2022年9月12日月曜日

〈藤原定家の時代116〉治承5/養和元(1181)年2月16日~29日 追討軍の大将を知盛(病気)から重衡に代える 清盛発病 「鎮西に於いて兵革有り。」(「玉葉」)

 


〈藤原定家の時代115〉治承5/養和元(1181)年2月1日~15日 各地から源氏・与党の蜂起を伝える飛脚が到来(飛脚到来(「平家物語」巻6)) 反平氏の勢力「日を逐って興盛」 知盛の軍勢が池田奉光を討ち取る 尾張に進出した行家に対する官軍(平家軍)の戦闘準備 より続く

治承5/養和元(1181)年

2月16日

・平知盛、病気のため近江・美濃方面追討から帰洛。総大将を重衡と交代。

重衡の軍勢は、肥後国の菊池隆直らの九州の反乱鎮圧に派適される予定であった。しかし、重衡の軍勢が美濃国に転用されたため、九州にいる有力な平氏の家人原田種直を太宰権少弐に補任して九州を束ねさせようとした。しかし、原田種直は菊池隆直討伐の軍勢は起こせず、同年8月、平氏重代の家人平貞能の軍勢が、京都から派遣されることになる。

「また聞く、関東の反賊等半ばに及び、尾張の国に越え来り、十郎蔵人義俊を以て大将軍と為すと。その勢幾千万を知らず。官軍度々の合戦に疲れ、頗る弱気有りと。また左兵衛の督知盛卿、所悩に依って俄に帰洛を企て、来十二日入洛すべし。その替わり、頭重衡朝臣行き向かうべしと。大将軍の帰洛、不吉の徴たるの由、天下謳歌すと。尤も然る事なり。」(「玉葉」同9日条)。

「伝聞、知盛卿帰洛しをはんぬ。その替わり、重衡朝臣向かうべきの由、その儀有り。然れどもその儀忽ち変り、鎮西に遣わさるべしと。」(「玉葉」同日条)。

2月17日

「伝聞、熊野の法師原、阿波の国を焼き払い、在家の雑物・資材・米穀等の類を追捕す。一物遺らず捜し取りをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

また、この頃の美濃駐留の平家軍は「僅か七八千騎」といわれている(『玉葉』同日条)

2月19日

・藤原定家(20)、東寺円能阿闍梨より経2~3巻の訓を受ける。

2月25日

・平清盛、発病(黄熱病と推測される)。

2月25日

・越後平氏城助永(資長)、病没。

助永は、この日までに越後・会津4郡・出羽南部の軍兵1万を動員、この日を期して出撃予定であったが、前日卒中を発し、この日没。助永の跡は弟助職が継ぐ。源義仲の勢力が越後へ強まる。

越後平氏(鎮守府将軍平維茂の後裔):

延喜・天暦時代(10世紀前半)恒武天皇の高望王流平氏が地方進出。高望王の子平国香の子貞盛・繁盛は地方に勢力を張ると同時に中央でも武将として重んじられる。貞盛は、天慶の乱(939~40)鎮定の功により陸奥守鎮守将軍となり伊勢平氏繁栄の基礎を作る。繁盛の子兼忠は、武人として知られ、天元年間(980年頃)、出羽介在任中に秋田城城務を遂行し出羽方面で名を売る。兼忠の子維茂は、鎮守府将軍・信濃守を歴任、のち越後守に任命され、蒲原郡奥山荘を獲得又は開発、後半生を越後で過し、奥山荘経営と近傍荘園の獲得に務める。一門は、小河荘・白河荘・加地荘を入手し、一方で、奥山荘・白河荘を摂関家に寄進して自らは荘司になるなどして経済的基盤を固める。長元8(1035)年末、維茂1男繁貞は勅勘を蒙る。弟(2男)の繁成は出羽城介に任命されているが、これに因んで、彼の子孫が城家と呼ばれ、維茂流の中軸をなす。天仁元年頃(1108年頃)、源義親が越後に潜入との風聞あり、城二郎(平永基)は朝廷に追捕を請い、追捕使に任命される。永基の子助国(資国)は、東に隣する置賜地方(出羽南部)に進出。助国の子助永は、会津の恵日寺の衆徒頭乗湛房に小河荘を寄進したと伝えられる。助永の時代は、城家の最盛期で、越後国司支配は、蒲原郡には及ばなくなる。

嗄声(しわがれごえ、「平家物語」巻6):

城太郎助長、木曾追討に出発する前日の夜中、大きなしゃがれ声が「仏を焼いた平家の味方を召し捕れ」と響く。構わず出立しようとして助長は頓死。

2月26日

・藤原定家(20)、俊成の供で嵯峨の法輪寺・広隆寺等に参詣。帰路、法金剛院にて上西門院兵衛、歌を送ってくる。上西門院統子は、鳥羽天皇と待賢門院藤原璋子の皇女で、前斎院であり、母譲りの美貌を謳われた。兵衛はその女房で歌人であり、西行とも親交があった。

二月二十六日。晴天。入道殿ノ御供ニテ嵯峨ノ法輪・広隆寺等ニ参ズ。帰路、法金剛院馬場屋ニ入リ、池ノ辺ヲ歴覧ス。上西門院兵衛、歌ヲ投グ。法印上童ヲ以テ使卜為ス。

2月27日

・この日、清盛は「頭風(ずふう)」を病み、翌日その頭風は殊の外増しているとのことだ、という伝聞を『玉葉』が記す(「頭風」は高血圧の類か)。

28日、兼実は邦綱・清盛の許に見舞いの使者を派遣

2月27日

・平宗盛、源氏追討中止(清盛発病の為)。下旬、平家軍、尾張川(現木曽川)増水のため渡河せず(京には3月1日伝聞)。

2月27日

・安田義定、遠江より追討軍(平維盛・通盛・忠度)尾張到着と源頼朝に連絡。

28日、頼朝、和田義盛らを遠江へ派兵。

2月29日

・この頃、「阿波民部重(成)良の徒党」が、美濃で尾張の源氏方と交戦(『玉葉』同日条)。成良は、南都焼計の重衡率いる部隊の先陣を務めており、その後美濃方面に転出を命じられたのであろう。

2月29日

「鎮西に於いて兵革有り。これ肥後の国住人菊池の次郎隆直・豊後の国住人緒方の三郎惟能等、平家に反くが故なり。隆直に同意するの輩、木原の次郎盛實法師・南郷大宮司惟安。惟能に相具する者、大野の六郎家基・高田の次郎隆澄等なり。此の外、長野の太郎・山崎の六郎・同次郎・野中の次郎・合志の太郎、並びに太郎資泰已下六百余騎の精兵を率い、関を固め海陸の往還を止む。仍って平家方人原田大夫種直、九州の軍士二千騎を相催し、合戦を遂ぐ。隆直等が郎従多く以て疵を被ると。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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