2024年2月14日水曜日

大杉栄とその時代年表(40) 1890(明治23)年4月 「新作十二番」(春陽堂) 第三回内国勧業博覧会 『博覧会他所見の記』(読売新聞 逍遥・紅葉・露伴) 皇紀2550年を記念して橿原神宮が創建 民事訴訟法・商法公布    

 


大杉栄とその時代年表(39) 1890(明治23)年2月~3月 徳富蘇峰「国民新聞」創刊 「東京朝日」急速に部数を伸ばす 北村透谷「時勢に感あり」 渋谷三郎・野尻理作が共に一葉一家から離れてゆく 丸の内一帯の三菱への払下げ決定  駿河台にニコライ堂が開堂(ジョサイア・コンドル設計) 南方熊楠、博物学を本格的に志す 子規、常盤会寄宿舎のベースボール大会(第4回)を決行 より続く

1890(明治23)年

4月

子規(23)、碧梧桐の句を添削,文通をはじめる。

4月

植木枝盛、前半は板垣と共に大津・敦賀・福井に遊説。後半、上京し、愛国公党事務所探し・創立大会(5月5日)準備。

4月

中里弥之助(介山、5)、神奈川県西多摩郡羽村立西多摩尋常高等小学校尋常科一年に入学。校長は黙柳佐々蔚。

4月

文芸出版社の最大手の春陽堂、「新作十二番」という叢書形式の書き下しシリーズを始める。


「これは尾崎紅葉の編集したもので、各冊半紙版、木版摺、彩色表紙、口絵入の各冊異なった装幀本であり、紅葉好みを十分に表現したものである。二十三年の四月から翌年の十二月までに、左記のとおり大家の小説を各巻読切とした出版であった。第一番篁村『勝鬨』、第二番紅葉『此ぬし』、第三番美妙『教師三昧』、第四番『三昧』、第五番新二『鎌倉武士』、第六番学海『十津川』、第七番香雪『梅その』、第八番得知『蓬莱噺』、という作者と書名であった。」(岡野他家夫『近代日本名著解題』)


「このラインナップを一目見ただけで、編集者紅葉の優れたセンス、というか、彼のそつのなさを窺い知ることが出来る。二十三歳にして彼は、かなり世慣れしている。まずここには彼の文学仲間たち、つまり巌谷小波や川上眉山といった硯友社の同人が一人も湿ってない。それに対して、当時のもう一つの有力な文学者グループ(しかも紅葉より年長者ばかりだった)根岸派の人々の作品が、饗庭篁村の『勝鬨』、宮崎三昧の『桂姫』、南新二の『鎌倉武士』、幸堂得知の『蓬莱噺』と半数を占める、この気くばり。・・・・・」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

4月1日

第三回内国勧業博覧会、上野。~7月31日。


「四月一日は実に胸臆(きようおく)に印して記すべきの時なるかな。余は明日成田地方へ旅行に出かけんと思ひし故一日の朝、非凡子と共に上野の美術展覧会に行き古画を見たり。北斎の画きし西瓜を半切せし上に白紙を張り、赤色の紙にしみたる処は如何にも真に迫り、西洋画も三舎をさけんと思はれたり。

「此日第三回内国勧業博覧会の始めて縦覧を許されし日といひ、殊に此頃の雨天にめづらしき日和なれば、上野は人の山をなせり。帰舎して午飯を喫し了れば、非凡子また博覧会に行かずやといふ。乃ち相携へて同会に至る。

「七銭にて切符を購ひ正面の鉄門をはひれば、第一第二第三本館は門の左右に分れたり。こゝらの処は一寸足を入れし処もあり、全く見ぬ処もあり、覗きたるのみにてすましたるもあり。直に美術館に向つて進みたり。博物館の門をはひれば、正面にテントを張り、其入り口に西洋流の門の模型を紙か木か何かにてつくられしは新奇なりしかども、芝居の舞台めきて実に下策なりを。其前左右に八角堂の如きものを仮りに建築して楽隊を入るる処とす。門を入りてすぐ右にある館を水産館とす。其後の方に水族館あれども、いまだ落成せず。水産館とをらびて美術館三陳あり。小川一眞氏出品の大写真は実に立派なるものなり。日本画は一二枚可なりのものを見た。

「今度新築せし博物館傍の煉瓦二階造りには西洋の美術品を参考として出せしものなり。本館の後にある機械館に至れば、蒸気機械の運転をなしつゝありし故、いかにも壮快にして今迄のつかれも忘るゝ程なり。馬屋牛屋にはいまだ一匹の牛馬も来らず。」(子規『筆まかせ』明治二十三年の「四月一日」)


