2022年7月15日金曜日

〈藤原定家の時代056〉治承4(1180)5月1日~8日 定家(19)前斎宮亮子内親王を見舞う 平知盛重病「万死に一生、頗る物狂か」と

 


〈藤原定家の時代055〉治承4(1180)4月27日~29日 行家のこと 令旨の内容 宣旨の意義 京につむじ風 「又、治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。」(「方丈記」)より続く

治承4(1180)

5月1日

・藤原定家(19)、4月29日の台風被害の大きかった前斎宮亮子内親王を見舞う。

2日、八条院の鳥羽院御忌日仏事の参仕。

10日、法勝寺三十講結願に参仕。

29日、百座仁王講の堂童子を勤める。"

「五月一日。晴天。斎宮二参ジ、健御前ヲ訪ネ申ス。姫宮ヲ抱キ奉ル。心中又存命スベキノ儀ヲ存ゼズト云々。檜皮庭上ニ分散。破損ロノ宣ブベキニアラズ。」(「明月記」)。

(前斎宮亮子内親王を見舞う。同母姉の健御前が、後白河院の第一皇子以仁王の姫宮を抱いて出て来て、生きた心地がしないという)。亮子内親王は以仁王の姉で以仁王の娘5歳を引き取って育てている。健御前は、姉京極殿(坊門殿)と共に仕えた建春門院の没後、この内親王(前斎宮)に出仕。この主従は、その後辻風のために損傷した四条殿から、三条高倉の以仁王の邸宅に移る。10日にもまた定家は、大破した四条殿から、栄全法眼坊の手配で、六条高倉に避難していた亮子を見舞っている。)

「五月十一日。晴天。院ニ参ズ(二藍ノ狩衣。猶張衣ヲ着ス)。隆房中将単衣許リヲ着ス。今ニ於テハ暑気己ニス。単衣許り宜シキ由、相示サル。右近ノ馬場真手結ヒノ日、女車ヨリ歌ヲ送ル(花田ノ薄様ニ書ク)。返歌等態(ワザ)々注ヲ付ケ、授ケラル。家君ニ覧ゼシメンガタメナリ。退出シ、八条院二参ズ。」(「明月記」)。

(高倉院に参じる。暑気の候、単衣ばかりでもよいと藤原隆房が示す。右近馬場の競馬があり、女車から縹(ハナダ)色の薄様にしたためた歌を送られる。恋文かと思いきや、俊成に送る詠草だったのでがっかりする。)。

5月2日

・高倉上皇、天変(暴風)に危惧。

2日末刻(午後2時頃)、前大納言邦綱が兼実に対し、新院は、昨日の暴風は「朝家の大事」である、御祈以下の事をすべきではないか、宗盛らは一向に沙汰しない、どうしたものだろう、と相談をもちかけている、と言う。

また、邦綱は、「三井寺に召さるるの輩、一人すでに出来(シュッタイ)公顕僧正搦め進む、残四人いまだ出来せず。件の張本ら、世間云々の上、本寺に落書あり。その状云々の説の如し。よってかれについて張本を召さると云々。」(「玉葉」同日条)。

5月8日

・平知盛、この日夜から重病に冒され、「万死に一生、頗る物狂(ものぐるい)か」といわれた。

清盛は10日に上洛し、翌日福原に帰っている。12日には知盛が「平減(へいげん、健康状態に戻ること)」しているので、急を聞いて見舞いに駆けつけ、病が峠を越えたのを確認して戻ったと考えられる(『玉葉』)。

この時既に以仁王の件を知っての上洛との説もある(15日に行動を起こしている)。

病名の「物狂」は、『和名抄(わみょうしょう)』(10世紀前半に成立した日本最初の分類体の百科辞書)では、「癲狂(てんきょう、癲と狂)」を和語で「毛乃久流比(ものくるひ)」と読ませているが、「狂(精神病性障害)」とは考えられないので、「癲」の症状と思われる。


つづく


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