2022年6月23日木曜日

〈藤原定家の時代034〉安元3/治承元(1177) 藤原成親の配流 西光処刑(息子たちも殺害される) 藤原成経・俊寛・康頼の鬼界ヶ島配流 明雲の召し返し   

 



安元3/治承元(1177)

6月2日

・藤原成親、備中賀夜郡庭瀬郷有木別所へ配流。

この日の朝、公卿の座に引き出されて食事を供され、鳥羽の南門まで車で、そこから淀川を船で大物の浦まで護送され、まず備前の小島へと流された。しかし、その地は船着き場が近くて望ましくないということで、そこより北に50町ほど入った、備前と備中の国境いの庭瀬の郷にある吉備の中山の有木の別所という山寺に移されることになった。"

・明雲、大衆と西坂本に向かう。平清盛へ使者を送る。平清盛、大衆が帰るまで庭に待機。

・西光処刑

6月3日

・朝、平重盛、藤原成親に密々に衣装等を送る。

・夜、平康頼・俊寛・中原基兼・蓮浄・惟宗信房・式部大輔正綱・平資行・平業房、捕縛。

木工頭(もくのかみ)平成房も連行されそうになったが、法皇が再三にわたって赦免を求めたので免ぜられたといい、式部大夫藤原章綱(あきつな)もいったん捕らえられながら放免されている。

事件に際して平氏の軍兵に囲まれた法皇は、

こは、されば何事ぞや、御とがあるべしとも思召さず、

といい放ったという。

近臣がつぎつぎと捕われてゆく中で、何とふてぶてしい傲岸さ、徹し切った非情さであろうか。

「治承元年六月二日、雨下る。去夜半、西光の頚を刎ね了んぬ。又成親卿を備前国に流し遣わし、武士両三人を相副うと云々。或いは云わく、西光尋問せらるるの間、入道相国を危うくすべきの由、法皇及び近臣ら

謀議せしむるの由承伏、又その議定に預るの人々の交名(人名リスト)を注し申すと云々。かの状に随つて捕え搦むべきの輩、はなはだ多しと云々。或いは云う、成親路において失す(殺す)べきの由と云々。又云う、左大将重盛、平に申請すと云々。此の間の説縦横なり、実説を取。難きか。」(「玉葉」)。

「治承元年六月三日、朝の間雨下る。京中騒動、上下諸人、皆以て怖畏を成す。但し院中参入の人なきの由、禅門(清盛)大いに以て怒ると云々。よって昨今人々少々参入すと云々。院中上下の形気、存するが如く亡ぶるが如し。色を失い容(すがた)を損(そこ)んずと云々。或いは涙を流すの輩ありと云々。大衆(延暦寺)一昨夕、重松辺に下り使者を以て入道の許へ示し送りて云わく、敵を伐たしめ給うの条、喜悦少なからず、もし罷り入るべきの事あらば、仰せを承りて一方を支うべし(平氏に味方しまうと申出たのである)と云々。院中近習の人々、皆悉く妻子資財等を逃散せしめ、只一身ばかり憖(なまじい)に(心ならずも)祇候すと云々。事変り政攻ること、誠に只片時の間なり。悲しい哉。余去夜より所悩(風病)又倍増す。為(せ)ん術を知らず。」(「玉葉」)。

小教訓(こぎょうくん、「平家物語」巻2):

清盛は新大納言成親を厳しく責め首までも取とらんばかり。小松内大臣重盛が嫡子権亮少将維盛を連れやって来きたので、成親は命乞いをし、重盛は父清盛に成親を殺さないよう言う。

大納言死去(だいなごんのしきょ、「平家物語」巻2):

新大納言成親は小松殿を通じて後白河法皇に伺って出家。新大納言の北の方は、北山雲林院辺りにひっそり暮らしているが、源左衛門尉信俊がいつも訪ねていっていた。ある時、北の方はせめて手紙だけでも届けたいと望み、信俊は我が身を省みず手紙を届け、返事も北の方に届けることができた。返事には出家した新大納言の髪が入っていた。治承元年8月19日、備前・備中の境、庭瀬の郷、吉備の中山という所で新大納言没。

6月4日

・中原基兼・惟宗信房・平康頼・平資行ら、解官。

配流:

藤原成経(平知盛に預置→福原→備中瀬尾→鬼界ヶ島配流。舅平教盛から援助)。平康頼(福原→鬼界ヶ島配流)。俊寛(福原→鬼界ヶ島配流後没)。中原基兼(淀に誡置)。蓮浄(常陸)。式部大輔正綱(播磨明石)。平資行(佐渡)。

藤原成経(生年未詳~1202):成親の嫡男。右近衛少将・丹波守。清盛の弟の教盛の娘を妻にしている為、教盛に救われ、死罪を免れる。鬼界ヶ島には、成経の舅の教盛の所領肥前鹿瀬の庄(佐賀市嘉瀬町)より衣食を常に送られる。

平康頼(生没年未詳):後白河院の今様の弟子。「梁塵秘抄口伝集」にもその名が見られ、熊野御幸にも従う。

少将乞請(しょうしょうこいうけ、「平家物語」巻2):

