2022年7月19日火曜日

〈藤原定家の時代060〉治承4(1180)5月15日 (続き) 長谷部信連の奮戦 堂々たる弁明(「信連」(「平家物語」巻4))

 


〈藤原定家の時代059〉治承4(1180)5月15日 (続き) 以仁王の逃亡 検非違使の到着 長谷部信連の対応(「信連」(「平家物語」巻4)) より続く

治承4(1180)5月15日 (続き)

長谷部信連の奮戦(「信連」(「平家物語」巻4))。

「庁の下部の中に、金武と云ふ大力の剛の者、打物の鞘を外し、信連に目をかけて、大床の上へ飛び上る。これを見て、同隷(ドウレイ)ども十四・五人ぞ続いたる。

信連、これを見て、狩衣の帯・紐引切って捨つる侭に、衛府の太刀なれども、身をば心得て作らせたるを抜合せて、さんざんにこそ振舞うたれ。敵(カタキ)は大太刀・大長刀で振舞へども、信連が衛府の太刀に切立てられて、嵐に木の静の散るやうに、庭へさっと下りたりける。五月十五夜の雲間の月の、顕れ出でて明かりけるに、敵は不案内なり、信連は案内者にてありければ、あそこの面廓(メンロウ)に追っかけてははたと切り、こゝの詰(ツマリ)に追つ詰めてはちゃうど切る。

「如何に、宣旨の御使をばかうはするぞ」

と云ひければ、

「宣旨とは何ぞ」

とて、太刀曲(ユガ)めば躍り退き、推し直し踏み直し、矢庭(ヤニワ)によき者ども十四・五人ぞ切伏せたる。

其の後太刀の鋒(キツサキ)三寸ばかり打折れて捨ててけり。腹を切らんと腰を捜せども、鞘巻落ちてなかりければ、力及ばず、大手を拡げて、高倉表の小門より跳り出でんとする所に、大長刀持ちたる男一人寄りあったり。信連長刀に乗らんと飛んでかかるが、乗り損じて、股を縫ひ様(ザマ)に貫かれ、心は猛く思ヘども、大勢の中に取り籠められて、生捕にこそせられけれ。」

[説明]

○「打物」:

打ち鍛えて造った武具。太刀や長刀の類。打物で戦うことを「打物業(ワザ)」という。

○「同隷」:

同じ主人に隷属する者、同僚・同役の意。

○「抜き合はす」:

相手が太刀を抜いて斬りかかるのにあわせて自分も太刀を抜き応戦すること。

○「詰」:

「詰まる」の名詞化。行き止まりになっているような場所のこと。

○信連の太刀の切っ先が折れ、腹を切ろうとするが、鞘巻が落ちて無く、高倉表の小門から脱出しようとして負傷し、生け捕られる。延慶本などでは、信連はこの場を切り抜け、高倉宮秘蔵の笛を取り後を追い、これに同行。宮が宇治~奈良へ向かう途中、光明山の鳥居の前で討たれた際、追っ手の飛騨判官景高の手勢と戦って討ち死することになっている。

堂々たる弁明。

「前右大将宗盛卿、大床に立って信連を大庭に引居(ヒツス)ゑさせ、

「まことにわ男は、宣旨の御使と名のるを、『宣旨とは何ぞ』とて切つたりけるか。其の上、庁の下部ども、多く刃傷殺害したんなれば、よくよく糾問して、事の子細を尋ね間ひ、其の後河原に引出いて、首を刎ねよぞ宣(ノタマ)ひける。

信連元より勝れたる大剛の者なりければ、居直りあざ笑うて申しけるは、

「此の程あの御所を、夜な夜なものの窺(ウカガ)ひ候ふを、何でふ事のあるべきと思ひ慢(アナド)って、用心も仕(ツカマツ)らぬ処に、夜半ばかりに、鎧うたる者どもが、二三百騎打入って候ふを、『何者ぞ』と尋ねて候へば、『宣旨の御使』と申す。当時は諸国の窃盗・強盗・山賊・海賊など申す奴ばらが、或は『公達の人らせ給ひたるぞ』、或は 『宣旨の御使』などと名のり申すと、かねがね承って候ふ程に、『宣旨とは何ぞ』とて切つたる候。凡そ信連、物の具をも思ふ様に仕り、鉄(カネ)よき太刀を持つて候はんには、只今の官人どもをば、よも一人も安穏では帰し候はじ。其の上、宮の御在所は、何(イヅ)くに渡らせ給ひ候ふやらん、知り参らせぬ候。たとひ知り参らせて候ふとも、侍品(サブラヒホン)の者の、一度申さじと思ひ切りてん事を、糾問に及んで申すべき様なし」

