建久10(1199)年
3月2日
・定家(38)、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕
3月2日
・頼朝の四十九日の法要。
3月5日
・後藤基清、罪科により讃岐の守護職を停められ、近藤国平がこれに補任される。具体的な罪科は不明だが、幕下(バッカ)将軍(頼朝)路線の継承が、御家人の意向であるのに対し、路線変更を行う頼家の政治姿勢を「吾妻鏡」は指摘する。
「丁酉 雨降る 後藤左衛門の尉基清罪科有るに依って、讃岐守護職を改められ、近藤七国平を補せらる。幕下将軍の御時定め置かるる事、改めらるるの始めなりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
頼家にとってみれば、自分に付与された「諸国ノ守護ヲ奉行セシム」諸国守護権を行使することで、自身の存在証明とした。
以降の政治情勢は、頼朝の後継者として強いリーダーシップを発揮しようとする頼家と、頼朝時代の政治を理想として継承して行こうとする幕府重臣との綱引きとして展開する。
3月5日
・乙姫(頼朝・政子の次女、大姫の妹)、発熱し病気が重くなった。母政子は、病気平癒を願って諸社に祈願し、諸寺で説経を行い、御所で一字金輪(いちじきんりん)法を修す。しかし乙姫の憔悴は激しく、治療をするため京都から名医と称された針博士丹波時長を招くことにした。
「・・・故将軍姫君(乙姫君と号す。字三幡)、去る比より御病悩、御温気なり。頗る危急に及ぶ。」。
「姫君日を追って憔悴し御う。」(「吾妻鏡」同12日条)
3月6日
・大江広元、頼家の当年属星祭(しよくせいさい、人の一生を支配するとされる星を祭る陰陽道の儀式)の執行を京都の陰陽師安倍資元(あべのすけもと)に命じる仰せを奉じる。
3月6日
・定家(38)、早旦、騎馬で嵯峨に行き、雑舎を検分、清涼寺に詣でる。
3月8日
・中原親能(ちかよし)、延暦寺悪僧を捕え、山徒が今後兵仗を帯びざらんことを誓う(「華頂要略天台座主記」)。
中原親能(1143~1208):
幕府草創期から頼朝に従い、武家方の貴重な能吏として信任を得る。元暦元(1184)年公文所設置に際し寄人に選出。在京することも多く、兼実の摂政就任、平家追討などについて頼朝の意を受け、公家間を奔走。文治2(1186)年京都守護として六波羅に赴く。建久2(1191)年政所の公事奉行。頼朝の女三幡の乳母夫で、三幡病没時、出家。後、京都守護に再任されるが、承元2(1208)年12月18日京都で没(66)
3月8日
・足利義兼(46、52?)、足利庄樺崎郷で没。源頼朝に従い、足利氏を復興、発展の基礎を築く。義氏(足利三郎。生母・北条時子)、 嫡流を継ぐ。宿老として幕府に重きをなす。
太郎義純は元久2年(1204)畠山重忠が滅ぼされた後、その未亡人・北条時政娘と結婚し畠山氏の祖となる。二郎義助は承久の乱に宇治川で戦死、その子義胤を義兼の子として四郎と称し桃井氏の祖となる。
3月8日
・定家(38)の猶子定時、八条院判官代に任じられる
3月9日
・定家(38)、日吉社に参詣
3月11日
・定家(39)姉の健御前の灸治が始まる。15日、灸治終り、健御前はそのまま嵯峨へ行く。
3月13日
・定家(38)、早旦、良経の許に行き、使となって八条院に参向。密々、歌合を御覧。定家は、良輔の供をしていた。慈円の歌があった。脚気不快により病臥。
3月14日
・定家(38)、臨時祭の使となった少将のもとに駑馬(どば)一疋を贈る。密かに景勝光院に入り観桜。
3月17日
・定家(38)、九条御堂仏事に参仕
3月18日
・定家(38)、嵯峨の雑舎成る
3月19日
・文覚を佐渡に配流。
「文覺上人夜前に流罪定めをはんぬ。」(「明月記」20日条)。
3月21日
・定家(38)、16日頃から脚気と腰痛に悩み、この日は腰痛特に激しく、焼石を宛てるがますます痛む。
3月23日
・頼家、神宮領遠江・尾張・三河などの諸国6ヶ所の地頭(「大神宮御領六箇所地頭職」)を停止(「吾妻鏡」同日条)。
「乙卯 中将家殊なる御宿願有るに依って、大神宮御領六箇所地頭職を止めらる。その所々の内、謀反狼藉の輩出来せば、神宮より搦め出さるべし。且つはまた案内を触れ申すべきの旨、これを祭主に仰せ遣わさる。而るに彼の六箇所の内、尾張の国一楊御厨は、神宮より宮掌を遣わし、地頭代を追い出すべきの由下知を加え、得分物を検封するの旨風聞せしむの間、故右大将殿薨去せしめ給うの最前件の狼藉に及ぶの條、頗る遺恨たり。尤も御尋ね有るべきものかの由、同じく仰せ遣わさるる所なり。御奉免状の書き様、/御神領/遠江の国蒲御厨・尾張の国一楊御厨・参河の国飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良胡御厨惣追補使/右件の所々の地頭等、別の御祈願に依って、彼の職を停止せられ候所なり。鎌倉中将殿御消息此の如し。仍って執達件の如し。/建久十年三月二十三日/兵庫の頭/祭主殿」(「吾妻鏡」同日条)。
3月23日
・宿老佐々木盛綱、所領に関する頼家の裁断に危倶の念を表明。
「甲寅 佐々木三郎兵衛の尉盛綱法師款状を捧ぐ。微質沈淪す。すでに幕下の御代に異なる。ただ恩沢の厚薄を存ずるに非ず。還って知行所領等を召されをはんぬ。天運を恥ると雖も、猶知慮に迷うの由と。」(「吾妻鏡」3月22日条)。
3月23日
・定家(38)、腰痛同じこと、昨夕焼石の治療を中止。昨日来訪の静阿閤梨によれば、脚気に焼石は、増気するという。暁、医師の時成朝臣に聞くと、湯であたためたら如何と言う。
この日、定家、安芸権介に任ぜられる。「尤モ以テ珍重ス。在世ノ身ニ似タリ」と喜ぶ。これは従六位相当程度で、彼は従四位上である。しかし、「それでも在世、すなわちまるで忘れられてしまったわけではないようだ、と一安心」(『定家明月記私抄』)している。
3月24日
・定家(38)、車に乗せられ嵯峨に湯治。
26日、漸く腰も快くなり歩行する。ただ手足苦痛。
4月18日まで嵯峨で療養。
つづく
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