2023年1月26日木曜日

〈藤原定家の時代252〉文治3(1187)年7月13日~8月21日 興福寺南大門棟上げ 熊谷次郎直実、流鏑馬の的立て役を命ぜられるが、これを不服とし辞退 所領の一部を没収される 洛中に群盗蜂起 千葉常胤・下河辺行平が京都に派遣される

 


〈藤原定家の時代251〉文治3(1187)年5月2日~6月29日 公卿以下の意見封事(国家再建の意見書)17通 後鳥羽天皇の神器宝剣探査令 頼朝、次第に朝廷内部に進出 伊勢国での地頭を巡る争い より続く

文治3(1187)年

7月13日

・「この日、興福寺南大門棟上げなり。」(「玉葉」同日条)。

7月19日

「右武衛の消息到来す。院宣を副え進す所なり。これ前の大蔵卿泰経、去年義顕與同の過に処せられをはんぬ。帰洛を免さるべきの由、申せしめ給うに就いてこれを免さる。而るを本より近臣たるに依って、今に於いては昵近を聴さるべきの趣、仰せ下さるるが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月20日

・後白河、安徳天皇とともに壇ノ浦海中に没した三種の神器を探させる(発見されず)。 

「今日勅使を長門国に遣さる。且つは祈禱せられ、捜索せしめんがためなり。神祇大祐卜部兼衡・大蔵少輔安倍泰成等使いとなり、前安芸守佐伯景弘、去る比下向す。景弘は合戦の時彼の国に在り、宝剣沈没の所を存知すと云々。」(『百錬抄』文治3年7月20日条)

7月27日

「信濃の国善光寺、去る治承三年廻禄の後、再興の沙汰有るの間、殊に合力を加うべきの由、諸人に仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。


8月1日

「今日より来十五日に至るまで、放生会を専らすべきの旨、兼日関東の庄園等に触れ仰せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月3日

・「筑前の国筥崎宮宮司親重賞に行わる。当国那河西郷・糟屋西郷等これを拝領すと。平氏在世の時、彼の祈祷を抽んずるに依って、日来聊か御気色有りと雖も、所詮神官等の事に於いては、一向に優恕せらるべきの由、思し食し定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月4日

・熊谷次郎直実、15日の鎌倉八幡宮放生会の流鏑馬に頼朝から、的立て役を命ぜられるが、これを不服とし辞退。所領の一部を没収される。

「今年鶴岡に於いて放生会を始行せらるべきに依って、流鏑馬の射手並びに的立等の役を宛て催さる。その人数に、熊谷の二郎直實を以て上手の的を立つべきの由仰せらるるの処、直實鬱憤を含み申して云く、御家人は皆傍輩なり。而るに射手は騎馬、的立役人は歩行なり。すでに勝劣を分けるに似たり。此の如き事に於いては、直實厳命に従い難してえり。重ねて仰せに云く、此の如き所役は、その身の器を守り仰せ付けらるる事なり。全く勝劣を分たず。就中、的立役は下職に非ず。且つは新日吉社祭御幸の時、本所の衆を召し流鏑馬の的を立てられをはんぬ。その濫觴の説を思うに猶射手の所役に越えるなり。早く勤仕すべしてえり。直實遂に以て進奉するに能わざるの間、その科に依って所領を召し分けらるべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月8日

・最勝寺の訴えにより、後家人原宗四郎行能の若狭の今重保に対する押領が排除(「吾妻鏡」同日条)。朝廷側の巻き返し。

8月15日

・鶴岡の放生会。

「鶴岡の放生会なり。二品御出で。参河の守範頼・武蔵の守義信・信濃の守遠光・遠江の守義定・駿河の守廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等扈従す。流鏑馬有り。・・・その後珍事有り。諏方大夫盛澄と云う者、流鏑馬の芸を窮む。秀郷朝臣の秘決を慣らい伝うに依ってなり。爰に平家に属き多年在京し、連々城南寺流鏑馬以下の射芸に交りをはんぬ。仍って関東に参向する事頗る延引するの間、二品御気色有りて、日来囚人と為すなり。而るに東に参向する事頗る延引するの間、二品御気色有りて、日来囚人と為すなり。而るに今日俄にこれを召し出され、流鏑馬を射るべきの由仰せらる。盛澄領状を申し、御厩第一の悪馬を召し賜う。・・・五寸の串皆これを射切る。観る者感ぜずと云うこと無し。二品の御気色また快然たり。忽ち厚免を仰せらると。 今日の流鏑馬 一番 射手 長江の太郎義景 的立 野三刑部の丞盛綱 二番 射手 伊澤の五郎信光 的立 河匂の七郎政頼 三番 射手 下河邊庄司行平 的立 勅使河原の三郎有直 四番 射手 小山の千法師丸 的立 浅羽の小三郎行光 五番 射手 三浦の平六義村 的立 横地の太郎長重」(「吾妻鏡」同日条)。

