿かくておはします。又故摂政殿の若君も此御腹にてこそ候は子ども、おはし候へば、しろしめされんに僻事にて候はじ物を』と云けるを、あだに目をさまして聞悦びて、そのまゝに云合せつゝ、かぎりあることゞもばかりをつけて、左大臣にて松殿おはすれば、左右なき事にて摂政にはなされて、興福寺、法成寺、平等院、勧学院、又鹿田、方上など云所ばかりを摂録にはつけて奉りて、大方の家領鎮西のしまつ以下、鴨居殿の代々の日記宝物、東三条の御所にいたるまで惣領して、邦綱北政所の御後身にて、近衛殿の若君なるやしなひて、・・・」(『愚管抄』)


つづく

維新、参院選に猪瀬直樹氏擁立 現金受領問題で都知事辞職(共同) / こっそり消された維新の「猪瀬直樹罵倒ブログ」目玉候補・海老沢由紀氏の言葉が泣ける(日刊ゲンダイ) / カバン閉まらず都知事辞任から9年 猪瀬直樹氏が政界復帰へ維新から参院選出馬「最後のご奉公」(日刊スポーツ)



 

2022年5月27日金曜日

〈藤原定家の時代007〉長寛3/永萬元(1165)年 平重盛参議 六条天皇(2)即位 二条天皇(23)没 額打論 清水寺炎上 平清盛権大納言 憲仁(5、のちの高倉天皇、生母平滋子)親王     

 


長寛3(1165)年

5月

・この月の摂関家の政所下文では別当に美作守平宗盛と尾張守平重衡の2人の平氏一門が名が見える(『平安遺文」)。

5月9日

・平重盛(清盛の嫡子、28)、(二条天皇)参議に列する。

(清盛の嫡子)重盛:

久安6(1150)年31歳で六位蔵人、翌年従五位下に叙せられる。中務少輔(なかつかさのしょう)・左衛門佐(さえもんのすけ)、遠江守と歴任し、平治元(1159)年平治の乱で軍功をあげ、伊予守に遷任。『愚管抄』は、「重盛は敵に馬を射られたが、臆せず堀河の材木の上に弓を杖にして立ち、替わりの馬に乗っていたのも立派に見えた」とその勇姿を伝えている(巻五)。

応保(おうほう)3(1163)年正月従三位、長寛(ちょうかん)3(1165)年5月参議に列する。

仁安2(1167)年2月、父清盛が太政大臣に任じられると同時に、権大納言に昇る。同年5月10日、東海・東山・山陽・南海道の海賊追討使に補任されている。これは清盛の太政大臣辞任1週間前のことであり、国家軍制の統括責任者としての地位を、後継者重盛にとどこおりなく引き渡すためにとられた措置であろうか、といわれている。太政大臣辞任にともなって平家一門の公的代表、つまり氏長者も重盛に継承された。

仁安3年、清盛が出家入道し、さらにその翌年春、摂津福原に退いた。重盛は同年正月正二位に叙せられている。清盛に続いて憲仁の東宮大夫を務めたことへの賞としてで、先任者3人を飛び越えての昇進である。ところが、この時重盛も病によっていったん権大納言を辞任していた。彼は病がちだった。はっきりわかっている病名は脚気である。

清盛の福原への退去にともなって、六披羅の泉殿も重盛が引き継いだ。

重盛は、嘉応2(1170)年権大納言に返り咲き、すぐ二度目の辞任をし、さらにもう一度権大納言に復帰している。そして正大納言を経て、右近衛大将左近衛大将を歴任。安元3(1177)年には内大臣兼左大将となる。この間越前・丹後の知行国主だった。

6月4日

・地震あり。

6月5日

・「永萬」に改元。

6月13日

・広隆寺講堂を供養する。

6月17日

・二条天皇第2皇子順仁親王(2)を皇太子とする。

6月24日

・平季盛、丹後国国司に任じられる。

6月25日

・二条天皇(23)、病気のため譲位。皇太子順仁親王(2)、受禅。

7月7日

順仁親王、即位(第79代天皇、六条天皇)。

7月28日

・二条上皇(23)、没(誕生:康治2(1143)/06/17)。78代天皇。 

よき人は時世にもおはせ給はで、久しくもおはしまさざりける」(『今鏡』)

