2022年6月22日水曜日

〈藤原定家の時代033〉安元3/治承元(1177) 5月29日~6月1日 鹿ヶ谷平家打倒謀議発覚 多田行綱の密告 軍兵召集 院御所へ申し入れ 成親・西光など逮捕

 



安元3/治承元(1177)

5月29日

鹿ヶ谷平家打倒謀議の密告

京都東山の鹿ヶ谷、後白河法皇側近達が平氏打倒の密議。新大納言藤原成親(41、なりちか)、近江中将入道蓮浄、丹波少将成経、西光法師(藤原師光)、平判官康頼、静憲法印(藤原信西の子)、法勝寺の僧都俊寛、そして後白河法皇ら。6月中旬の祗園御霊祭の夜に襲撃決定。

この日夜、多田蔵人行綱、平清盛の西八条邸を訪ね、「かかる事こそ候へ」と鹿ヶ谷の密謀を平清盛に密告(後白河法皇近臣達が、延暦寺追討に名を借りての募兵の狙いは平家である)。平盛国が多田行綱の応対をする。 

『愚管抄』に見えるその内容は、東山の鹿ヵ谷の静賢(じようけん)法印の山荘に法皇が御幸した際、成親・西光・俊寛らが集まって平氏打倒が議され、それに行綱が呼ばれて、旗揚げの白旗用に宇治布三〇反が与えられて用意するように命じられた、という。

「法勝寺執行俊寛卜云フ者、僧都ナシタビナドシテ有ケルガ、アマリニ平家ノ世ノママナルヲ、羨ムカニクムカ、叡慮ヲイカニ見ケルニカシテ、東山辺ニ鹿ノ谷卜云トコロニ、静賢法印トテ法勝寺ノ前ノ執行信西ガ子ノ法師アリケルハ、蓮華王院ノ執行ニテ深ク召シツカヒケル、万(よろず)ノ事思ヒ知リテ引入リツツ、マコトノ人ニテアリケレバ、コレラヲ又院モ平相国モ用イテ、物ナド云ヒ合セケルガ、イササカ山庄ヲ造りタリケル所へ御幸ノナリナリシケル。コノ閑所(かんしよ)ニテ御幸ノ次ニ成親・西光・俊寛ナドアツマリテ、ヤウヤウノ議ヲ為(し)ケルト云フ事ノ聞エケル。」

山圧の持ち主が静賢であるということ以外は、ほぼ『平家物語』の語るところと一致している。

鹿谷(ししのたに、「平家物語」巻1):

鹿の谷は、背後が三井寺に続き絶好の城郭で、そこに俊寛僧都の山荘があり、いつも寄り集まり平家打倒の陰謀を巡らせる。ある日、後白河法皇が、故信西の子静憲法印と共に現れ、法皇がこの陰謀について静憲法印に相談したところ、静憲が慌てて騒ぎ、新大納言成親が顔色を変えて立ち上がったところ、前にあった瓶子を袖に引っかけて倒す。法皇はそれを見て、「あれはいかに」と言ったところ、大納言は「平氏たおれ候ひぬ」と言う。法皇は笑って、「者ども参って猿楽をいたせ」と言ったので、平判官康頼が「あまり平氏(瓶子)が多いので酔ってしまいました」と言う。俊寛僧都が「さて、これをどうしましょう」というと、西光法師が「首を取るのにこしたことはない」と言い、瓶子の首を取って奥へ入る。

俊寛沙汰 鵜川軍(しゅんかんのさた、「平家物語」巻1):

法勝寺執行俊寛は、京極の源大納言雅俊の孫、木寺の法印寛雅(かんが)の子。気性激しく驕り高ぶる人。新大納言成親は多田蔵人行綱を呼び、「そなたを一方の大将にと頼りにしている。上手くいったら国でも庄でも思いのまま与える。まず弓袋料に」と白布50端(反)を送る。