「因幡の前司廣元の使者京都より参着す。去る十五日、六條若宮に於いて放生会を始行するの処、見物雑人中に闘乱出来し、疵を被るの者等有りと。」(「吾妻鏡」同25日条)。

8月18日

洛中に群盗蜂起。頼朝、京都守護一条能保の報告により、洛中の強盗対策のため千葉常胤・下河辺行平を京都に派遣

「右武衛能保の消息到来す。当時京中強盗所処に乱入し、尊卑これが為に魂を消さずと云うこと無し。就中、去年十二月三日、強盗太皇太后宮に推参し、大夫の進仲賢以下の男女を殺害以来、太略隔夜この事有り。勇士等を差し殊に警衛し給うべきの由、天気有りと。」(「吾妻鏡」同12日条)。

「・・・御消息に云く、 洛中群盗蜂起並びに散在の武士狼藉の事、度々仰せ下され候の趣、殊に驚き歎き思い給い候。時政下向の時、東国の武士少々差し置き候いをはんぬ。その外も、或いは兵粮米の沙汰として、或いは大番勤仕として、武士等在京する事多く候か。彼の輩狼藉を鎮めず、還って計略に疲れ、若くは此の如き事をもや企て候わんか。人口塞ぎ難く候。然かれば偏に頼朝の恥辱たるべく候。当時親能・廣元在京し候と雖も、元より武の器に非ず候。ただ閑院殿修造の事、沙汰を致し候ばかりなり。此の如きの事、全く彼等の不覚たるべからず候か。仍って常胤・行平を差し進し候。東国に於いて有勢の者に候の上、相憑む勇士に候なり。自余の事は知り候はず。武士等の中の狼藉は、この両人輙く相鎮むべく候。器量を見計り進し候。能々仰せ付けらるべく候。條々猶別紙を以て言上し候。且つはこの趣洩れ披露せしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。 八月十九日 頼朝 進上 師中納言殿」(「吾妻鏡」同日条)。

「下河邊庄司行平使節として上洛す。また重ねて京都に申さるる條々、 一、群盗の事・・・ 一、江大夫判官下部等狼藉の事 河内の国に於いて、関東御家人と号し寄せ取り狼藉に及ぶの由、風聞せしむ所なり。全く頼朝申し付ける旨無し。御尋ね有るべき事。 一、北面の人々廷尉に任ずる事・・・ 一、壱岐判官下向の事 義経・行家等に同意する者なり。随って別の仰せ無し。この上進上すべきかの事。 一、奉公の人々子孫の事・・・ 一、西八條地の事 没官領としてこれを宛て賜うと雖も、公用有るべきの由、内々承りをはんぬ。早く御定在るべき事。 一、所々地頭の輩の事 以前、すでに面々に子細を含めをはんぬ。もし頼朝の成敗に拘わらざる輩の事に於いては、仰せ下さるるに随い、治罰を加うべき事。 」(「吾妻鏡」同27日条)。

「千葉の介常胤使節として上洛す。・・・同道すべきの処、常胤違例の間、延びて今日に及ぶと。」(「吾妻鏡」同30日条)。

「下河邊庄司・千葉の介等の上洛に付き、洛中の群盗以下條々奏聞せしめ給う事、悉く勅答有り。その状今日鎌倉に到来するなり。・・・院宣に云く、・・・一、群盗並びに人々の事・・本より関東の武士の所行とは全く風聞せず。またその旨を仰せ遣わさず。・・・一、西八條の事・・・一、所々地頭等の事 成敗せしめ給うの旨に任せ、各々仰せ下さるべきなり。この上申し上げる事有らば、重ねて仰せ遣わさるべきか。・・・一、圓勝寺領駿河の国益頭庄の事・・・一、御熊野詣での事・・・一、阿武郡の事 九月二十日 太宰権の師籐経房(奉る)」(「吾妻鏡」10月3日条)。

8月21日

・九条兼実、氏長者として初めて平等院に参る。藤原定家(26)、兼実に供奉し前駈を勤める(「玉葉」)。


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