長寛2(1164)年
6月
・清盛の政所の構成
公卿になると家政機関として政所の設立がなされており、中納言になった清盛の政所の活動は次の政所下文から知られる(「厳島文書」原漢文)。
権中納言家政所下す 掃部允景弘
早く凡家綱を以て下司職となすべき山方郡志道領の事
右領、家綱相伝の地主たるに依り、当家領に寄進する所なり。仍て下司職たるべきの状、仰する所、件のごとし。宜しく承知し件により之を用ふべし。以て下す。
長寛二年六月 日 案主左史生紀(花押)
令大舎人允大中臣(花押) 知家事内蔵属中原(花押)
別当大蔵少輔中原朝臣(花押) 刑部録中原(花押)
散位藤原朝臣(花押)
中宮大属大江朝臣(花押)
紀伊守源朝臣(花押)
壱岐守藤原朝臣(花押)
内膳奉膳高橋朝臣(花押)
この下文は、安芸国の在地武士の家綱が安芸国の山方(やまがた)郡の相伝の地を清盛に寄進したことから、「権中納言家」清盛の政所から下司職に任じられたもの。
家綱の寄進を取り次いだ掃部允景弘(かもんのじようかげひろ)は応保2年正月に掃部允に任じられた平景弘で、のちに安芸の厳島の神主として見える佐伯景弘と同一人であり、清盛の厳島信仰とともに勢力を広げていった人物。
政所は別当や令・知家事(ちけじ)などの職員から構成され、荘園所領や知行国の管理に関与していた。
別当の「壱岐守藤原朝臣」は、清盛が大宰大弐であった時に大宰府の目代として鎮西の経営を行っていた藤原能盛(よしもり)で、長寛2年12月には伊予国の弓削島(ゆげのしま)荘の住人から出された訴状に外題を加えており、その文書の端裏には「平中納言殿御沙汰」とあるので(『平安遺文』)、清盛の伊予国知行の目代を勤めていたことがわかる。
知家事の「刑部録(ぎようぶろく)中原」は、清盛が大和国を知行していた時の目代の中原貞兼(さだかね)である。
別当の「紀伊守源朝臣」為長は、永暦元年から紀伊守に任じられ、高野山領の荒川荘に目代を引率して乱入したとして応保2年に訴えられている(「高野山文書」)。
「中宮大属(だいさかん)大江朝臣」の大江盛親は、この翌年には肥前守に任じられており、八条院庁の別当にも任じられている。様々な家政機関に属する職員が清盛の政所の職員として起用されていたのである。
この盛親をはじめとして平姓の職員は誰もおらず、実務を担う政所では朝廷の下級宮人の技能が重視されていたことがわかる。なお盛親と同じく中宮に仕えた権少属(ごんのしようさかん)の三善康信がのちに鎌倉に下って問注所の執事となっている。
6月27日
・流人藤原師長(27、頼長の子)・源資賢ら召還。
7月20日
・後白河院、八条院御堂供養に御幸
8月26日
・崇徳上皇(46)、配流地讃岐にて没(誕生:元永2(1119)/05/28)。75代天皇。
讃岐配流後、崇徳は、後白河朝廷を恨み、「我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と言い、自らの血で大乗経を書き、「この写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならん」と言って、その経を瀬戸内海に沈めて呪詛をしたいう。上皇の不穏な動きを聞き、都から状況調査の為に平康頼を派遣、康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告。「雨月物語」冒頭「白峯」章には、崇徳天皇陵(81番札所)に来た西行法師が読経をし、魂をなぐさめるために和歌を詠むと崇徳の霊が現れて会話をするという場面がある。
9月
・平清盛(47)、一門の栄達を感謝し来世の冥福を祈るため、厳島神社に「平家納経」を奉納。
〈願文〉
安芸国の「伊都岐島(いつくしま)大明神」は四面を「巨海の渺茫(びようぼう)」に臨んでおり、その「霊験威神」は「言語道断」のものである。私はこの神を信仰してからというもの「利生」がはっきりして、「家門の福禄」「子弟の栄華」がもたらされた。「今生の願望」はすでに満たされており、「来世の妙果」もまた期されるであろう。当社は「観世音菩薩の化現(けげん)」の地であり、「往年の比」に「一沙門」が、菩提心を願う者がこの社に祈請すれば必ず発得(ほつとく)があろう、と私に語ったので、それを信受し帰依してきたところである。