行綱密告の場所と日時

事件が明るみに出たのは6月1日払暁で、これは『玉葉』『百錬抄』『平家物語』とも一致。しかし行綱が密告した時日と場所についてはかなりの違いがある。「平家物語」は5月29日、西八条とするが、源平盛衰記は5月27日、福原とする。

『玉葉』は行綱密告の件については沈黙(「密告」の性質上、発覚するのは後日なので、同時進行型の日記に記されないためか)。『百錬抄』には、行綱密告についての言及はあるが、それがいつ、どこで成されたかについては触れられていない。『愚管抄』は、時日は明らかにしていないが、行綱が福原に下向し密告したとし、清盛が関係者の処断に乗り出したのを6月2日としている(必ずしも史実に忠実とは言えない)。

清盛は早くから成親らの動静をキャッチしており、それを、窮地に追い込まれた時点で最も有効に用いたという可能性が大いにある。

多田蔵人行綱:

源満仲の子頼光の末裔、摂津守頼盛の子。摂津国河辺郡多田庄(兵庫県川西市多田)を代々本拠としたので、世に「摂津源氏」とも「多田源氏」ともよばれる。行綱の曾祖父明国の弟仲正の子がのちに挙兵する源三位頼政。頼光の弟頼信が源氏嫡流をついだため、この一門は庶流としてその下風に立つことになるが、保元・平治の乱で嫡流の源氏がその勢力を削がれ、諸国に沈倫したのに反し、この一族は父頼盛の弟(行綱の叔父)の頼憲とその子盛綱が、保元の乱で崇徳上皇に加担して斬首されただけで、結果、平家の世で家門を維持することができた。

行綱が院近臣たちの陰謀に加わるようになった経緯は明らかではないが、曾祖父の明国が一院蔵人として白河院に仕えて以来、代々院の庁との関係をもち続けていたらしく、庶流ながら源氏の血をひく武門であったことから、この企てへの協力を求められたものと思われる。

しかし、この陰謀のあまりにも謀略的な展開に、武士である多田蔵人行綱が懸念を抱くようになった。

「そも内議支度は様々なりしかども、擬勢ばかりで、此の謀叛叶ふべしとも見えざりければ、さしも頼まれたりつる多田蔵人行綱、此の事無益なりと思ふ心や付きにけん」(「平家物語」)とあるように、平家の武力の実態やその強大さをよく知っている行網の目には、院の謀臣らの行動は実効のない空虚なものと映ったに違いない。

返り忠を決めた行綱は、暮夜ひそかに西八条の邸に清盛を訪ね、その反乱の計画を密告する。

行綱の密告によって謀反の企てを知った清盛は、家人の筑後守貞能に命じて、一門の人びとに急を告げ、軍兵を召集する。

「右大将宗盛・三位中将知盛・頭中将重衡・左馬頭行盛以下の一門の人々、甲冑弓箭を帯してさし集ふ。其の外侍どもも雲霞の如くに馳せ集つて、其の夜の中に入道相国の西八条の亭には、兵六七千騎もあるらんとぞ見えし。」(「平家物語」)

左馬頭行盛は早世した次男基盛の嫡男。

重盛(清盛の嫡男)は、翌日、烏帽子・直衣姿で悠然と登場。

西光被斬(さいこうがきられ、「平家物語」巻2):

後白河院は、衆徒の明雲奪還を聞き不快に思うが、その後流罪の命令せず。新大納言成親は山門騒動の為に平家討滅の気持ちを抑える。多田蔵人行綱は、計画が他人から漏れるのを恐れ、自分から白状し生き長らえようと考え、29日夜更け、清盛の西八条邸に行き白状。清盛は貞能に侍の召集を命じ、右大将将宗盛・三位中将知盛・頭中将重衡・左馬頭行盛、兵士7~8千が集る。6月1日清盛は検非違使安倍資成に命じ、謀反加担者召し捕り処罰するので法皇は干渉しないで欲しい旨を伝え、法皇が顔色を変えたことなどを清盛に伝えたので、行綱の自白が本当であると知る。飛騨守景家・筑後守貞能に命じて謀反人を逮捕させる。新大納言成親、近江中将入道蓮浄、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行が捕らえられ、西光は逮捕尋問後、五条西朱雀で斬られる。嫡子前加賀守師高は尾張井戸田へ流されていたのを討たれ、次男近藤判官師経は獄から六条河原で斬られる。