丹波少将成経(なりつね)も清盛の西八条邸へ連行されることになり、後白河院に参上。法皇は大変悲しむ。宰相(教盛)は、清盛の弟、丹波少将の舅。宰相と丹波少将は共に西八条邸に出向き、宰相は源大夫判官季貞を通じて、少将を自分に預けるよう申し入れるが、清盛は聞き入れず。宰相が出家の覚悟を季貞を通じて伝えると、ようやく少将は宰相に預けられることになる。

阿古屋之松(あこやのまつ、「平家物語」巻2):

6月20日、清盛、福原から摂津左衛門盛澄(もりずみ)を使者に、宰相教盛に丹羽少将成経を福原に寄こすよう命じ、22日、福原に到着すると、瀬尾太郎兼康に命じ、備中に下す。

康頼祝言(やすよりのっと、「平家物語」巻2):

鬼界が島に流された3人のうち丹波少将成経・康頼入道は、島に熊野に似た所を見つけ帰京を祈る。

卒塔婆流(そとばながし、「平家物語」巻2):

康頼入道は千本の卒塔婆を作り海に流し、内1本が厳島に流れ着く。康頼と縁のあった僧がそれを拾い康頼の母や妻子に見せ、後白河院の耳にも入り、法皇はこれを見て涙を流す。

平清盛、西光の白状を持って後白河法皇を幽閉しようとするが、重盛の忠言で思い止まる。後白河法皇の執政一時停止、六波羅本邸に兵を常備。「院をば遠島へ遷し奉るべかりけるを、重盛強く諌め申して、院は別の御事なし」(「保暦間記」)。

清盛は法皇にまで手を出すことは控え、西光の白状を院に持参し、近臣の光能を呼び出すと、こうした次第なので、かように沙汰しましたと事情を述べ、「是ハ偏(ひとへ)ニ世ノタメ君ノタメニ候、我ガ身ノタメハ次ノコトニテ候」と法皇に伝えるように命じて福原に下ってしまった。清盛が狙いをつけたのは成親と西光の二人である。法皇が「コトニナノメナラズ御寵アリケル」(『愚管抄』)という「院ノ男ノオボへ」の成親と、法皇の股肱の臣である西光の二人だけは是非とも除く必要を感じたのであろう。保元・平治の乱の経験からして、二人が今後の政治に大きな影響力を持つようになるのは防ぎたかったに違いない。

教訓状(きょうくんじょう、「平家物語」巻2):

清盛は、自分は保元・平治の時も後白河側で戦ったにもかかわらず、成親や西光の言うことをきいて平家を亡ぼそうとするとは無念とし、法皇を鳥羽の北殿に移すか西八条にでも移そうと考える。これを聞いた内大臣重盛は西八条に駈け付け、涙ながらに諫言。

烽火之沙汰(ほうかのさた):

内大臣は諫言して小松殿に帰り、主馬判官盛国に武装集結を命じると、西八条にいた兵数千が小松殿に走る。清盛はそれを見て、法皇の件を思い止まる。重盛は軍勢が自分につくことも知り、入道が思い止まったことにより集結を解く。上古末代にない大臣であると人々は感動。

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば欲すれば忠ならず」(頼山陽(1780~1832)「日本外史」)。

6月5日

・平重盛、左近衛大将を辞任。藤原実定、左近衛大将祈願に厳島参詣。12月27日、左近衛大将に任命。

左近衛大将の辞任は、小舅の逮捕・流罪を断行した清盛への抗議の意味があろう。事件発生の引き金になった延暦寺大衆のさまざまな示威行動にたいし、父が延暦寺と事を構えるのを嫌ったため、王朝最高の武官職にありながら有効な軍事的役割を果たせなかったことへの、無念の表明でもある。父の命に従順だった重盛にとっては、精一杯の抗議といえる。(「平家の群像」)

代わりに宗盛が政治への意欲を強めていった。重盛が大将を辞任したその日、厳島の弥山水精寺(やせんすいしようじ)に寿命長遠、二世大願成就の祈祷を依頼するとともに、その費用にあてるために周防国の玖珂(じゅが)御領を寄進している。さらに院と天皇のために水精寺で不動供(ふどうぐ)や大般若経の読経を行うように命じており、朝廷に申請して阿闍梨一口を置くことも7月5日の太政官符により認められている(「厳島神社文書」)。

6月5日

・座主の明雲に召返しの宣旨がだされる。

6月7日

・平業房、放免。

6月9日

・西光(藤原師光)一男の加賀守師高、配流地尾張井戸田で誅殺。ニ男(備後配流前の京の獄中)師高・三男左兵衛尉師平、六条河原で斬首。四子広長、郷里阿波郡柿原で田口成良(阿波重能)に攻められ自害。六男親家は難を逃れ板野郡臼井に潜伏。

6月18日

・成親の親族の尾張守藤原盛頼、丹波守成経、越後守親実(ちかざね)らが解官。

6月20日

・九条家の和歌会を指導していた六条家の藤原清輔(70)、没。後、藤原俊成(64)が後任として関白九条兼実の和歌師範に迎えられ、六条家の権威と劇的交替をとげる。


つづく

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