2022年7月14日木曜日

〈藤原定家の時代055〉治承4(1180)4月27日~29日 行家のこと 令旨の内容 宣旨の意義 京につむじ風 「又、治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。」(「方丈記」)    

 


治承4(1180)

4月27日 (行家のつづき)

○源十郎蔵人行家(?~1186):

源為義の10男(「為義は思ひ者おはかりければ、腹々に男女の子ども四十二人(46人説も)ぞありにける」)。本名義盛。保元の乱(保元元年(1156)7月10日~29日)で、父為義、8男八郎為朝を除いて、4、5、6、7、9男の5人が斬られ、十郎義盛が外れ、彼の弟の乙若13歳、亀若11、鶴若9、天王7までも船岡山で斬首。平治の乱(平治元年(4459)12月9日~26日)で兄義朝が斬られる。尚、八郎為朝(1139~70)は、「十三歳にて筑紫へ下り、九国を三年にうちしたがへて、六年をさめて十八歳にて都へのぼり、保元の合戦に名をあらはし、廿九歳にて鬼が島へわたり、鬼神をとツて奴(ヤッコ)とし、一国の者おぢおそるといヘども、勅勘の身なれば、つひに本意をとげず、三十三にして自害して、名を一天にひろめけり。/「いにしへより今にいたるまで、此為朝ほどの血気の勇者なし」とぞ諸人申ける。」(「保元物語」末尾)とある。この時、8男為朝が18歳とすれば、十郎義盛は15歳前後か?

平治の乱の最初の山場「待賢門の軍の事」に、「義朝たのむ所のつはものどもには、嫡子悪源太義平、十九歳、次男中宮大夫進朝長、十六歳、三男兵衛佐頼朝、十三歳、義朝が舎弟三郎先生義憲(「範」とも)、同十郎義盛、伯父陸奥六郎義隆・・・その勢、二百余騎にはすぎぎりけり」とあり、「軍は(十二月廿六日)巳の刻(午前10時)半ばより」始まりる。決戦は六波羅合戦で、十郎義盛も、甥頼朝、兄三郎先生らと「六波羅・・・へをしよせ、一二の垣楯(ダテ)うちやぶりておめひてかけ入、さんざんに戦」う。ところが戦半ば、長老源頼政300余騎をあげて官軍方(平氏)へつき、戦の帰趨が定まる。

かくて義朝軍は、敗北、「叡山西坂本を過ぎ、小原(大原)の方へ」落ちる。ここで「三郎先生(義範)、十郎蔵人は、義朝に申しけるは『いかにもして東国へ御下向候て、(関東の)八ヶ国の兵共はみな譜代の御家人にて候へば、彼等をさきとして、都へせめのばらせ給はん事、何の子細か候べき。其時まで、われらも山林に身をかくして待奉り、先途の御大事には、などかあはで候べき。御なごりこそ(惜しく候へ)』とて、泣き泣きいとまをこひ、小原山の方へぞ落行ける」。これが、十郎の長兄で、頼朝・牛若らの父、左馬頭義朝との訣別の時であった。この時の状況は、「愚管抄」5に「義朝ガ方ニハ郎党ワヅカ二十人ガ内ニナリケレバ、何ワザカハセン」とあり、義朝の運命はほぼ極まっている。

平治元年(1159)平治の乱後、熊野新宮に逃れ成長し、新宮十郎と称される。この年治承4年、八条院蔵人となり行家と改名。5月、以仁王の平氏追討令旨を持って東国に下り、頼朝ら諸国の源氏蜂起を促す。翌養和元年(1181)、尾張・三河の武士を率い、平重衡らの軍勢と墨股川で戦うが敗走。頼朝を頼るが容れられず、木曽義仲軍に加わり、寿永2年(1183)7月、平氏西走後の京都に入り、従五位下備前守に補任される。その後、義仲と不和になり義経と結ぶ。平氏滅亡後の文治元年(1185)、義経と頼朝の対立が表面化すると義経に協力し、後白河法皇から頼朝追討宣旨を得て、四国の地頭に補される。しかし、軍勢が得られず挙兵に失敗。両人に対する追討院宣が諸国に下され、文治2年(1186)5月12日、和泉国小木郷に潜伏している所を発見され、子の光家と共に斬殺(「吾妻鏡」文治2年5月25日条)。

