2023年10月1日日曜日

〈100年前の世界080〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉜ 【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言 (1)中村川、堀割川にそって 「擲り殺した朝鮮人の死体を川の桜並木の小枝につるす」 「何しろ天下晴れての人殺しですからねえ。川に飛び込んだ朝鮮人の頭めがけてトビが飛ぶ」 「中村橋から朝鮮人川へ投げ込む」 「鮮人殺されて橋下に墜落」 「堀割川に朝鮮人が死んで流れていた」 「家の前の川には毎日5、6人位朝鮮人が何とも言われない色に染まって浮いて来る」  

 

横浜正金銀行本店付近


大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉜

【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言

(1)中村川、堀割川にそって

①田畑潔(会社員)

「擲り殺した朝鮮人の死体を川の桜並木の小枝につるす」

横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった。木賃宿には朝鮮人労務者が多く住みつき、数百人からいたように思う。

この近くの友人宅を訪ねていて地震にあった私は、だから、世に有名な朝鮮人虐殺の実態を、この目でつぶさに目撃することになった。二日朝から、朝鮮人が火を放けて回っているという流言がとぶと、ただちに、朝鮮人狩りが始まった

根岸橋のたもとに通称〝根岸の別荘〞と呼ばれる横浜刑務所があって、そこのコンクリート壁が全壊したため、囚人がいちじ解放されていたが、この囚人たち七、八百人も加わって、捜索隊ができた。彼らは町中をくまなく探し回り、夜を徹して山狩りをつづけたのである。

見つけてきた朝鮮人は、警察が年齢、氏名、住所を確かめて保護する間もなく、町の捜索隊にとっ捕まってしまう。ウカウカしていると警察官自身殺されかねないほど殺気だった雰囲気だった。そうしてグルリと朝鮮人をとり囲むと、何ひとついいわけを聞くでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにパッサリというのでなく、皆がそれぞれぉっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこずくもの、目に竹ヤリを突きたてるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂く〔も〕の・・・・・朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入り交じりこの世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した

こうしてなぶり殺した朝鮮人の死体を、倉木橋〔久良岐橋〕の土手っぷちに並んで立っている桜並木の、川のほうにつきだした小枝に、つりさげる。しかも一本や二本じゃない。三好橋〔三吉橋〕から中村橋にかけて、載天〔大正天皇即位〕記念に植樹された二百以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える・・・・・人間のすることとも思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ、川の中に落とされる。川の中が何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な血の濁流となってしまった。

町の捜索隊による、恐るべき私刑劇は、戒厳令がしかれ、甲府の連隊が治安のために乗り込んできた五日過ぎまでつづいた。多くの朝鮮人狩りに〝功績〞のあった囚人たちが、町の人々から〝ご囚人さま〞と呼ばれ感謝されるという幕間劇までついた。彼らは、行くさきざさで、タバコ、米、食物を盗み、酒をむさぼり飲むという暴行をはたらいたにもかかわらず・・・・・。

この朝鮮人大量殺人が起こった原因は、かんたんに思いつくものだけでも、彼らが低賃金で労働力を提供するため日本人労務者があぶれて、それを日ごろ恨みに思っていたこと、工事中の穴の中で食事をしたり、ニンニクを好んだりという生活慣習のちかいから、朝鮮人がとくべつ不潔でないのに、不潔で軽蔑すべき民族だと差別されていたこと、朝鮮人は日本の属国だという日本人の誤った〝うぬぼれ〞からくる蔑視感がはびこっていたことなど、幾つかあげられるだろう。

それにしても「尼港事件」〔一九二〇年、ロシアのニコライエフスクで起きた「虐殺」事件〕の報でロシア人の残虐性に大騒ぎした当の日本人が、それ以上の言語に絶する残忍な本性を隠しもっていたことは、私にとって、ほんとにショックな事実であった。(談)

(「潮」一九七一年九月)


②美田賢二郎(自家営業)

「何しろ天下晴れての人殺しですからねえ。川に飛び込んだ朝鮮人の頭めがけてトビが飛ぶ」

なにしろ天下晴れての人殺しですからねえ。私の家は横浜にあったんですが、横浜でもいちばん朝鮮人騒ぎがひどかった中村町に住んでいました。

そのやり方は、いま思い出してもゾッとしますが、電柱に針金でしばりつけ、なぐるける、トビで頭へ穴をあける、竹ヤリで突く、とにかくメチャクチャでした。

何人殺ったかということが、公然と人々の口にのぼり、私などは肩身をせまくして歩いたものだ。そのなかでも、川へ飛び込んだひとりの朝鮮人を追って、日本人が舟で追う光景は、いまでもはっきり脳裏に焼きついています。