8月

・この月~翌年春迄に法橋顕昭「今撰和歌集」が成立。

8月7日

・二条天皇の葬儀で、延暦寺・興福寺僧徒間で額打論。9日、延暦寺僧徒、興福寺への報復の為、末寺の清水寺を焼払う。

二条の遺骸は香隆寺(こうりゆうじ)の東北の地の蓮台野(れんだいの)に葬られた。『顕広王記』は、その葬儀に出席したのは公卿9人と殿上人少々であると記し、『平家物語』の「額打論(がくうちろん)」「清水寺炎上」の章はこの葬儀の時に起きた事件に取材して、当時の政治と社会の動きを語っている。

葬送に際して墓所まで供をした南北二京の念仏の僧たちは、それぞれの寺の額を打つのを例としていたが、その際、東大寺・興福寺・延暦寺・三井寺の順に打つべきところを、興福寺の前に延暦寺が打ってしまった。これに怒った興福寺の西金堂衆の観音房・勢至(せいし)房という二人の「きこえたる大悪僧」が腹巻に長刀・大太刀の武装姿でもって躍り出るや、延暦寺の額を切って落とした。

この時には延暦寺の僧は興福寺の僧の行為を見すごしたが、8月9日、その恥辱をすすがんと京に下って、興福寺の末寺の清水寺を焼き払った。この延暦寺の大衆(だいしゆ)の行動が、「上皇が山門の大衆に命じて平家を追討させるものだ」と誤って伝えられたことから、軍兵が内裏を警護し、平氏の一類も大波羅に集まる事態になった。そのため噂を打ち消すために後白河が六波羅に駆けつける場面があったことを『平家物語』はくわしく記している。

御所に戻った後白河は「不思議なことだ、そんなことはつゆも考えたことはないのに」と近臣にもらしたところ、近くにいた西光法師が「天に口なし。人をもつていはせよ」という俚諺(りげん)を引いて、平家がもってのほかに過分なので、天のお計らいでしょう、と答えたと『平家物語』は記す。

『顕広王記』は、清水寺炎上の事件を記した後、山門の大衆が祇園社を守るために終夜に「呼喚」して、「天下滅亡のごとし」であったと記し、摂政の基実(もとざね)の御所の北の小屋が放火によって焼かれたことなども記している。世情の不安は著しくなり、8月12日には興福寺前別当の恵信が寺に軍兵を入れたことで、僧正と法務の任が解かれ、それにくみしたとして源義基らが流罪に処せられている。

額打論(がくうちろん、「平家物語」巻1):

7月28日夜、香隆寺北東・蓮台野の奥の船岡山に遺体を納めるが、葬送の時、延暦・興福両寺衆徒が額打論を始め乱暴をはたらく。天皇の遺体を墓に移す作法には、奈良・京都の衆徒が供をして墓の周囲に自寺の額を東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の順に掛けるのが通例。この時、延暦寺衆徒が興福寺より先に掛け、興福寺西金堂の僧観音房・勢至房が、延暦寺の額を切り落とし打ち割る。

清水寺炎上(「平家物語」巻1):

7月29日正午頃、延暦寺衆徒が山を下るとの噂あり、武士・検非違使が西坂本に向かうが、防げずに衆徒は京に乱入。後白河院が延暦寺衆徒に平家を追討させる噂あり、軍兵が内裏を警備し、平氏一族と後白河院は六波羅に集る。延暦寺衆徒は興福寺末寺の清水寺に押し寄せ、仏閣・僧坊全部を焼き払う。山門衆徒が山に戻った後、後白河院も六波羅から退去、重盛が供奉。重盛が戻り、清盛卿は、後白河院が平氏を討とうと思っているから、こういう噂も立つのだ、心を許しては行けないと述べる。重盛は、天皇に背かず人の為に情けを施せば、神仏の守りがあるはずと云い、清盛は、重盛卿はひどく大様なものだと云う。

8月17日

・平清盛(48)、権中納言から権大納言に昇る。徳大寺(藤原)実定(さねさだ)、権大納言を辞す。 清盛の後の中納言には日野資長(すけなが)が任じられる。

『愚管抄』は「永万元年八月十七日ニ清盛ハ大納言ニナリニケリ、中ノ殿ムコニテ世ヲバイカニモ行ヒテント思ヒケル」と記し、「中の殿」(基実)が大納言となった清盛の支えによって政治の主導権を握った。後白河院政の復活はまだなっていない。

