2022年8月13日土曜日

〈藤原定家の時代086〉治承4(1180)9月以降の頼朝を巡る動静概観(その1) 〈内乱の状況〉 〈内乱の推進力〉 〈頼朝を巡る政治的環境〉 

 


〈藤原定家の時代085〉治承4(1180)8月26日~29日 衣笠城の合戦(畠山重忠・江戸重長・河越重頼ら、衣笠城攻撃。三浦義明討死。三浦義澄・和田義盛ら安房に逃亡) 頼朝ら真鶴より安房に向かう 時政・義時ら土肥浦より房州に向かう より続く

治承4(1180)9月以降の頼朝を巡る動静概観(その1)

治承4(1180)8月で、頼朝の伊豆での「謀叛」~敗北~房総への逃亡までを見てきたが、以降、頼朝と同じような「謀反」が、東国一帯から同時多発的に全国に拡大し、謀反は内乱状況(「治承・寿永の内乱」)に転化してゆく。

今回は、今後(治承4(1180)9月以降)、生起する内乱への転化過程を予め概観する。

〈内乱の状況〉

①畿内近国の状況

以仁王・頼政の挙兵失敗後、これと連携を試みた有力寺院勢力は衰えてゆく。

その後、冬頃から近江源氏の活動に合わせて、再び反平氏の気運が増してくる。『玉葉』は、甲賀入道および山下兵衛尉(山本義経)らが、延暦寺・園城寺宗徒と連帯しつつ、近江国全域で反乱を組織しているという。

11月半ば、摂津源氏の手嶋蔵人が、福原の邸宅に火を放ち近江源氏と合流。ほぼ同時期に、近江源氏の一族は琵琶湖を制圧し、北陸道から京都に入る年貢その他の物資を押さえるに至る。また、美濃の美濃源氏や若狭の有力在庁もこれに同調する動きを見せる。

山本義経は、12月には頼朝を訪ねている。この時期、志田義広、源行家、足利義兼らの諸源氏も頼朝の下に参じ、諸国源氏勢力の頼朝を軸とする連携が生まれている。

また、紀伊熊野の別当湛増(平治の乱では清盛の熊野参詣からの帰洛を助けた)が、反平氏の動きを示し始めている。この勢力は、年末から翌年にかけて、熊野水軍を率い伊勢・志摩(清盛の祖父正盛以来の伊勢平氏の基盤の地)を襲撃している。

なお、熊野水軍は、その後の壇ノ浦合戦では源氏側の中核戦力を構成する。

更に、河内石川源氏は12月から翌年にかけて興福寺衆徒と組んで蜂起する。

②鎮西の状況

(清盛の父忠盛が肥前神崎庄を基盤として日宋貿易を展開し、かつ清盛は太宰大弐でもあり、伝統的に平氏勢力の基盤が強い地域)

この地での謀反は、『玉葉』が、「伝へ聞く、筑紫また叛反の者あり」(『玉葉』治承4・9・19)とし、年末から翌年にかけては内乱の状況を呈するようになる。

治承5年正月、菊池高直の勢力は数万となり、追討の宣旨が出され、2月には「鎮西謀叛の輩、日をおつて興盛」(同、治承5・2・15)という状況となる。

この時期、豊後国でも緒方惟義が蜂起したり、目代追放という騒擾事件がおきている。

その後、九州の反乱勢力は、平氏の有力家人平貞能の鎮圧で一時的に収まり、さらなる段階をむかえることになる。

四国では、土佐国の源希義、伊予国の河野通清を中心とした勢力が叛旗を翻す。

治承・寿永の内乱は、平氏軍制の展開によって地域社会に醸成された領主間競合に基づいて、全国各地でみずからの地域支配を実現しようとする大小さまざまな蜂起をよび起こしていったのであり(元木泰雄「平氏政権の崩壊」)、「源平」争乱として認識されるよりは、はるかに広範囲に、しかも地域社会レベルでの利害と深くかかわりながら展開した。

〈内乱の推進力〉

頼朝が蜂起した要因は、以仁王の令旨ではなく、以仁王の挙兵事件以後の軍事的緊張の高揚にともなう東国での平氏家人の活動の活発化である。

源氏の流人であった頼朝はもちろんのこと、平氏軍制から疎外された東国の武士たちのなかには、所領支配のみならず、自身の存亡の危機にまで直面していた者もあり、そうした切羽詰まった現実の状況が、頼朝に挙兵をうながし、それを実行させた最大の要因であったと推測される。

そして、頼朝が富士川合戦後のようにみずからの反乱軍を構成している有力武上団の意向に左右される状況を脱して、東国の軍事集団内部で主導性を確立するようになるのは、平氏西走後、朝廷から東国支配権を公認された寿永2年(1183)10月宣旨を獲得し、さらに同年末に上総介広常を暗殺した段階のことであったと思われる。


〈頼朝を巡る政治的環境〉

頼朝の再起は房総から始まる。

9月1日、安房の安西景益に参向をうながし、3日には小山朝政・下河辺行平・豊島清元・葛西清重ら武蔵を中心とする関東の有力武士たちにも呼掛ける。

4日、頼朝の命運を左右する両総の雄上総・千葉両氏へ使者を派遣(上総介広常へは和田義盛、千葉介常胤には安達盛長が遣わされる)。

広常の弟金田頼次が三浦義明の聾であり、「上総御曹司」と称された父義朝以来の縁もあるが、広常の動静定かならずとの風評もあり、使者派遣となった。広常は、「千葉介常胤と談じて後、参上すべし」と返答。

しかし、盛長が千葉氏帰順の報を持ち帰り、ここに房総諸域の帰趨が決する。

この間、頼朝は甲斐の武田信義・上野の新田義重らの諸源氏にも結集を呼び掛け、8日には時政を甲斐源氏との協力のために派遣する。

13日、頼朝は300余騎を率い安房を発ち、上総に向う。広常の参着はなく、17日下総に入る。ここで千葉常胤が300余騎で参会。そして、19日、頼朝が隅田川辺に進んだところでようやく広常が上総全域の軍勢2万騎を率いて参陣。広常は「二図(にと)の存念」で臨んだが、逆に遅参を咎められ、そのことで、広常は頼朝の源家の嫡流たる器量の大きさとその威風に感じたちまち和順したと「吾妻鏡」は伝える。

鎌倉への途

安房・上総・下総の武士団をあわせせ約2万7千、これに北関東の常陸・上野・下野などの武士が加われば、頼朝軍は5万騎に及ぶ。

そして、10月6日、頼朝は父祖の地相模鎌倉に到着。頼朝は鶴岡八幡宮を遥拝し、義朝の亀谷の旧跡を訪れ、開府にむけての諸事を大庭景能に指示する。

父祖の地とされた鎌倉は、初めから源氏の縁りの地ではなく、かつては平貞盛の孫の直方が屋敷を構えていた。直方は、平忠常の乱の追討使となるものの更迭され、源頼信が乱の鎮圧にあたる。

直方は、頼信の子頼義の武勇に感じ聾に迎えた。八幡太郎義家はこの結果、源氏と平氏の血の混合として誕生し、直方の鎌倉の館は、源氏が継承することになる。"

鎌倉入りを果した頼朝は、10月16日、落ち着く間もなく出陣。その4日後、富士川合戦で平氏軍に勝利する。

しかし、平氏軍はこの富士川合戦で敗れはしたものの、寿永2年(1183)初頭までは反乱諸勢力より平氏の勢力がむしろ優勢であって、富士川合戦後も3年近くにわたって都を守りつづけていく。


つづく

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