しばらく水中にもぐっていた朝鮮人が水面に顔を出したのは五分もたってからです。行へがわからず、やみくもに舟を進めていた日本人は、頭を出した朝鮮人に向って全速力で突進を開始した。このようすに気づいた朝鮮人は瞬間的に逆方向へ泳ぐ、その形相のすさまじいこと。だがどんなに体力に自信があるとはいえ、しょせん舟にかなうわけはない。朝鮮人の頭めがけてトビが飛ぶ。ブスという音とともに血が吹き出し、みるみるあたりは真っ赤に染まっていく。それでも気がすまないのか、トビで引っかけた朝鮮人をズルズルと舟へ引き寄せると、刀で斬りつける。竹ヤリで突く、全身ズタズタにしてしまった。もはや、ぐったりとなった朝鮮人の顔は、肉がはじけとび、すでに人間の顔のかたちをとどめてない。川岸で、その惨状を見ていた私の背中を冷たい汗のしずくが流れ落ちた。くやしかったことでしょう。  

(「潮」一九七一年九月)


⑤南吉田小6年男子

「中村橋から朝鮮人川へ投げ込む」

「父」の兵隊友達の家へやし〔っ〕かいになる事になった 山の上へ登ると一面焼け野原となった 二日起きると朝飯をたべて五六時間立つと間なく朝鮮人が来るといつて注しんして来た 女子供は驚いて山へ上った すると下からくるといったので僕等も共に山へ上った すると又こんどは山から来るといふので下へおりたそうしてそういふ事を下がったり上りした。すると父が山から来たといった 其れとばかりに男の大人の人達は山へかけ上った すると朝鮮人は日本人の勢のあるをひ〔知〕つてピストルを二、三発発砲した 運よく日本人がけがをしなくてすんだ、しなん〔避難〕した家の隣りノ内では刀や槍があった 其所は日本刀の名刀ばかりであった。兼光の名刀をかったばかりダから切レ味を為〔試〕シテ見エウというので兼光の名刀を持って人に人に日本刀をかしてやって行った 其れから少し立つと朝鮮人が居たので其れというので山で戦った 朝鮮人は三十八人位ひだが日本人は五十人ぐらい 朝鮮人はピストル日本人は竹槍刀鉄砲 わつといふと朝鮮人も発砲した 日本人も竹槍刀鉄砲や其々武器を持って戦かっタ 一人日本人の竹槍でつかれた朝鮮人もピストルヲ発砲した 日本人のくびへあった間もなくうーむうーむと苦しがって大勢の人につきそはれてやって来た 僕はあー気の毒だと思った 其れから少し立って中村橋の所へ行くと大勢居るから行って見ると鮮人がぶたれてゐた こんどは川の中へ投げ込んだ すると浴〔泳〕いた日本人がどんどん追かけて来て両岸から一人づつ飛び込んでとび口で頭をつつとしたらとうとう死んでしまった。其れから家へかえつて見た すると鮮人がころされて居るといふので身〔見〕に行ったら頭に十固所ぐらい切られていた又くびの所が一寸ぐらいで落ちる 僕は家へ帰らうとすると地震であったのでびっくらして家へ早く行かうとしたらたほれてしまった。


⑦内田良平(黒竜会主幹)

「鮮人殺されて橋下に墜落」

横浜方面の事実

中村橋は2日午前10時頃相沢山方面より群集が追落して来りし鮮人と衝突し鮮人殺されて橋下に墜落したる者16名に及べり〔・・・〕

中村橋方面の衝突にて其殺されたる鮮人20人中其中に日本人も2~3名混じ居りしが如し〔・・・〕

中村橋方面衝突の際に於て鮮人と奮闘したるものは多く囚人なりしと云ふ

(内田著「震災善後の経綸について」黒竜会、一九二三年)


⑧磯子小高等科一年男子

「堀割川に朝鮮人が死んで流れていた」

(略)

九月二日は又恐ろしかったのは朝鮮人騒であった。鮮人があばれたといって巡査や又人々が刀や竹やりなどをもって鮮人せいばつだといっていた。僕はその日の夜もろくにねむれなかった。今思ふと二日の日はこはかったなあとかんじる。九月三日は僕は天神橋の方へいって見たらせんじんが ほり割の川に二三人の鮮人が死んで流れていた。


⑨磯子小6年女子

「家の前の川には毎日5、6人位朝鮮人が何とも言われない色に染まって浮いて来る」

恐ろしき地震〔九月一日、地震の様子〕

二日の朝となった、水もなし顔もろくに荒〔洗〕ふ事ができない。その内に朝鮮騒ぎとなった。道行く人は誰も彼も竹槍や刀を持ちていない者はない。此処彼処で人の大声が聞えて来る。その声が何となく物凄い。山の方を見ると朝鮮人が坂をドンドン駈登るその後から巡査が追駆けて行くが途中で滑ったりしてなかなか追つかない。私は巡査が滑るのを見ると朝鮮人がにくらしくてたまらない。此んな風なので女は一切道を歩くに一人では歩かせなかった。本当に可愛そうな話がある。それは、男であるが老人であるので兵隊さんに何かいわれ〔た〕が物のいい方が遅い為に殺されたそうだ。こんなのわ真に気の毒である。きっと朝鮮人のやうなかっこうであるからまちがえられたでせう。又おほしやつんばも多分あの中間に入ったかわからない。家の前の川へは毎日五六人位い朝鮮人が何ともいわれぬ色に染まって浮いて来る。時には流のぐ合こより毎日一所に止まってゐる事等があるので見まいとしても見えてしまうのでご飯のたべられない上に余けいに口に入いらない。

(略)


つづく


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