2022年9月13日火曜日

〈藤原定家の時代117〉治承5/養和元(1181)年閏2月1日~4日 「美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、勢日を追って万倍すと。大略万事至極の時なり。」(「玉葉」) 清盛(64)没 「凡そ過分の栄幸、古今の冠絶するもの歟。就中、去々年以降、強大の威勢、海内に満ち、苛酷の刑罰、天下に普(あまね)し。遂に衆庶の怨気天に答え、四方の匈奴変を成す。」(「玉葉」)        

 


〈藤原定家の時代116〉治承5/養和元(1181)年2月16日~29日 追討軍の大将を知盛(病気)から重衡に代える 清盛発病 「鎮西に於いて兵革有り。」(「玉葉」) より続く

治承5/養和元(1181)年

閏2月1日

「禅門(清盛)の所労、十の九は、その憑(たの)みなし」(「玉葉」同日条)。

「又云く、筑前の国司貞能申し上げて云く、兵粮米すでに尽きをはんぬ。今に於いては計略無しと。仍って急ぎ攻めんと為す。前の幕下俄に下向せんと欲するの間、禅門の病に依て後れをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。

閏2月3日

「美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、勢日を追って万倍すと。大略万事至極の時なり。」(「玉葉」同3日条)。

閏2月3日

・藤原定家(20)、束帯で旧院の法事に参じ、親友の藤原公衡侍従と、無常の悲しみを語り合う。

閏2月4日

・平清盛(64)没

九条河原口の平盛国の家。東大寺や興福寺を焼き払い多くの僧や稚児を焼死させた罰という囁きが洛中で聞かれる。後白河法皇へ、没後は平宗盛と政務の相談を要請するが返事なし。守護仏の十一面観音を平教盛に譲渡。葬送の夜、西八条の館が放火焼失。平重衡・平経正の郎等が衝突し、平経正が平宗盛に陳謝。藤原忠清・景家兄弟、出家。侍大将忠清は現役引退。

清盛は遺言して(「吾妻鏡」)、死後は3日以後に葬儀をなし、遺骨は播磨国の山田法華堂に納めること、仏事は毎日行う必要はなく、7日ごとに行えばよいこと、京都で追善を行ってはならず、子孫はひとえに東国の謀反が治まるように計らうべし、と命じ、さらに子孫がたとえ生き残る者一人になっても骸(むくろ)を頼朝の前に曝すまで戦うようにとも命じたいう。

福原の西方、明石海峡を眼前に望む播磨国山田の地には、一年前に高倉上皇が厳島参詣に向かった際に昼食をとった清盛の別荘が営まれており、法華堂はその邸宅に付属した施設であった。清盛はその最も愛した土地に眠ることを望んだ。

朝方に死を予感した清盛は、円実(えんじつ)法眼を後白河法皇の許に派遣して、愚僧(清盛)の死後のことは万事につけ宗盛に命じておいたので、宗盛とともに天下のことを計らってほしい、と伝えたという。だが法皇からは明瞭な返答がなく、それを怨んだ清盛は、天下の事はひとえに宗盛が計らうようにしたので異論はあるまい、と法皇に伝えたという。

「昨日朝、禅門圓實法眼を以て、法皇に奏して云く、愚僧早世の後、万事宗盛に仰せ付けをはんぬ。毎事仰せ合わせ、計り行わるべしとてえり。勅答詳らかならず。爰に禅門怨みを含むの色有り。行隆を召して云く、天下の事、偏に前の幕下の最なり。異論有るべからずと。」(「吾妻鏡」同5日条)。

清盛は高熱を発して身は火のように熱かったといい、それは東大寺と興福寺を焼いた報いであるとの噂が流れた。6日に清盛の八条坊門邸が炎上し、8日の葬礼には東方で今様の乱舞の声が聞こえてきたので、人をやって見させると、最勝光院中から聞こえてきたという(『百錬抄』)

「入道太政大臣薨ず。天下走り騒ぐ。日来所悩あり。身熱火の如し。世以て東大興福を焼くの現報となす。八日葬礼。車を寄するの間。東方に今様乱舞の声あり。人を以て之を見しむ。最勝光院中に聞くと云々。」(「百錬抄」同日条)。

兼実が語る清盛の一生

清盛(法名静海)は、累葉武士の家に生まれ、勇名世に被る。平治の乱逆以後、天下の権、偏(ひとえ)に彼の私門に在り。長女は始めて妻后に備(そなわ)り、続て国母(こくぼ)となる。次で女両人共に執政の家室(かしつ)となりて、長嫡重盛、次男宗盛、或は丞相(じようしよう)、或は将軍を帯し、次で二子息昇進心に恣(ほしい)ままにす。凡そ過分の栄幸、古今に冠絶するものか。中(なか)ん就(づ)く、去々年以降、強大の威勢、海内に満ち、苛酷の刑罰、天下に普(あまね)くす。遂に衆庶の怨気、天に答へ、四方の匈奴(きようど)、変を成す。

