2023年1月25日水曜日

〈藤原定家の時代251〉文治3(1187)年5月2日~6月29日 公卿以下の意見封事(国家再建の意見書)17通 後鳥羽天皇の神器宝剣探査令 頼朝、次第に朝廷内部に進出 伊勢国での地頭を巡る争い       

 


〈藤原定家の時代250〉文治3(1187)年3月5日~4月29日 栄西、再び入宋 義経を匿った容疑で捕らわれた興福寺僧侶「周防得業聖弘」、頼朝に対面 壇ノ浦で没した幼帝に〈安徳〉という諡号が贈られる より続く

文治3(1187)年

5月2日

・後白河法皇、田楽を見る。

5月4日

・義経が4月30日に美作の山寺で斬られたとの風聞が京都に伝わる(「玉葉」同日条)。勝賢が義経追討の祈祷中。兼実は、それが事実ならば、「天下の悦び」であり、様々な修法を行ってきたが、その霊験の現れだと記す(『玉葉』5月4日条)。義経の奥州下向などまったく知らないという書きぶり。

5月14日

・源頼朝御教書案。

「近衛殿より仰せ下さるる嶋津庄官訴え申す、宰府として先例に背き、今年始め以て唐船着岸の物を押し取る事、解状これを遣わす。早く新儀を停止し、元の如く庄家に付けしむべきなり。・・・」(「島津家文書」)。

5月23日

・兼実、公卿以下の意見封事17通を後白河(61)に提出。

前年、兼実は国家再建策について意見を聴取すること(意見封事(ふうじ))を後白河に提案し、翌年3月、兼実の主導の下、院宣によって意見の聴取がおこなわれた。このときの意見封事は、この日、17通の意見が後白河に奏上され、院御所での議定のうえ、建久2年3月28日に出された公家新制(天皇が出した法令)に反映された。    

5月26日

「宇治蔵人三郎義定の代官、伊勢の国齋宮寮田櫛田郷内の所処を押領すと。糺明せらるべきの旨、仙洞よりこれを仰せ下さる。即ち義定に尋ね問わるるの処、在鎌倉すでに多年に及ぶの間、彼の国の子細を知らず。眼代を召し進すべきの由これを謝し申す。而るを理訴を懐かば、追って言上すべきか。今群行の期に臨み、武家の輩、件の式田を押領するの旨、勅定を含みながらその科に行われずんば、御旨を軽んずるに似たり。仍って義定の恩地を収公せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月28日

・藤原定家(26)、最勝講に参仕、堂童子を勤める(「玉葉」)

6月3日

後鳥羽天皇、厳島神社神主佐伯景弘に行方不明の神器宝剣探査令。頼朝に援助の粮米徴収令(「吾妻鏡」同日条)。

「去々年、平氏を討ち滅ぼすの時、長門国の海上において、宝剣紛失す。捜し求めらるるといヘども今に出来せず、なほ御祈禱を凝さる。厳島の神主安芸介景弘に仰せ、海人をもってこれを索めらるべきによって、粮米を申すところなり。早く西海の地頭等に召し仰すべきの旨、宣下せらる。よって今日沙汰ありて、充て催さるべきの由と云々。」(『吾妻鏡』文治3年6月3日条)

6月13日

・三河の申請により出挙制を増加し今銭を停止する事を勅許。

6月18日

・頼朝、次第に朝廷内部に進出。京都の六条若宮(源氏の氏神)を整備。京都の土地を寄進し、放生会を行う。同時に、鶴ヶ岡若宮でも放生会を行うこととし、東国の荘園公領に殺生禁断を命じる。

六条若宮:

頼朝祖父の住んだ六条の屋敷の遺跡に石清水の神を勧請し、大江広元の弟の季厳阿閻梨を別当に補任し、文治元年12月土佐吾河郡の地頭職を寄進。幕府の京都における拠点とする。

6月20日

・「伊勢の国没官領の事、加藤太光員これを注進せしむに随い、地頭を補せらるるの処、彼の輩太神宮御領に於いて濫行を致すの由、所々よりその訴え有るの間、宜しく停止せしむべきの由、今日定め下さる。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月21日

・大江広元、上洛。

7月13日、京都入り。六条若宮・頼朝宿舎の交渉もあるが、正式には後鳥羽天皇の閑院(文治元年7月大地震で損壊)の皇居修復申請が目的。11月完成(奉行藤原親能)。

6月29日

・頼朝、伊勢の国沼田の御厨で起こった地頭の押妨を調査するため、難色の正光を使として伊勢に派遣。ここの地頭は畠山重忠で、重忠は代官として内別当真正というものを現地においていた。この真正が員部(いなべ)の大領家綱の所従らの宅を検索し資財を没収したので、これを不当とした家綱が、鎌倉に訴えてきた。この時、朝は慎重な態度をとり伊勢に在国中の山城介久兼にも使を出し、正光がもし御使の権威を笠にきて、濫行をしたら、誡めた上、その詳細を報告するように命じている。

この頃、伊勢の国では、地頭・御家人らの押妨が多かった。伊勢の国は、元来が平家の根拠地である上に、義経が伊勢・美濃を通って奥州にいったといわれているため、地頭の検索はことにきびしく、地頭・御家人らの押妨が多かった。

この1ヵ月前にも、宇治蔵人三郎義定の代官が伊勢国斎宵寮田櫛田郷内の所々を押領した事件がある。これは院から訴えがあったので、頼朝は直ちに義定を尋問したところ、義定は、自分は鎌倉に多年滞在していて、伊勢の国のことをよくしらない。代官をよぴよせて調査する、といって謝った。頼朝は、理非はともあれ院の仰せであるから、というので、義定の所領を没収した。

そして6月20日には、伊勢の神宮領の地頭らに下文を出して、押領をしてはいけない、神宮の神役をつとめるように、と注意を与えた。

「伊勢の国没官領の事、加藤太光員これを注進せしむに随い、地頭を補せらるるの処、彼の輩太神宮御領に於いて濫行を致すの由、所々よりその訴え有るの間、宜しく停止せしむべきの由、今日定め下さる。」(「吾妻鏡」同20日条)。

「雑色正光御使として、御書を帯し伊勢の国に赴く。これ当国沼田御厨は、畠山の次郎重忠所領の地頭職なり。而るに重忠眼代の内別当眞正、員部大領家綱が所従等の宅を追捕せしめ、資財を没収するの間、家綱神人等を差し進し訴え申せしむ。仍ってその科を糺し行われんが為なり。また正光事を御使に寄せ、濫行を現すに於いては、誡めを加え子細を言上すべきの趣、山城の介久兼(彼の国に在りと)に仰せ遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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