2023年10月2日月曜日

〈100年前の世界081〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉝ 【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言 (2)中村町、石川町、山手町、根岸町付近 「朝鮮人がこうばんにきて、くびをきられた」 「寿署の警官が署内で鮮人を殺したのを実見した」  「朝鮮人さわぎあちこちで。とうとう殺してしまいました」 「なわでゆわいた朝鮮人を万歳万歳といいながら山の方へつれていった」 「僕のやしきのうらに鮮人が二人殺されていた」 「お前は朝鮮人だろう」とゴルフの道具でうつ」 虐殺を免れた朝鮮人が一九八三年に韓国で証言   

 

関東大震災朝鮮人虐殺100年神奈川追悼会(9月2日)

久保山墓地(横浜市)の「関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑」前


大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉝ 

【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言

(2) 中村町、石川町、山手町、根岸町付近

⑤南吉田小四年女子

「朝鮮人がこうばんにきて、くびをきられた」

ふつかめの夕がた朝鮮人がこうばんにきて くびをきられていました 私わぞっとしました それからお寺おさって水道山のうちにいきました。


⑥横浜貿易新報(一九二四年六月二五日付)

「寿署の警官が署内で鮮人を殺したのを実見した」

山口正憲公判〔・・・〕「寿署の巡査大谷武雄(26)は2日の午前4時50分頃であった平楽の原にテントを張り藤椅子を踏臺にして一段高い処でパナマ帽を冠り白シャツに白のズボンを穿った大兵肥萬の顎髭の生へ男が避難民一同に向って此際お互の生命を保つには掠奪をするの外はないと扇動的の宣伝をして居た 一同は之に共鳴して万歳万歳と連呼して居たのを見たが其男は後に山口正憲と判った」と出志久保警部が被告に有利な証言するに反して同巡査は被告等に極めて不利な証言をしたので弁護士側から交々詰問を受けて狼狽の体であったが被告等も中っ腹になって「壽署の警官が署内で多数の鮮人を殺したのを実見した当時の警察官は真迷ふて居た」など同巡査に喰ってかかって居た 


⑩石川小高等科二年女子

「朝鮮人さわぎあちこちで。とうとう殺してしまいました」

〔二日〕又、裏の戸板で寝るとその晩から朝鮮人さわぎであっちでもこっちでもわい、わいとさわぐので、寝てもこわくて寝て居られませんでした。そして、その夜も明けてその朝になると、朝鮮人が耳からえりの所にかけて切られて、肉がでて血がだらだら流れて居て、おかしな言葉でわいわい泣いて行って、大ぜの人々にさんざんひどい目にあはされたりして、とうとうころしてしまいました。その日の昼間でも、あっちの山ににげた、こっちの山ににげたなどと云って居て、生きた空はありませんでした。すると三日の夜、十時頃兵隊がラッパを鳴らして来た時、飛び立つほどうれしかった。其の時、方々から萬歳の声が響きました。


㊥寿小高等科一年女子

「なわでゆわいた朝鮮人を万歳万歳といいながら山の方へつれていった」

〔二日〕 その時 「朝鮮人がつけびをしたからきをつけて下さい」 といってきた人がありました。〔・・・〕家の外に戸板の上にふとんをひいてすわりっきり。さあ其の夜はたいへんです。「そらそっちに朝鮮人がにげた」 「そら薮のなかにかくれた」 やっつけろという声とともに、「やああい」 という声、もうこわくてなりません。もし比の所にこやしないと思うといてもたってもいられません。その時です 「あああすこへにげた、早くやつけろ」 という声とともに、山にいた人達は手に鉄の棒を持って下へおりてきました。「あらあそこで皆んなにぶたれているは、こわいは、かわいそうだはといって」 小さくなっておりました。その内に皆んなで朝鮮人をなわでい〔ゆ〕わき、万歳万歳万歳といいながら山の方へつれてゆきました。そうして暗はこわい思いばかりしておりました。


⑬寿小男子

「僕のやしきのうらに鮮人が二人殺されていた」

〔西有寺のうらの山〕 二日目の夕ぐれに雨が吹り出した。其の日の前夜、鮮人さわぎとなった。僕のやしきのうらに鮮人が二人殺されていた。夜が明けてから僕と母二人でやけあとへ来て見ると、市内はやけ野原であった。〔姉が行方不明で〕ようようと八日目にわかった。(略)


㉒寿小高等科二年

「お前は朝鮮人だろう」とゴルフの道具でうつ」

「未だもえて居る所もあるよ学校も焼けてしまったよ」 といろいろ下町の様子を話して来〔く〕れた。ああ母校も焼けたのか御真影は出す事が出来たのかしら、先生方はどうしたかしらと私は思った。昼頃になるともう朝鮮人が襲来して来たと早くも人々の口から言ひ伝えられた。又一つ新に不安な念がわいて来た。父が丁度本牧の親類へ行った後なので私は心配した。鮮人さはぎは益々はげしくなった。山と川との合言葉を云ったり日本刀を抜き身に、なたやぐりなどを持ったりして人々の気の心は殺気立った。見るのも凄いやうだ。昨夜鮮人と在郷軍人と間違って殺したと云ふ事や北方の方へ付火をしたと云ふ事がつたはった。丁度その時上の山で 「誰か早く来て下さい。鮮人が三人居ますよ、応援応援」といふ若い男女の人の声がした。殺気立って居る人々は我がちに声のするほうへ向って行った。その後から 「井戸を警回〔戒〕してください。井戸を警回してください」ち〔と〕云ふ声もした。私はすい分おどかされた。其の時また一つの事件が持上がった。其は競馬の方から一人の男の人がお米をかついで下町の方へ行くのが丁度私達の居る前を通りかかった時 後から「得て待て」と云う声がした。其の人がふりむくと 「お前は朝鮮人だろう」と云って身がまえをした。其の人は「私は日本人ですよ」と云った。「何嘘を云うな」と云いつつ其の人の頭をゴルプ〔フ〕の道具でうつてかかった。其の人の頭からはだくだくと生々しい血が流れ出た。其の人は「いたい」と云ってどんどん逃げてゐった。私の目の前でこの惨劇が行はれたのでびっくりした。小さい小供はなき立した。私の目で見るとさっきの人はたしかに日本人に相違なかった。(略)


㉙金珠鎬(当時二〇歳)

虐殺を免れた朝鮮人が一九八三年に韓国で証言

中学の夏休みを利用して、横浜の叔父母のもとへ行っていて震災に遭った。住所は横浜市石川町4-69番地。階段があり、ぐるりと山に囲まれたところだった。隣に亀の橋百貨店があり、崩壊していた上を這い上がって逃げた。叔母らと根岸町の競馬場に向かったが、地震から1時間とたたないうちに起きた火災のために叔母らとはぐれ、5才の女の子を連れて根岸町に逃げた。叔母とその娘は、火災を避けて竹林に逃れて夜を明かした。

翌2日、石川町の家に行ってみると全焼していた。また根岸町に戻る途中で叔母に会ったのが正午頃。午後3〜4時頃になると、根岸町付近の米屋に押し入って人々が米を盗んでいく。その主人が止めようとすると、その場で殺してしまった。それを見て、既に人間の心が殺気立ち、本当の自分の心でなくなっていることに気づいた。その夜を根岸町の競馬場側の倒れかけた家で過ごした。保土ヶ谷町の富士紡績会社の朝鮮人4、5人、他にも4、5人が合流して、その場を離れないことに決めた。

震災の翌日から、「朝鮮人は皆やっつけろ」という話が聞こえてきた。これは大変だと思った。女の人であれ、青年たちであれ竹槍・棍棒を持ち出して・・・そこは山で草むらがあったのだが・・・そこに潜んでいた朝鮮人を発見し(朝鮮服を着て板からすぐ発見された)容赦なくたたき殺す。朝鮮人は日本語を知らないから、助けてくれと言えない。止めようとすれば、こちらがやられる。もう皆正気ではないから。

そこに来た人が言うには「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「金庫を探るのは、みな朝鮮人だ」根岸町の人たちがそう吹聴するものだから、多の人も皆やって来て「そんな悪いことをするな」と言って・・・。

自分の身を隠す暇もないのに、そんなことできるはずがない。自分たちが悪いことして、みんな朝鮮人に転稼したんだ。一人二人でなく十何人ぐらい引っ張って行くのを見た。「鉄橋の柱に縛りつけて、日本刀で刺した」と、見た人が後で自分たちに語ってくれた

それからはもう一人でもその場で発見するとワーツと棍棒を持ち出してやっつけた。それを見て自分たちは「石川町4の69に長く住んでいる者だから保護してくれ」と町の人に頼んだ。そのうちの一人が、腕章をつけろとよこした。赤い無地の布だった。

海軍相手に商売している叔父が大洋丸で呉から戻り、軍の証明書をもらって根岸町にやって来た。大洋丸に乗って静岡の清水港まで行った。大洋丸には避難民が多かった。清水港に着くと江尻駅に向かった。そこに避難民の収容所があり、50~60人いた。学生も多かった。

江尻警察署では「学生たちを朝鮮に行かせると何をするか分からないから、なるべくここで安心させて就職でもさせよう」と言ってきた。何時間かねばったあげく、自分たちは列車に乗ることができた。大阪で乗り換え下関に行った。〔・・・〕

船に乗るときも交渉をして、結局乗ることができた。釜山に9月17日に着いた。翌18日、故郷の平壌に帰った。平壌に帰ってから、総督府警務局長の丸山鶴吉が「関東大震災を機に、朝鮮人が悪いことをしているから厳重に取り締まれ」と指示を出したと聞いた。

自分が見たり聞いたりした範囲では、50~60人が殺されている。慶尚南道、済州島の人が多く、全部労働者で朝鮮服のままの人が多かった。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「渡韓報告」一九八三年)


つづく



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