このように平治の乱後に天下の権を握って栄華をほしいままにしたことや、治承のクーデターにより天下に逆罪を行使したことなどを語ったのち、因果の理(ことわり)を案ずると、敵軍のために滅ぼされるか、首を矛に懸けられて戦場に骸を曝すか、弓矢刀剣の難にあうかのそのいずれかなのに、このように病席で命を終えるのは、宿運の貴さによるもので人意の測るべきものではないが、しかし神罰・冥罰によるものであると指摘。

兼実はかつて清盛が出家した時に天下の安否がどうなるのかと憂いたが、ここでは、清盛死後の天下について、伊勢神宮と春日大明神に任せるだけと記す。

「准三宮入道前太政大臣清盛 法名靜海 は累葉(るいよう)の武士の家に生まれ、勇名、世に被(こうぶ)う。平治の乱逆以後、天下の権、偏にかの私門に在り。長女(徳子)は始めて妻后に備わり、続いて国母となる。次女両人は執政の家の室家となる。長嫡重盛、次男宗盛、或いは丞相に昇り、或いは将軍を帯び、次の二子息は昇進恣(ほしいまま)にす。凡そ過分の栄幸、古今の冠絶するもの歟。就中、去々年以降、強大の威勢、海内に満ち、苛酷の刑罰、天下に普(あまね)し。遂に衆庶の怨気天に答え、四方の匈奴変を成す。何んぞ況んや、天台法相の仏を魔滅するをや。只に仏像堂合を堙滅するのみにあらず、顕密正教、悉く灰煙と成る。師跡相承の口決を抄出するに、諸宗の探義、秘密の奥旨、併せて回祿に遭う。此の如きの逆罪、彼の脣吻にあらざるはなし。倩(つらつ)ら修因感果の理を案ずるに、敵軍のために其の身を亡ぼされ、首を才鋒に懸けられ、骸を戦場に曝すべきを、弓矢刀剣の難を免れ、病席に命を終う。誠に宿運の貴き、人意の測る所にあらざるか。但し神罰冥罰の条、新らたに以て知るべし。日月地に墜ちず、爰にして憑あるものか。此後の天下安否は、只伊勢大神宮、春日大明神に任せ奉るのみ」(「玉葉」同5日条)。

実力で政権を奪う時代としての中世を切り開き、朝廷の政治世界に武家の地位を確立させた清盛

清盛の一生は、平治の乱と治承3年(1179)のクーデターが大きな画期になっていた。保元の乱によって武力で朝廷を支える体制に組み込まれ、それを平治の乱において確実なものにした。乳父となって二条天皇を補佐し、さらに摂関や天皇の外戚として政治を補佐することになった。仁安2年(1167)の出家後は福原に本拠を移し、平氏一門の核となって背後から政治を補佐していた。『十訓抄』は、清盛は心が温かく、度量の広かったというエピソードを語っている。

だが、治承元年の鹿ヵ谷事件から国政の中枢に位置せざるをえなくなり、外孫に皇子が誕生したことで、その皇位継承を図る過程で、治承のクーデターを起こすことになる。

清盛は、平治の乱前までは父の忠盛を範として行動していた。政界を注意深く観察して、貴族との交わりをもち、武家としての地位を高めてゆく行動は、忠盛の生き方と変わらない。

平治の乱後は信西の行動に倣い、天皇の乳父として政治に影響力を与え、子息たちを政界の要職に送って、政治の実務に深く関与するとともに、院にも仕えて奉仕することを怠らなかった。

二条天皇死後は、摂関家の忠実にならって、朝廷を補佐する武家として平家を位置付け、出家後も、普段は別荘にいて、子息や兄弟・縁者を通じて政界をコントロールし、重要な問題になると、別荘から出てきて政治に直接に介入することを辞さなかった。

そして治承3年以後になると、天皇の祖父として振る舞うようになり、その立場から後白河上皇を退け、摂関を退け、福原へ遷都した。

清盛は、常に政治的な脱皮を繰り返しながら、武家の地位を高めていった。それゆえ、後世の武人政治家は清盛を範とするようになった。"

「臨終動熱悶絶ノ由巷説」(「明月記」)。

築島(つきしま、「平家物語」巻6):

清盛葬送の夜(事実はその2日前の6日夜)、西八条坊門殿が焼失(全焼ではなかった)、それは放火とうわさされている。清盛は九条河原ロの盛国邸で没し、8日の葬送まで遺骸はここに置かれていて、一門家僕の多くもここに集っていて、西八条邸は警備も手薄になっていた。この時期、平家・清盛に反感を抱く者は少なくなかった。葬送の日、30人ばかりの者が今様をうたい乱舞する声が聞えた。その声は最勝光院(後白河法皇の法住寺御所の中にあり、建春門院滋子の立願により法皇が建立した)の中から聞えたといい(『百錬抄』)、『平家物語』は、「嬉しや水、鳴るは瀧の水」とはやしたて、舞い踊り、どっと笑ったとある。平家の兵百余人つかわして調べたところ、御所預備前前司基宗が、相知ったる者どもを集めて乱痴気騒ぎに及んでいたものであった。彼らをからめ取って六波羅屋敷に拉致したが、宗盛は、そんな酔払いを斬っても仕方がない、といって帰したとある。


つづく


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