厳島大明神への信仰を語った後、報賽(ほうさい)のために浄心を発し、妙法蓮華経一部二八品と無量義経(むりようぎきよう)、観普賢経(かんふげんきよう)、阿弥陀経、般若心経など各々一巻を書写して金銅の筐一合に納め、宝殿に安置すると述べる。清盛をはじめ、「家督三品武衛将軍」の重盛ら子息、また舎弟の「将作大匠」頼盛、「能州」教盛、「若州」経盛ら、「門人家僕」など、すべて32人にそれぞれ一品一巻ずつをあてて、善をつくし美をつくして制作にあたった、とも記す。
明らかに栄華の絶頂を意識したものであり、一門を総動員して書写にあたったことが誇らしげに述べられている。この時期の清盛を中心とした平家の栄華をよく物語る作品である。
「法華経」28巻、「無量義経」「観普賢経」「般若心経」「阿弥陀経」各1巻、清盛「願文」を加え全33巻(現存の「般若心経」は仁安2(1167)年の書写)。五彩の料紙に金銀の砂子や切箔が散りばめられ、見返しには大和絵や唐絵が描かれ、軸首には水晶・乾漆などが用いられる。写経を納めた三段重ねの銅製経箱にも、蓋表や側面に金銀の雲龍文の金具による装飾を施すなど(経箱も国宝)、経箱から写経に至るまで、工芸技術の粋を尽くした意匠と技巧が凝らされている。
現存する『平家納経』のうち般若心経は仁安2年(1167)2月23日書写の日付と「太政大臣」清盛の書写と記され、阿弥陀経には権大納言清盛の署名があり、これらは願文に語られているものではなく、この年(長寛2年)以降に奉納されたものである。
法華経は、分別功徳品(くどくほん)に左衛門尉平盛国、法師功徳晶に長寛2年9月1日の日付と清盛の署名、薬王品に左衛門尉平盛信、厳王品に長寛2年6月2日の日付と右兵衛尉平重康(しげやす)の署名があることから、この年(長寛2年)に清盛とその一門が一品一巻ずつの制作に関わったものであるとみなされる。
平盛信は、平治の乱に際して藤原信親を護衛して信頼の許に帰した侍「平治郎馬允盛信」であり、仁安元年10月10日に摂津守として見える。平重康は仁安3年5月に豊前守に任じられており、平盛国は伊勢平氏の出身で平氏に仕えた家人で、翌年正月には検非違使に任じられている。これら平治の乱で活躍した郎等や清盛の政所の職員らも分担している。
こうした「門人家僕」以外にも、法華経の奥書には平氏一門の名が見えており、その多くは平氏知行国の受領であり、その知行国が『平家納経』の経済的な基盤をなしていた(平治の乱後の知行国八ヵ国の体制は堅持されている)。
長寛元年正月24日に重衡が尾張守、
永暦元年(1160)正月28日に知盛が武蔵守、
応保元年(1161)10月19日に経盛が若狭守、
長寛元年正月24日に保盛が越前守、
応保2年7月17日に教盛が能登守、
長寛元年12月20日に宗盛が美作守に任じられている。
知行国は西国・畿内近国のみならず、北陸道にも多く分布している。他に国司の名が不明な伊予国・備前国がある。
■小林太市郎氏による「平家納経」の成立事情
①この年、清盛と厳島内侍(巫女)の某女との間に女子誕生。
②清盛は妊娠中の厳島内侍を平盛国の子盛俊に与える。生れた子は自分の子として引取る。
③平家納経の署名者は清盛(代筆)、盛国(盛俊の父)、平盛信(盛俊の縁者)、平重康(清盛の右筆)。
④盛国は平家郎党の重鎮・大番頭。
この事実より、①納経の事実上の願主は厳島内侍。②無事に子供を産む為、また懐妊中に盛俊の妻になった身の滅罪のため納経を発願。③清盛は彼女の納経に関する後援依頼を拒めず、盛国に善処を命令。④署名には一門の協力を得られず、関係者のみとなる。
9月25日
・延暦寺の西塔の悪僧慶救(けいぐ)が祇園社の供料田(ぐりようでん)を「近日」の「新制」に背いて押領しているとの訴えについて裁可(『平安遺文』)
10月5日
・延暦寺衆徒、座主快修(藤原定家の伯父)を放逐、その房舎を壊す。
つづく
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