令旨の内容。

「下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らの所、

 まさに早く清盛法師ならびに従類叛逆のともがらを追討すべき事

 右、前の伊豆守上五位下源朝臣仲綱宣す、 

 最勝王の勅を奉るにいはく、清盛法師ならび宗盛ら、威勢をもって凶徒を起こし、国家を亡ぼし、百官万民を悩乱し、五畿七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪し、命を断ち、身を流し、淵に沈め、楼に込め、財を盗み、国を領し、官を奪い、職を授け、功無きに賞を許し、罪にあらざるにとがに配す。あるいは諸寺の高僧を召しとり、修学の僧徒を禁獄し、あるいは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮食に相具す。百王の跡を断ち、一人の頭を切り、帝皇に違逆し、仏法を破滅すること、古代に絶するものなり。時に天地ことごとく悲しみ、臣民皆愁ふ。よって吾は一院の第二皇子として、天武皇帝の旧儀を尋ねて、王位をおし取るの輩を追討し、上宮太子の古跡を訪ひて、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんとす。ただに人力の構へを憑むのみにあらず、ひとへに天道のたすけを仰ぐところなり。これによつて、もし帝王・三宝・神明の冥感あらば、なんぞたちまちに四岳合力の志なからんや。しかればすなはち、源家の人、藤氏の人、兼ねては三道諸国の間、勇士に耐へたるものは、同じく与力して追討せしめよ。もし同心せざるにおいては、清盛法師が徒類になぞらへ、死流追禁(しるついきん)の罪過に行ふべし。もし勝功ある者においては、まず諸国の使節に預らしめ、御即位の後、必ず乞ふに従ひて勧賞[けんじょう]を賜ふべきなり。諸国よろしく承知し、宣に依ってこれを行ふべし。

 治承四年四月九日  前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)」(「吾妻鏡」同日条)。

「現代語訳吾妻鏡」

「下命する 東海東山北陸三道諸国源氏ならびに群兵等の所に。早く、清盛法師およびその従頬たち謀反の輩を追討すべきこと。右のことは、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が命ずる。「最勝王(以仁王)の勅命を承った。清盛法師と宗盛らは、権勢に任せて凶徒に命じて国を滅ぼし、百官万民を悩ませ、五畿七道の国々を不当に支配し、上皇を幽閉し、廷臣を流罪に処して、命を断ったりその身を流し淵に沈めたり幽閉するなどして、財物を掠め取り回を領有し、官職を奪い与え、功の無いものを賞し、罪の無いものを罰している。諸寺の高僧を拘禁して学僧を獄に下し、また比叡山に絹や米を下して謀叛の際の兵糧米としている。百王の継承を断ち、摂関を抑え、天皇・上皇に逆らい、仏法を滅ぼすとは、前代未聞のことである。そのため、天地は皆悲しみ、民は皆愁えている。そこで私は、一院(後白河)の第二皇子として、天武天皇の昔にならって王位を奪うものを追討し、上官太子(聖徳太子)の先例にしたがい、仏法を滅ぼすものを打ち滅ぼそうと思う。ただ人力による用意のみを頼みとせず、ひたすら天道の助けを仰ぐものである。もし三宝と神明の思し召しがあれば、どうしてすぐにも全国の合力を得られぬことがあろうか。そこで、源氏の者、藤原氏の者や、前々より三道諸国に勇士として名高い者は、追討に協力せよ。もし同心しなければ、清盛に従う者に准じて死罪・流罪・追討・拘禁の刑罰を行う。もし特に功績のあった者は、まずは諸国の使節に伝えおき、御即位の後に必ず望み通りの褒賞を与える」。

諸国は、よく承り、この命令どおりに実行せよ。 治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)」

仲綱(1126大治元~80治承4):頼政の嫡男。母は源斉頼の娘。蔵人・隠岐守を経て、伊豆守。

宗信(生没年未詳):藤原北家末茂流。宗保の男。『延慶本平家物語』によれば、以仁王の乳母子であるという。「佐大夫」と称す。「散位」は、位階はあるが任官していない者。○為義(?~1156保元元):源義親の男。左衛門少尉に任ぜられ、久安2年正月26日、大尉に転じて検非違使兼官の宣旨を受ける。同6年、従五位下に叙せられるが、検非違使・左衛門大尉の官には留まる(叙留)。久寿元年、子息為朝が鎮西において濫行を行ったことにより解官される。為義は、藤原忠実・頼長に仕えていたことから、保元の乱が起こると崇徳・頼長側の軍事力の中心となる。戦に放れて出家、保元元年3月10日、長子義朝に斬られる。「廷尉」は、検非違使を兼ねる衛門尉の唐名。

宣旨の意義

「東海・東山・北陸三道諸国の源氏ならびに群兵等」に宛てて、「右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣す、最勝王の勅を奉はるに稱(いわ)く」と、

①国家護持の経典「金光明最勝王経」にちなみ、仏敵平家への諌筆をそこに仮託させ、自ら「最勝王」と名乗り、

②自己を王位継承者と想定し、令達を「勅」と表現する。本文のポイントは、「一院」第二皇子として、天武天皇の「旧儀」に基づき、王位を推し取る輩を追討する、「上宮太子」(聖徳太子)の例にならい、仏法の破滅者を討滅する、即位の後には、必ず賞賜すると示す。平家の罪状は王位奪取(後白河院幽閉、高倉天皇退位・安徳天皇即位)という叛逆と仏法破壊をあげ、自己の行為を壬申の乱における天武天皇の旧儀になぞらえ革命の正当化を行う。

これに呼応する東国源氏勢力の2つの方向。

①頼朝を中心とする立場。以仁王を旗頭に推戴し、令旨それ自体を行為の源泉とするもの。平氏中心の京都の王権とは別個の立場を堅持し、例えば、「治承」の年号を用い続け、反乱勢力としての自己を主張する頼朝の意識。裏返せば、頼朝の治承年号の放棄は、京都の王朝勢力との新たな関係創出、反乱軍からの脱却、王朝再建路線への方向の明確化、以仁王の「革命」路線の放棄を意味する。