とて、其の後は物も申さず。」

[説明]

○「わ男」の「わ」:

目下の者を軽んじて言う接頭語。お前・貴様。その軽蔑的な呼びかけに、宗盛の尊大さが窺える。

○「侍品の者」:

「品(ホン)」は位階・等級・身分などを示す語で、「侍品」はさむらいとしての身分。「侍」は、叙位任官し得る下級の有官位者としての家柄の者で、官位を持たない郎党や雑人(雑色・舎人・下部・力者等)などの「凡下」とは区別され、罪科に対しても拷問がなされず刑罰についても配慮がなされるなど、大きな特権を与えられている。社会的身分としての「侍品」は、一般には六位以下の官位を有する者で、時として五位の大夫までを含む。摂関家などの家政機関に所属する侍、所衆(トコロノシュウ)、滝口、帯刀などとして活躍。信連は兵衛尉であるが、兵衛府の大尉は従六位上、少尉は正七位上に相当するので「侍」であり、その「侍品」としての身分がら、一度言わないと言った事を、糾問されたからといって翻す事は出来ない、という。

「幾らも竝(ナ)み居たりける平家の侍ども、

「あっぱれ剛の者や、これ等をこそ一人当千の兵(ツハモノ)ともいふぺけれ」

と、口々に申しければ、其の中に或人の申しけるは、

「あれが高名は今に始めぬ事ぞかし。先年所にありし時、大番衆の者どもの留めかねたりし強盗六人に、只一人追つかゝり、二条堀川なる所にて、四人切り伏せ、二人生捕って、其の時なされたりし左兵衛尉ぞかし。可惜男(アツタラヲノコ)の斬られんずる事の無漸(ムザン)さよ」

と、惜しみあへりければ、入道相国いかが思はれけん、

「さらば、な切(キ)つそ」

とて、伯耆の日野へぞ流されける。

平家滅び、源氏の世になって、東国へ下り、梶原平三景時について、事の根元一々(コンゲンイチイチ)に申したりければ、鎌倉殿神妙なりと感じ給ひて、能登国に御恩蒙(ゴオンカウブ)りけるとぞ聞えし。」

信連の堂々とした弁明ぶりは、その場に居並ぶ平家の侍たちの心を捉える。侍たちの哀惜(アイセキ)の言葉を聞き、清盛は、どう思ったのか(「入道相国いかが思はれけん」)、「それなら斬るな」と言い伯耆の国の日野(鳥取県日野郡日野町)に流罪にする。

信連のその後:

平家滅亡後、許されて東国に下り、梶原景時の口添えで頼朝にその功を賞され、能登に所領(能登国鳳至(フゲシ)郡大屋庄の地頭職)を与えられる。「源平盛衰記」では、文治2年(1186)、頼朝は「剛の者の胤を継がせん」と言って、由利小藤太重範の後家を信連に娶せ、自筆で下文を認め、「鈴の庄」と呼ばれる能登の大屋の庄を与える。人々は、「治承の昔は平家に命を助けられ、文治の今は源氏に恩を蒙れり。武勇の名望有り難し」と囁きあったという。この年7月、信連はこの地に入部し、庄内の穴水に居住したという。輪島市山岸町に彼の墓があり、穴水の長谷部神社はその霊を祀ると伝えられる。

「吾妻鏡」(文治2年4月4日条)の記述。

「右兵衛尉長谷部信連は、三条宮の侍なり。宮、平家の讒(ザン)によって配流の官符を蒙りたまふの時、廷尉(テイフ)等御所に乱入するのところ、此の信連、防戦の大功あるの間、宮は三井寺に遁(ノガ)れしめたまひをはんぬ。しかるに今奉公を抽(ヌキ)んでんがために参向す。よって先日の武功に感じ、わざと御家人として召し仕ふの由、土肥二郎実平<時に西海にあり>が許に仰せ遣はさると云々。信連、国司より安芸国検非違所ならびに庄公をこれに給はりをはんぬ。見放つべからざるの由と云々」

これによると、安芸国の検非違所に補せられ、荘園を与えられたとある。しかし、その後、能登に移ったらしく、晩年は出家し能登で没したという(72歳)。

「今日左兵衛尉長谷部信連法師、能登国大屋庄河原田に於て卆(シユツ)す。これもと故三条宮の侍にて、関東御家人に進みしなり。」(「吾妻鏡」建保6年(1218)10月27日条)。


つづく


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