摂政基実が政治を主導していたことは、翌永万2年(1166)7月に、仁和寺辺の女性が見た夢を伝え聞いた賀茂社の神官が、院御所ではなく、内裏と摂政の邸宅に来てこの夢のことを申告したことからも知られる(『百錬抄』)。夢の内容は、天下の政が不法なために、賀茂大明神が日本国を捨てて他所に移ってしまったというもの。このように内裏と摂政の邸宅にやって来て天下の政治について語ったという事実は、摂政が政治の実権を握っていたことを物語るもの。

清盛が大納言に任じられたことには多くの反発があったに違いない。武士が大納言にまで至ることはこれまでなかったことであり、広く諸大夫の身分について見ても、このように大納言にまで昇ることは鳥羽院政の時代まではなかった。

鳥羽院の寵臣の藤原顕頼(あきより)や家成も中納言までで、大納言にはならなかった。藤原信頼が信西によって阻止されたのはその前例によっている。ところが二条天皇の時代になって、顕頼の子光頼が大納言に昇進したことで前例は破られており、清盛を大納言に据えることは武士であるという一点だけが問題になろうが、清盛の場合はどうか。もはや六条の乳父ではなく、乳父であることにその根拠があるわけではなく、朝廷を武力によって支え守護する武家という存在そのものに起因すると考えられる。

徳大寺(藤原)実定;

忻子・多子の兄弟で皇太后宮大夫の藤原実定、正二位叙任を条件に権大納言を辞す。翌年1月18日姉の後白河院皇后忻子の皇后宮大夫となる(皇后忻子は後白河院の寵愛を受けている平滋子(建春門院)と競合)。建春門院没の翌年治承元年(1177)3月5日39才で大納言に還任するまで12年間散位に甘んじる(同年12月27日左大将に補任、のち内大臣を経て左大臣に至る)。後白河院の后の姉の皇太后忻子の宮大夫として、何かと建春門院側と対立し、建春門院の不興をかう。しかし、嘉応2年(1170)10月16日「建春門院北面歌合」の催しに奔走(「玉葉」)したり、承安5年(1175)1月4日高倉天皇(母建春門院平滋子)が朝覲行幸時に始めて笛を吹いたことについて、参内して賛美する歌を詠むなど、建春門院に如才なく追従。

9月14日

・流人平時忠(39、清盛の妻時子の弟)、召還。

9月28日

・南都の衆徒が清水寺焼失の件で発向するとの噂が流れて、防御のために武士が宇治の栗駒山に派遣される。

10月

・平経盛、左馬権頭を辞職。

・平教盛の知行の下で常陸の国司に通盛を任じる。平氏一門の八ヵ国知行の体制は維持されている。

10月27日

・興福寺僧徒、天台座主俊円の配流を求めて強訴。

11月4日

・後白河院、日吉社に御幸

11月13日

・後白河院、熊野に御幸

12月16日

・以仁王(後白河院皇子)、太皇太后宮御所で元服。翌年4月、以仁王を後見していた中納言藤原公光(きんみつ)が解官(げかん)され、八条院の庇護下ですごすことになる。

「一院第二の皇子以仁の王と申しは、御母加賀大納言季成(すえなり)卿の御娘也。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去じ永万元年十二月十六日、御年十五にて、忍つつ近衛河原の大宮の御所にて御元服ありけり」(『平家物語』「源氏揃え」)

12月25日

・後白河上皇第4皇子憲仁(5、のちの高倉天皇、生母平滋子)に親王宣下。法住寺御所。親王の勅別当には清盛が任じられる。

12月27日

・太皇太后多子(26)、出家、北山の麓に隠棲。


つづく




これ、維新の身を切る改革? → 旧文通費で洗濯機や布団、事務所家賃 使途基準あいまいなまま(毎日);「専門家は、維新議員が家電などを購入したことについては「政治活動とは全く言えず、単なる生活用品を税金で購入している。税金の重みが分かっていない」と批判します。」   

 

(略) 