②義仲のように最後まで以仁王の路線を堅持する勢力。義仲入京後、以仁王遺子北陸宮を定位に推す。

挙兵には、寺院勢力との連携も窺え、また、唐突なものでもなかったことが窺える。兼実は、令旨は「状の体を見るに偏へに山寺の法師の所業なり」(「玉葉」養和元年9月7日状)とする。

「玉葉」治承4年(1180)11月22日条に「伝へ聞く、関東より一院第三親王「伐害(バツガイ)せらるるなり」の宣と称し、清盛法師を誅伐すべし、東海・東北・北陸道等の武士、与力すべき由、かの国々に付す。又三井寺の衆徒に給ふと云々。その状、前伊豆守仲綱奉ると云々」とある。令旨が関東において高倉の宮の令旨と信じられ、広く流布し効果を発揮していたと推測される。

○信頼(1131天承元~59平治元)。藤原北家道隆流。忠隆の4男。保元3年、正三位・権中納言、右衛門督を兼ねる。後白河の近臣。同じ近臣藤原通憲(信西)と対立、源義朝と共に挙兵、平清盛軍に敗れ、六条河原で誅せられる(平治の乱)。

○「永暦元年三月十一日」。この日、前権大納言藤原経宗が阿波に、前権中納言源師仲が下野に、前参議藤原維方が長門に配流。

○「鳥羽の離宮に幽閉」:前年の治承3年6月、後白河は故藤原基実の遺領で清盛娘盛子が相続する庄園を没収、7月、清盛孫維盛の知行国越前を収公。11月、基実の子で清盛が中納言に推挙していた基通を超えて、藤原師家を中納言に任じる。この一連の処置を契機に後白河と清盛の対立が強まり、11月、福原より京に戻った清盛は院近臣を解官し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、後白河院政を停止。

○「謂」:『史記』推陰侯伝に「天、与うるに取らざれば、反って其の咎を受く。時、至りて行わざれば、反って其の殃を受く。」とある。

○直方(生没年未詳)。平維時の男。摂関家に仕え、平忠常の乱の際、追討使に任ぜられるが、降伏させることができないまま、源頼信に替えられる。源頼義を娘婿に迎え鎌倉を譲る。

○最勝王:以仁王をさす。信仰する者は諸天の加護を得ることができるという護国の経典『金光明最勝王経』への信仰から、最勝王と称す。

4月27日

・藤原定家(19)、高倉院の七瀬御祓の使を勤める。

「四月二十七日。晴天。未ノ時許リニ、院ニ参ズ。七瀬御祓ノ使ナリ(此ノ儀内裏ノ如シ)。台盤所ノ北面ニ於テ、御撫物ヲ取ルノ儀、禁裏ノ如シ。一条末ニ向フ。御祓了り、帰参シ、退出ス。今日御牛ヲ御覧ズ。蔵人引クナリ。内々ノ儀カ。」(「明月記」)。「撫物」は、玉体を撫でて祓う代である。賀茂川一条末が祓の場所。

4月29日

・申刻(午後4時頃)、京都につむじ風。暴風によって人家が多く破損し、七条高倉の辺では落雷、白河の辺では雹が降るなど、重なる天候異変で京中の人々は不安に襲われる。高倉上皇はこの暴風は朝家の大事であるとして、祈祷などを行うよう命じる。

「又、治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁・柱ばかり残れるもあり。門を吹きはなちて四五町がほかにおき、又垣を吹きはらひて隣とひとつになせり。いはむや、家のうちの資財、数をつくして空にあり。桧皮・葺板のたぐひ*、冬の木の葉の風に乱るるが如し。塵を煙の如く吹たてたれば、すべて目も見えず。おびたゝしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞えず。彼地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。・・・辻風は常に吹くものなれど、かゝる事やある、たゞ事にあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし」」(鴨長明(26)「方丈記」)。

「四月廿九日。天晴ル。未ノ時許り雹降ル。雷鳴先ヅ両三声ノ後、霹靂猛烈。北方ニ煙立チ揚ル。人焼亡ヲ称フ。是レ飄ナリ。京中騒動スト云々。木ヲ抜キ沙石ヲ揚ゲ、人家門戸幷ニ車等皆吹キ上グト云々。古老云ク、末ダ此ノ如キ事ヲ聞カズト。前斎宮四条殿、殊ニ以テ其ノ最トナス。北壷ノ梅樹、根ヲ露ハシ朴ル。件ノ樹、簷ニ懸リテ破壊ス。権右中弁二条京極ノ家、又此ノ如シト云々。」(藤原定家(19)「明月記」)。

「廻飄忽チ起り、屋ヲ発シ木ヲ折ル、人家多ク以テ吹キ損ズ」(兼実「玉葉」)。

「平家物語」巻3「飄」(つじかぜ):

正午頃、京の内に辻風が激しく吹き、人家が多く倒れる。「平家」では前年5月12日のことと記載される。


つづく


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