2022年11月21日月曜日

〈藤原定家の時代186〉寿永3/元暦元(1184)年8月17日~28日 頼朝は本当に義経の「自由任官」に「激怒」したのか? 「この事頗る武衛の御気色に違う。、、、これに依って平家追討使たるべき事、暫く御猶予有り」(「吾妻鏡」)   

 


寿永3/元暦元(1184)年

8月17日

・義経の使者、鎌倉に到着し、6日義経が左尉門少尉に任じられ検非違使となったことを伝える。)。義経の報告によれば、義経自身が所望した任官ではなく、後白河が義経の度々の勲功に報いるために「自然の朝恩」として与えたもので、義経は固辞できなかったという。ところがこれが「頗る(頼朝の)御気色(みけしき)に違い」義経は平氏追討使の任をしばらく「猶予」される(『吾妻鏡』8月17日条)。

頼朝は、一族や御家人が自由に朝廷の官職に就くこと(自由任官)に厳しく、平氏追討の勲功賞も後日に頼朝が「計らい申し上ぐ」(推挙す)べきこととされていた。

これは一族や御家人達が自由任官によって朝廷(後白河)に取り込まれることを防ぐ目的があったと考えられている。『吾妻鏡』は、頼朝に「内々の儀」(思うところ)があったという(8月17日条)。それは、義経が頼朝の代官として畿内近国の沙汰を任せられているために、もっとも朝廷に取り込まれやすい立場にあったことが原因であったかもしれない。

〈法皇の義経優遇措置 義経任官に対する頼朝の怒り〉

さらに10月には従五位下に叙し、院の昇殿を許す。法皇としては、頼朝の代官として在京し、都の治安に努力している義経に対する、単純な優遇措置であったかもしれない。しかし、頼朝は、鎌倉御家人が彼の推挙によらずに任官することを厳しく禁じていたこともあり、義経が頼朝の許可もなく、任官・叙位をうけたことを大いに怒り、一時は義経を平氏追討指揮官からはずすという処置に出た。このあたりから頼朝と義経との間の隙が生まれてくる。

義経任官を、法皇が頼朝と義経とを離反させ、義経を頼朝の対抗馬に仕立てようとする老檜な策謀であったとする見方もあるが、この任官の時点では、法皇としては戦術を賞讃されている義経を、都の治安責任者として高く評価していたにすぎないと推測できる。


でも、、、こういうのも↓

〈頼朝は通説で言われるような「激怒」はしていない、とする説〉

その後の義経の役割を考慮しても頼朝が激怒したとは考えられない。

まず、9月9日には、頼朝は、それまで武士の沙汰ではなかった京内の平氏没官領のうち平信兼の所領を義経の沙汰としている。11月14日には、宇都宮朝綱(ともつな)や小野成綱(しげつな)などの西国に所領を与えられた御家人達へ、所領をきちんと引き渡すことが、頼朝より義経に命じられている(そのことに関する義経の請文が12月20日に鎌倉に届いている)。12月1日、頼朝は園城寺に平氏没官領から所領を寄進したが、園城寺は北条時政が帰依している寺院のため、時政は、所領の寄進を間違いなく行い、衆徒の要望を粗略に扱わないように、義経によくよく頼み込んでいる。

これらの事例からは、畿内近国や西国については、義経が頼朝の代官として引き続き権限を持っていたことがわかる。また、9月14日には、かねてからの「約諾」とはいえ、頼朝の計らいで、河越重頼の息女が義経との婚姻のために上洛している。彼女は義経の正妻であり、のちに衣川で義経とともに自害する。

こうした点を考慮すると、頼朝が義経の自由任官に激怒したとは考えにくい。「頗る御気色に違う」とは、頼朝の機嫌を損ねた程度の意味ではなかろうか。しかも機嫌を損ねた理由は、単純に自由任官そのものからではなく、検非違使左衛門尉という官職の内容が問題とされたのであろう。

この官職は、天皇に直属し、京内の治安維持を司る官職なので、この官職に任命されたということは、朝廷(後白河)に完全に取り込まれたことを意味する。同時に、職掌の遂行のためには、京都を遠く離れることはできなくなる。京都を遠く離れる可能性のある追討使のような役職とは相容れない官職なので、頼朝は義経が追討使であることを「猶予」したと考えられる。"

更に、、、

そもそも洛中警固を担当する武士が検非違使に任じられるのは普通の人事。洛中警固を担当する義経が無位無官ではなにかと都合が悪い。9月18日、義経は五位に昇叙しても検非違使に留まったが、これに対して頼朝が反撥した形跡はない。

「源九郎主の使者参着す。申して云く、去る六日左衛門少尉に任じ、使の宣旨を蒙る。これ所望の限りに非ずと雖も、度々の勲功を黙止せられ難きに依って、自然の朝恩たるの由仰せ下さるるの間、固辞すること能わずと。この事頗る武衛の御気色に違う。範頼・義信等の朝臣受領の事は、御意より起こり挙し申さるるなり。この主の事に於いては、内々の儀有り。左右無く聴されざるの処、遮って所望せしむかの由御疑い有り。凡そ御意に背かるる事、今度に限らざるか。これに依って平家追討使たるべき事、暫く御猶予有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月17日

「伝聞、頼朝鎌倉を出て、すでに上洛するの間、伊豆の国に逗留す。秋中入京すべからずと。この事甚だ甘心せず。天下滅亡勿らんか。」(「玉葉」同日条)。

8月18日

・文覚が義朝の首を手に鎌倉へ下向したとの風聞(「玉葉」同日条)。

8月18日

「武蔵の国住人天糟の野次廣忠、有勢の者に非ずと雖も、西海に赴き平家を追討すべきの由、進んでこれを申請す。御感の余り、彼の知行分に於いては、万雑事を免許するの旨、これを仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月19日

「絵師下総権の守為久帰洛す。御馬(鞍置き)已下の餞物を賜うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月20日

「安藝の介廣元受領の事、掃部の頭安倍季弘朝臣(木曽の祈師と)官職を停廃せらるべき事、已上両條を京都に申さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月23日

・摂政近衛基通が法皇の仲介により頼朝の婿になるとの風聞(「玉葉」同日条)。

8月26日

・義経、平氏追討使の官符を受ける。17日、頼朝が義経を追討使から外した措置は、頼朝の私的措置となる。

8月27日

・範頼を総大将とした平氏追討軍、京に到着。29日、平氏追討の官符、範頼(27日入洛)に与えられる。

8月28日

・新造公文所の門立(かどたち)の儀。大江広元参仕する。10月6日、吉書始め。


つづく

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