  政治資金の問題に詳しい神戸学院大の上脇博之教授(憲法学)は「旧文通費はあくまで立法活動のために使用が制限され、議員個人の政治活動に使われるべきものではない」と指摘する。維新議員が家電などを購入したことについては「政治活動とは全く言えず、単なる生活用品を税金で購入している。税金の重みが分かっていない。維新は内規で、旧文通費を『滞在費』に充てることを認めているが、一般企業では家電や家具の購入に経費は使用できないはずだ。国民からの理解は得られない」と批判した。自民党ベテラン議員も「家電まで買う議員がいるとは思わなかった」と話す。

  維新は今年1月から、独自に使途の制限を始めた。飲食費や遊興費、親族の人件費、自宅兼用の事務所賃料、選挙関連費用などには使うことができない。「マネーロンダリング」と批判された、議員本人が代表を務める政治団体への旧文通費の寄付も禁止した。一方で、家電や寝具への使用は認めている。秘書人件費、事務所賃料などにも使用できる。1月以降の使途はまだ公開していない。 

 (略)

2022年5月26日木曜日

鎌倉 妙本寺 二天門と青モミジ アジサイ(少し) 八重ドクダミ 大巧寺 ちりあやめ キリンソウ 八重のドクダミ 2022-05-26

 5月26日(木)、はれ

今日は、鎌倉駅近くを、大巧寺~本覚寺~妙本寺~鶴岡八幡宮と歩く、シンプル散歩。

▼妙本寺では結婚式前撮り組が3組もいて、かなり行動を制限された。

この時期の二天門まえ、いいよね。




▼八重のドクダミが夥しくデカ盛(数が半端ない)だった。こんなの初めて見たくらい。

▼大巧寺 ちりあやめ キリンソウ 八重のドクダミ



〈藤原定家の時代006〉長寛2(1164)年 蓮華王院(三十三間堂)落慶供養  長寛2/永万元(1164)年 義経(7)鞍馬山に入る 二条天皇の病状悪化   

 


〈藤原定家の時代005〉長寛2(1164)年 清盛の政所の構成 崇徳上皇(46)、配流地讃岐にて没 平家納経 より続く

長寛2(1164)年

閏10月23日

・近衛基実、左大臣辞職し、松殿基房、左大臣となる。藤原経宗、右大臣。九条兼実(16)、内大臣に任命。

11月14日

・二条天皇第2皇子順仁(六条)、誕生。実母伊岐某女、養母中宮育子。

12月17日

・後白河上皇(38)、平清盛に院御所法住寺殿の西側に造営させた蓮華王院(三十三間堂)を落慶供養。

先に白河の例にならって法住寺の離宮を造営した後白河は、次に鳥羽の例にならって、離宮に付属して蓮華王院を造営し、宝蔵をも造営した。また、鳥羽院が平忠盛に命じて遣らせた得長寿院(とくじようじゆいん)があるので、平氏に蓄積された造営ノウハウに期待して、後白河は清盛に造営を命じた。

その清盛は、備前国知行により蓮華王院を造営した。

「後白河院ハ多年ノ宿願ニテ、千手観世音千体ノ御堂ヲツクラントオボシメシケルヲバ、清盛奉リテ備前国ニテ造リマイラセケレバ、長寛二年十二月十七日二供養アリケル、」(『愚管抄』)

後白河が蓮華王院造営を考えるようになったのは、応保2年(1162)正月、熊野に詣でた時である。『梁塵秘抄口伝集』によれば、熊野三山に籠って千手観音経千巻を読んだ折、熊野の御正体の鏡が輝いたので、次の今様を謡ったという。

万の仏の願よりも、千手の誓ひぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに、花咲き実なると説い給ふ、

こうした千手観音への強い信仰が蓮華王院の造営へと向かわせた。蓮華王とは千手観音の別称である。『今鏡』は「八巻の御法をうかばさせ給ひて、さまざま勤め行なはせ給ふなれば、昔の契りにおはしますなるべし。千体の千手観音の御堂たてさせ給ひて、天龍八部衆など、生きてはたらかすといふばかりこそ侍るなれ」と記している。

「長寛二年十二月十七日ニ供養アリケルニ、行幸アラバヤトオボシメシタリケレド、二条院ハ少シモオボシメシヨラヌサマニテアリケルニ、寺ヅカサヘノ勧賞申サレケルヲモ沙汰モナカリケリ」(「愚管抄」巻5)。後白河院の実子二条天皇が蓮華王院の落慶供養への出席を拒み、関係者への勧賞もなしと記す。ただし、「准御斎会。有行幸」(百錬抄」(「百練抄」長寛2年12月)とあり、実際には二条天皇は行幸する。

