2023年4月3日月曜日

〈藤原定家の時代319〉建久10/正治元(1199)年4月1日~4月27日 頼家の親裁を停め時政ら13人の合議裁決(集団指導) 但し、解釈には諸説あり 頼家に近習する「従類」への特別待遇指示 「正治」改元     

 


〈藤原定家の時代318〉建久10(1199)年3月2日~3月24日 乙姫重篤 「姫君日を追って憔悴し御う。」(「吾妻鏡」) 「文覺上人夜前に流罪定めをはんぬ。」(「明月記」) 佐々木盛綱、所領に関する頼家の裁断に危倶の念を表明 より続く

建久10(1199)年

4月1日

・頼家、新たに問注所を御所の別郭に建て三善康信を執事に任命(「吾妻鏡」同日条)。

4月2日

「朝、雨下リ、午後ニ晴ル。沐浴、今日七日ニ満ツ。杲云(カウウン)来タル。」(『明月記』)

杲云は、定家の主要な収入源である近江国吉富荘の管理を任されている男(叡山の僧)。

4月12日

・政子、頼家の親裁を停め時政ら13人の合議裁決(集団指導)とする。後の幕府合議体である評定衆の原形の成立である。鎌倉中将殿として独裁的な政治を行ってきた頼家は、直接裁判を停止される。

合議体を構成する13人は、北条時政、北条義時、三善康信、中原親能、三浦康信、藤原行政、大江広元、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時(「吾妻鏡」同日条)。幕府権力が将軍家から有力御家人へと移る契機となる。

この一件の要点はい頼家の直断を制限したのみではなく、「その外の輩」すなわち頼家の側近である、小笠原弥太郎・比企三郎・比企弥四郎・郵野五郎能成・細野四郎・和田朝盛らが政務に口出しすることを止めることにあったと見ることができる。

「癸酉 諸訴論の事、羽林直に聴断せしめ給うの條、これを停止せしむべし。向後大小事に於いては、北條殿・同四郎主、並びに兵庫の頭廣元朝臣・大夫屬入道善信・掃部の頭親義(在京)・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・和田左衛門の尉義盛・比企右衛門の尉能員・籐九郎入道蓮西・足立左衛門の尉遠元・梶原平三景時・民部大夫行政等談合を加え、計らい成敗せしむべし。その外の輩(ともがら)は、左右無く訴訟の事を執り申すべからざるの旨これを定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

頼家の権力制限に関するこの条文は、その後の『吾妻鏡』に記載される傍若無人の行動から、頼家が鎌倉殿(将軍)の器ではないという評価を前提に、その親裁が停止されたと理解されてきた。

しかし、頼家については、『吾妻鏡』以外に知りえる史料が少なく、鎌倉殿を継承してわずか数ヵ月で、その権限を剥奪するという判断はあまりに早急でもある。『吾妻鏡』が、鎌倉時代後末期、北条氏およびその周辺によって編纂されたという成立上の性格を考える時、かれが年少気鋭であったとしでも、従来伝えられる頼家像には考え直すべき部分が多いように思われる(略)。

そうしたなかで、五味氏はすでに 『吾妻鏡』正治元年四月十二日条は、頼家の親裁を否定したものではなく、頼家に「訴訟のことを執り申す」ことのできる対象を十三人に限定したものと指摘している(略)。

〈13人の合議制=頼家の権力を補完する政治体制という説〉

「通常、この一三人の合議制は、頼家の強権的な幕政運営を抑止し、有力御家人一三人で合議して幕府の意思を決定する政治制度として理解されているが、近年の研究成果によれば、一三人全員の参加によって合議がなされた実例はなく、そのうちの数名が評議し、その結果を頼家に提示したうえで、頼家が最終的判断を下す政治制度であった。したがって、評議の結果と頼家の最終的判断は異なることがありえたのであり、その在り方は三代実朝期まで基本的に変化はなかったという(仁平一九八九)。こうした事実を踏まえるならば、一三人の合議制は、鎌倉幕府の創設者としてカリスマ性をもった頼朝に代わり、新たに鎌倉殿になった頼家の権力を、むしろ補完する政治体制であったと理解することができよう。」(『源平の内乱と公武合体政権』)

4月19日

「天晴 年来養育する所の小男、保盛朝臣子□□□庶子、関東より召し出さる。この事親能入道殿に触れ申す。事甚だ恐惶たり。今朝冠者を相具し行き向かい謝し披く。大略優免の由これを語る。件の男本より元服、極めて事有るべからざるなり。自今以後猶殃禍を招くべきか。」(「明月記」)。 

4月20日

・頼家、梶原景時・中原仲業を奉行として、政所に対して文書を下し、小笠原長経・比企三郎・比企四郎(時員)・中野能成ら「従類」は、鎌倉内で狼籍を働いたとしても、人びとはこれに敵対してはならない(答めてはならない)。もし、これに違犯する者がいれば処罰するので、近隣に周知すべきである。また、かれらのほかは、特別の命令がなければ、頼家の御前に参ることは許可されない、と指示。

頼家が新しい人脈を求めた御家人の第2世代。乳母関係の比企氏、騎肘の指南で近仕した小笠原氏や中野氏など。新しい政策を断行しようとする勢力と、頼朝以来の宿老勢力との対抗

4月22日

・定家(38)、日吉社に参詣

4月23日

・頼朝の百ヵ日の忌日。持仏堂で仏事。

4月24日

・この年4月、5月は豪雨が続く。定家(38)の家は、「蝸盧漏湿シ、寝所度ヲ失ス。乱代ノ貧者、前世ノ果報、哀ムベシ」となる。

この日は賀茂祭。この祭使に約束してあった摺袴を送れず、「貧乏ニ依リ、構ヘ出サザルナリ」と、恥ずかしくて祭見物にも行かない。「心中冷然タリ。」"

4月26日

・定家(38)、この日以降咳病を病む

4月27日

「東国分の地頭等に仰せ、水便の荒野を新開すべきの旨、今日その沙汰有り。凡そ荒・不作等と称し、乃貢減少の地に於いては、向後領掌を許すべからざるの由同じく定めらると。廣元これを奉行すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月27日

・「正治」に改元。


つづく

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