5月29日

・4月~5月、都とその周辺で、山門の強訴、天台座主明雲の所領没収と配流決定、配流中の明雲の僧徒による奪還など政治的緊張が連続(加賀の目代藤原師経の白山宮への非法に端を発する事件)。その中で、近江・美濃・越前3ヶ国国守に「国内武士」の調査上申が命ぜられる(「玉葉」同日条)。各国衙在庁が名簿を作成し国守に送付。

越前斎藤氏が在地で率いる兵力は、平泉寺長吏斉命の場合「一党五十余人」(延慶本「平家物語」)、稲津実澄で「一党五十余騎」(長門本「平家物語」)とある。この数値は誇大がつきものの軍記物の数字であるため、彼らの動員可能の上限を越えているかもしれない。

6月1日

・清盛は、夜明けを待ち切れずに、暗いうちから検非違使の安倍資成を呼び、じきじきに口上を授けて、まず院の御所への申し入れをおこなわせる。

明くれば六月一日の日なり。末だ暗かりけるに、入道相国安倍資成を召して、

「院の御所へ参り、大膳太夫信成を呼び出いて、きつと申さんずる事はよな、『新大納言成親卿以下近習の人々、此の一門亡して天下乱らんとする謀叛の企あり。一々に搦め取つて、尋ね沙汰仕り候べし。それをば君も知し召さるまじう候』と申すべし」

とぞ宣ひける。

信成がそのことを奏上すると、後白河院は、

「鳴呼はや、これ等が内々謀りし事の洩れ聞えけるにこそ。さるにても、こは何事ぞ」

とばかり仰せられて、分明の御返事もなかりけり。


「ああ、あの者たちが内々に計画したことが洩れたのだな」と内心思ったが、「それにしても、これはどうしたことか」とつぶやくばかりで、明確な返事はなかった。腹心の近臣たちの危機に対して他人ごとのように「さるにても、こは何事ぞ」とつぶやくばかりで、それを抑止もせず、擁護もしない、法皇の無責任さがよく出ている。

資成から報告を受けた清盛は、行綱の密告が事実であったことを確認し、もしその密告がなかったら一大事になるところだったと、ほっと胸を撫でおろす。

「さればこそ、行綱は実を申したれ。行綱此の事告げ知らせずば、浄海安穏にてやはあるべき」

とて、筑後守貞能、飛騨守景家を召して、当家傾けうとする謀叛の輩一々に搦め捕るべきよし下知せらる。仍つて二百余騎、三百余騎、あそここゝに押寄せ押寄せ搦め捕る。

新大納言成親その他の逮捕

成親に警戒されぬよう、

「入道相国、先づ雑色を以て、中御門烏丸の新大納言の宿所へ、

「きつと立寄り給へ、申し合すべき事の候」(相談したいことがあるので、至急お立ち寄り下さい)

と宣ひ遺されければ、大納言、我が身の上とは露しらず、」

西八条の清盛邸に向かった。

しかし、

「西八条近うなつて見給へば、四五町に軍兵ども満ち満ちたり。

「あな夥し。こは何事ならん」

と、胸打騒がれけれども、門前にて車より下り、門の内へさし入って見給へば、内にも兵ども隙(ひま)はざまもなうぞ並み居たる。中門の口には恐しげなる者ども数多待受け奉り、大納言を取って引張り、

「縛むべう候ふやらん」

と申しければ、

入道簾中より見出し給ひて、

「あるべうもなし」(その必要はない)

と宣へば、侍ども十四五人、前後左右に立ち囲み、大納言の手を取って縁の上へ引上げ奉り、一間なる処に押籠め奉てんげり。(略)