蓮華王院造営とともに荘園・所領が寄進されていった。例えば長寛3年6月に阿闍梨聖顕(あじありしようけん)は平季広(すえひろ)から但馬国温泉郷(ゆのごう)を得ると、蓮華王院に寄進して、温泉荘を立てている。同様に平氏一門が諸国の所領を取り次いで寄進した荘園は多く存在しており、蓮華王院以外にも、法住寺の鎮守の新熊野(いまくまの)社や新日吉(いまひえ)社にも所領が次々と寄せられ、院領の少なかった後白河も院領を増加させていった。

後白河は、仏像彫刻や絵巻の製作にのめりこみ、天才絵師常磐源二光長や画に秀でた廷臣藤原隆信らを厚遇。蓮華王院宝蔵に、典籍・絵画・楽器・楽譜を収集させる。蓮華王院宝蔵は、後白河がもっとも愛した芸術空間、遺愛の空間であった。

典籍:「土佐日記」(紀貫之自筆)など。

絵画:「年中行事絵巻」(絢爛たる宮廷行事を描く、王朝絵巻の白眉)、「伴大納言絵巻」(歴史事件に取材するミステリー仕立ての物語絵巻、都市民の躍動感、猥雑と喧噪、宮廷社会の苛酷、伴大納言の悲劇性、謎に満ちた事件性をダイナミックに描く)、「病草子」(スキャンダラスなスカトロ趣味)、「餓鬼草子」(スプラッタ・ホラー)、「小柴垣草子」、「後三年合戦絵」、「六道絵」、「長恨歌絵」(信西筆)、「法然上人画像」(隆信筆)など。

また、この年、平治の乱の敗者の没収財産や平清盛らの出資などをもとに、東山七条法住寺に広大な御所を造営。上家、女房、廷臣、官女、楽人、遊女、傀儡(くぐつ=人形芝居、軽業、音楽などを生業とする芸人)など、階級・性別をこえて同好の士を集め、法住寺御所にて、百日、三百日、千日といった長期の今様の催し(コンサート)を度々敢行。物見遊山につめかけた京洛の民を、侍が追い払うのを禁じ、御所の庭に入れて公開。


長寛2/永万元(1164)年

この頃

・この頃、義経(7)、鞍馬山に入る。師として「鞍馬の東光坊の阿閻梨」の記述あり(「吾妻鏡」文治2年2月18日条)。

1月
・平盛国、検非違使に補任。

1月5日
・久我通親、従五位上となる。

1月23日
・権中納言平清盛(48)、兵部卿を兼任。
2月15日
・太政大臣藤原伊通(これみち)、没。二条天皇はますます平氏に頼むところが大きくなる。
3月
・病弱の二条天皇は、この頃から病にとりつかれ、4月中旬に病状が悪化する(『顕広王記(あきひろおうき』」)。伊勢神宮以下の十社に奉幣して治癒を祈り、また大赦を行うなど百方手をつくす。

4月
・春頃、「続詞花集」(藤原清輔)・「今撰集」(顕昭)成立。

4月22日
・後白河院、延暦寺に御幸


つづく

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2022年5月25日水曜日

横浜散歩 港の見える丘公園 岩崎ミュージアム 横浜気象台よこ アメリカ山公園 横浜公園 2022-05-25

 5月25日(水)、はれ

今日は長男の誕生日。朝、家族みんなからのおめでとうLINEを受けて、長男から「有難う〇〇歳になりました」と返信あり、一瞬ア然、我が子ながら、いやー、もうそんなお歳ですか!と。

今日の徘徊(散歩でした!)は、JR関内駅~中華街~山手アメリカ山公園~港の見える丘公園~元町中華街駅のルート。関内では、昭和レトロな地下街をグルっとひと回りした。

▼港の見える丘公園

バラは山下公園ほどには無残ではなかった。



▼岩崎ミュージアム

▼横浜気象台よこ

▼アメリカ山公園

▼横浜公園(横浜スタジアム)

▼並べば順番にベイスターズの練習風景が見れるらしい。