2022年5月30日月曜日

〈藤原定家の時代010〉仁安2(1167)年 定家(6)紀伊守 後白河上皇(41)、新造法住寺殿(御所)に移る(清盛の後援を得て、後白河の院政は本格的に始まる) 藤原俊成(54)正三位 清盛(50)従一位太政大臣     

 


〈藤原定家の時代009〉永萬2/仁安元(1166)年 藤原俊成(53、定家の父)従三位 藤原成範・平頼盛(忠盛五男)従三位 後白河上皇(40)第4皇子憲仁親王(6、後の高倉天皇)を皇太子 平時子(42)二位、平滋子(25)三位 平清盛(49)内大臣 藤原定家(5)従五位下 より続く

仁安2(1167)年

この年

・藤原定家(6)、紀伊守に任ぜられる。季光を定家と改める。

1月
・平重盛、 従ニ位に叙任。
・平時忠(時子の弟)、右大弁に昇任。
清盛の武門平家には弁官経験者がいなかったから、政治実務に堪能な彼の存在は、特別な意味がある。2月に参議入り、右衛門督(かみ)を兼ね、翌仁安3年7月には検非違使別当、8月には権中納言になる。清盛の強力な後押しによるものと思われる。

・天台座主の快修(かいしゆう)、山門から追われる。

1月19日
・後白河上皇(41)、新造法住寺殿(御所)に移る。平清盛の義妹小弁の君を寵愛し、女御とする(のちの建春門院)。
院の年預(ねんよ)の三位藤原俊盛に讃岐・周防二ヵ国の知行国を与えて新御所を造営させる。この後、法住寺の御所は後白河院政の政治的・文化的な基地となってゆく。
20日の皇太子の朝覲行啓(ちようきんぎようけい)はあたかも朝覲行幸の儀式のようであったという。
28日には六条天皇の朝覲行幸があって、叙位・除目が法住寺御所で行われている。
清盛の後援を得て、後白河の院政は本格的に始まる。
院政の構造
政治の裁断権は基本的には院が握り、その院の政治を摂関が文書の内覧を通じて助言を行う形で補佐し、武家の平氏が武力を通じて朝廷を守護する形で補佐した。文においては摂関が、武においては武家が院を補佐する体制が確立した。
朝廷の政務を支えたのは陣定(じんのさだめ)や議定などの公卿会議のメンバーであり、院の諮問を受けて重大事の審議にあたったが、その決定はあくまでも院の決定の参考にとどまった。メンバーは天皇の後宮を輩出した閑院流(かんいんりゆう)の三条や徳大寺、また花山院などの英雄の家の貴族や、白河・鳥羽院の時代に実務官人から公卿に昇進して家を興した勧修寺流や日野流などの名家の貴族である。さらに通常の政務では、蔵人が重要な役割を果たす。

蔵人と伝奏の役割
諸官司からの訴えは蔵人に集められ、その奏聞を受けた院が裁断する仕組みになっており、勧修寺流や平氏の「日記の家」と称される家の出身の官が蔵人の多くを占めていた。蔵人の奏聞を院に取り次いだのが伝奏であって、これには蔵人や弁官を経た官人や、院の乳父の家の人々、さらには芸能などに関わって頭角を表した人々など、院近臣(いんのきんしん)が任じられた。彼らは院政の経済的基盤である膨大な荘園や知行国を足場にして、院の近習や北面の家を形成していた。
1月20日
・平滋子(26、皇太子憲仁親王(後の高倉天皇)の実母、「東の御方」と呼ばれる、時子の妹)に女御の宣下。滋子を媒介して上皇と清盛との信頼関係がいっそう大きくなる。
1月28日
・平頼盛(36)、正三位に叙任。後白河上皇(1127~92)院中に、執事として藤原隆季が見える(「玉葉」同日条)。

1月28日
・藤原顕家(54、この年12月、俊成に改名)、正三位に叙される。12月、それまで身を置いていた薬室家を離れて本流の御子左家に復し、名も顕広を俊戌と改める。10歳で父俊忠に死別した俊成は、薬室家の「猶子」となって40余年、公卿にまで昇ったことがこの決断を促した要因であった。
2月3日
・山門から追われ、院の壇所にいた天台座主の快修、山門内の不和や東塔・西塔の合戦に対して上皇から何の沙汰もないことに不満をもらして逐電。

2月7日
・平維盛(重盛の長子、9)、従五位下・美濃権守となる。
生年については諸説あるが、『玉葉』承安2(1172)年2月21日条に14歳とあり、平治元(1159)年生まれとなる。
この日、東宮のこの年の御給(ごきゅう)で従五位下の位に任じられた。朝廷には御給(年官・年爵などとも)という制度があった。それを与えられるのは院・宮などで、これを給主(きゅうしゅ)という。給主は自己に与えられた官・位を希望者に売り、買った者をそれぞれ任官・叙位させた。売官制の一種である。この時の売り主である東宮は、後白河と平滋子の間に生まれた憲仁親王である。五位以上の官人が貴族であるから、維盛は9歳にして貴族社会デビューを果たした。
その後、仁安4年正月5日従五位上、翌嘉応2年12月30日には右近衛権少将に任じた。
2月11日
・平清盛(50)、武士で初めての従一位太政大臣に任命。子の平重盛(30)は権大納言に、平時忠(38、時子の弟)は参議兼右兵衛督に任命。藤原忠雅、内大臣(右近衛大将)に任命。
日本秋津嶋はわづかに六十六ケ国、平家知行の国三十余ケ国、すでに半国に越えたり。その他荘園田畠いくらというに数を知らず」(「平家物語」)。

2月11日
・久我通親、右近衛権少将に任ぜられる。

2月13日
・後白河院、熊野精進屋に入御。19日、熊野に御幸。3月13日、熊野より還御

2月15日
・法印明雲、天台(延暦寺)座主となる。快修と座主の座を争う。

2月23日
・平清盛、厳島神社参詣に出発。自ら書写した般若心経を奉納(法華経28・無量義経・観普賢経・般若心経・阿弥陀経、全32巻)。平清盛、平頼盛、盛国・盛信・重康(郎等)が署名。
清盛の厳島行きは、太政大臣に就任するという所願が成就したことを厳島社に伝えるため。厳島神社に奉納されている般若心経の奥書には「仁安二年二月二十三日 太政大臣従一位平朝臣清盛書写之」とあり、出発直前に書写され持参したものとわかる。「仁安元年十一月十八日」の日付の追加された厳島願文もこの時に持参した。 

4月6日
・清盛、厳島から戻り、13日には高野山に参詣(かつて清盛を厳島参詣に向かわしめた夢は、この高野山で見たもの)。


つづく

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