さる程に、近江中将入道蓮浄・法勝寺の執行俊寛僧都・山城守基兼・式部大輔正綱・平判官康頼・宗判官信房・新平判官資行も、囚はれてこそ出で来たれ。」

『愚管抄』では、

「コノ西光ガ頸キル前ノ日成親ノ大納言ヲバヨビテ、盛俊卜云力アル郎従盛国ガ子ニテアリキ。ソレシテ抱キテ打フセテヒキシバリテ部屋ニ押籠テケリ。」

と、成親を逮捕したつわものを主馬判官盛国の子の盛俊としている。"

西光の逮捕

機転のきく西光は、善後策を講じるためにすぐさま院の御所へ急行するが、その途中で六波羅の軍兵たちと行きあい、馬より引きずりおろされ縛りあげられる。そして、両側から抱えあげられ、歩かせずにひきずって西八条に連行して、中庭に引き据えられる。

清盛は、大床に立って西光を罵倒し、次に西光を近くに引き寄せさせて顔を踏みつける。

清盛の面罵。

「「本より己らが様なる下臈の果(はて)を、君の召使はせ給ひて、なさるまじき官職をなし賜び、父子ともに過分の振舞をすると見しに合せて、過(あやま)たぬ天台座主流罪に申し行ひ、剰(あまつさ)へ当家傾けうとする謀叛の輩に与してげるなり。ありのまゝに申せ」

とこそ宣ひけれ」

『玉葉』は

六月一日(巳己)辰刻、人伝ニ云フ。今暁、入道相国八条亭ニ坐シ、師光法師〈法名西光、法皇第一ノ近臣也。加賀守師高ノ父〉ヲ召シ取り、之ヲ禁固シ年来ノ間積ム所ノ凶悪ノ事ヲ間ハル。並ビニ今度明雲ヲ配流シ、及ビ万人ヲ法皇ニ讒邪(ざんじや)ス。此ノ如キノ間、非常不敵ノ事等卜云々。又今旦成親卿ヲ招キ寄セ、同ジク以テ禁錮ニ及ビ殆ンド面縛(めんばく)ニ及ブト云々。武士洛中ニ充満シ、禁裏ニ雲集ス。但シ院中寂莫卜云々。縡(こと)常篇(じやうへん)ニ絶シ、記録スルニ遑(いとま)アラズ。猶院ノ近臣等、悉ク以テ搦メ取ル可シト云々。

これによると、先に捕縛されたのは西光で、続いて朝成親が逮捕されたものらしく、その順序が「平家物語」とは反対になっている。恐らく劇的効果を高めるために、意識的にその順序を入れ替えたものであろう。

しかし、そのほかは、成親が西八条へ招き寄せられてその身柄を、拘束されたこと、清盛が西光を面詰し、山門座主明雲の讒訴をきびしく糾弾したことなど、すべて『平家物語』の叙述と符合する。

・暁、西光法師、西八条邸に連行され「ヒシヒシ」と問い詰めた結果、すべてを自供させ、白状を書かせたという。『玉葉』は、西光が「法皇第一の近臣」であり、年来、平氏の悪口を法皇に告げており、今度も明雲の配流の件で法皇を唆(そそのか)したという噂を載せている。さらに清盛を倒す計画を法皇や近臣らと謀議したことを西光が白状し、その謀議に関わった人々の名も明らかにしたという噂を翌日に記しているが、その日に西光は朱雀大路に引き出され首を刻ねられた。    

西光とともに成親も呼び出され、家人の平盛俊によってその身が縛られて部屋に押し込められ、ついで流されることになった。『愚管抄』によれば、清盛に召された成親は、何事か御召しがあったので参りました、と公卿座にいた重盛に挨拶して奥に入ったところ、そのまま押し込めにあったため、それを聞いて驚いた重盛が命だけは申し受けますからと部屋越しに成親を励ましたという。重盛は成親の妹を妻に迎えていた。


つづく


0 件のコメント: