2022年11月22日火曜日

〈藤原定家の時代187〉寿永3/元暦元(1184)年9月1日~20日 範頼軍、京を進発 平信兼の宅地が義経に与えられる 河越重頼の娘、義経に嫁すために京に向う 義経、検非違使のまま従五位下に叙任       

 


〈藤原定家の時代186〉寿永3/元暦元(1184)年8月17日~28日 頼朝は本当に義経の「自由任官」に「激怒」したのか? 「この事頗る武衛の御気色に違う。、、、これに依って平家追討使たるべき事、暫く御猶予有り」(「吾妻鏡」) より続く

寿永3/元暦元(1184)年

9月

・藤原定家(23)、賀茂社歌合に出詠二首

9月1日
・範頼、九州の平家残党を鎮圧すべく、京を出発。義経、頼朝の命により京に留まる。
9月2日
「小山の小四郎朝政西海に下向す。参州に属くべきの由仰せらると。また彼の官途の事、左右兵衛の尉を望み申す所なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月5日
・頼朝の奏請により、掃部頭安倍季弘を解官。法皇、その旨を義経に伝える。

「去る五日、季弘朝臣所帯職を停られをはんぬるの由、仙洞より源廷尉義経に仰せらる。義経またその旨を申す所なり。彼の状今日鎌倉に到来すと。」(「吾妻鏡」同28日条)。

9月9日
・頼朝、義経へ、平家の没官領のうち京都の家地の配分は後白河が沙汰するが、平信兼の没官地は義経に沙汰させると伝える(「吾妻鏡」同日条)。一ノ谷合戦後、義仲に渡っていた平氏没官領は頼朝の沙汰となったが、京内の家地(宅地)については後白河の沙汰するところであった。しかし、そのうちの1ヵ所とはいえ、平信兼の宅地が義経に与えられた。

9月11日
・大江広元、頼朝に招かれて鎌倉に下向、この日、因幡守に任ぜられ、鎌倉幕府の創立に参画。

大江広元:
朝廷に代々文章道(もんじょうどう)を勤めた家柄の文人(学者)。法律、故事、文の読み書き、解釈、記録等の出来る実務官僚。守護・地頭を発案。

9月14日
・頼朝の計らい武蔵の河越重頼の娘、正妻として義経に嫁すために京に向う(「吾妻鏡」同日条)。

重頼の妻は頼朝乳母。文治元年11月12日義経の離反が明らかになった時点で、重頼の所領は没収。文治5年閏4月30日義経自害の折、妻(22)・娘(2)がいたというが、この妻は重頼の娘と見られる。

9月18日
・義経、検非違使のまま従五位下に叙任。以降、義経は「大夫(五位)判官検非違使の尉」と称される。

「九郎判官は五位の尉に叙して、大夫判官とぞ申ける。蒲の御曹司範頼三河守になさる。」(「平家物語」)

義経の官職、検非違使左衛門尉は、官位相当制によれば六位相当の官職である。ところが、義経は、従五位下に昇進した。形式的には貴族の仲間入りを果たした。六位相当の官職に就いている者が五位に昇進した場合、その官職を去るのが原則である。しかし、義経は、五位に昇進しても、検非違使左衛門尉の官職は元のままで、これを「叙留」という。五位を総称して大夫ということから、他の官職でも叙留した者は、大夫何々(官職名)とよぶ。義経の場合は、「大夫判官」とよばれた。判官とは、左衛門尉の「尉」(三等官)の別名。よって、義経のことを「九郎判官」ともよぶ。

9月18日
・大江広元、因幡守に任じられる(『吾妻鏡』『山槐記』。『尊卑分脈』には11日とある)

9月19日
・範頼が宗盛と瀬戸内海を挟んでにらみ合い動けない状況のため、頼朝は、橘公業(たちばなのきみなり)を先行して讃岐国に派遣し、讃岐国の在庁や豪族と連絡を取り合い、平氏の背後を揺さぶる工作を始める。

「・・・橘次公業を以て、一方の先陣と為すの間、讃岐の国に着き住人等を誘い、相具せんと欲す。各々帰伏せしめ、志を源家に構え運すの輩、交名を注出す。・・・源氏の御方に参り京都に参り奉り候御家人交名の事 籐大夫資光 同子息新大夫資重 同子息新大夫能資 籐次郎大夫重次 同舎弟六郎長資 籐新大夫光高 三野郎大夫高包 橘大夫盛資 三野首領盛資 仲行事貞房 三野の九郎有忠 三野首領太郎 同次郎 大麻籐太の家人・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

9月20日
・義経、摂津垂水西牧萱野郷内の狼藉を停止す。


つづく

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