「博覧会、それは今の如く年中ノべツには無いのであった。たしか第三回内国勧業博覧会、 それが二十三年国会開始と共に、帝都の春を一層賑はせる事に成つたのであつた。

各新聞では、各部門に分れて、各専門家に嘱託して、其批評を掲載するに熱中した。其中で『読売』は新機軸を出すに怠らず、『博覧会他所見(よそみ)の記』といふ一欄を設けて、出品以外に、今の所謂雑観 - 博覧会スケッチ - を掲載すべく大々的予告をして、其執筆者として、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴の三文豪を発表した。(江見水蔭『自己中心明治文壇史』)


紅葉「博覧会他所見の記」(『読売新聞』)

美術館前の、桜の木陰に設けられた「西洋造の売茶場」ダイヤモンド珈琲店の紹介

「エントランスの硝子戸を開くれば、接待には十四五の乙女三人(むすめみたり)、一様に白布の前面衣(えぷろん)かひがひしく扮装(いでた)ち、珈琲を勧め菓子(けえき)を運ぶ進退(ふるまい)いかにもおとなしく、賓客(きやく)に左礼(ざれ)ず媚(なまめ)かず、物馴(ものな)れずして初々しさは無上に難有し。」


水族館では

「「おツとせい」の前に蟻集(たかり)て、在(あ)るぞ在るぞとわめくは、これを人魚と思ふてなるべし。いかなる事をいふかと後に立てば、大の男この人魚はえらい醜容(ぶきりよう)ものと独語けば、また一人が分別あり顔に、これは必定雄であらう。」


「便所車」という名の移動手洗いについて

「改築前の辻便所様の物を惣丹塗にして、足に小車を四輪つけ、一車を二人懸りにて山中(やまじゆう)を引まはし、大人小児の差別なく、用たし賃金一銭と定め、当月十一日を開扉(かいひ)始にして、惣数三台なりといふ。


幸田露伴「苦心録」(『読売新聞』)


「出品は銀河万点の星の如く、誰も彼も争ツて自己(おのれ)が製造物を羅列せんとする此博覧会場裏の、地の尊さことは本町石町さては銀座通りの比にあらず、今ぞ上野は日本の目貫と云ふべき其中にて、第一東本館に間口五間を領し美術館西廊下にも幾点の出品をなし得たる河原徳立氏あり。

「氏の画付(えつけ)をなす常に意匠の新ならんを欲す、此故に製造に取掛る時は一日にて成功(できあが)るものも其物の形もなく焼にもかゝらず以前既に十五日二十日を考案に費す。一例を挙ぐれは、明治十九年中菊を固くに花を白く残し、薬は墨色濃淡にして薬筋を金にて引き薄茶色薄藍色にて上下よりポカシ、是に小鳥又は蝶なぞを添へたるは大に新奇にして喝采を博し、室内装飾品及び飯食器に付たるもの氏の一手に於て製造の分のみにて数十万個海外へ輸出せり。

「高須こと子は本年廿三の妙齢なり、今米国の桑港にあり。神奈川県久良岐郡中村川島銀次郎氏の長女にして幼より非凡の才あり、十七歳の時或る人の助力依り遠く米国桑港に渡り、直に M.M. London School に入り普通学を修め、試験抜群の故を以て二年の課程を僅か一年にて卒業し、爾来我東京に女服裁縫学校を設立するの目的を以て同地有名の裁縫師ロージー女に従ツて裁縫業を学ぶ、居ること二年業大に進み遂に名誉卒業証を得たり。サード街の裁縫会社(Hodge Suit House)之を聞き高給を以てこと子を聘(へい)す。こと子亦其恩義に感じ勤勉一日の如く、昨年暮衆望に由り裁縫女工取締人に選挙され、黄色の少女を以て五十余名の白色女工を指揮する至れり。こと子本年故国日本に於て勧業大博覧会ありと聞き遥に左の諸品を同会に出品す。」


と述べ、「バーチー、ドレス(夜会服)」、「レデース、オーキング、ドレス(貴女散歩服)」、「ヤングガール、オーキング、ドレス(小娘の散歩服)」などを列挙する。

4月2日

皇紀2550年を記念して橿原神宮が創建

4月4日

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、横浜に到着。

4月8日

幸田露伴『日ぐらし物語』(『読売新聞』連載~29日)

内国博のルポ記事「苦心録」(4月5日~30日)と同時に執筆している。

4月13日

アルゼンチン、インフレ進行、労働者の貧困化深刻。英は投資中断。青年市民同盟,市民同盟と改称、アレム委員長就任、ミトレ元大統領も支持。

4月21日

民事訴訟法、公布。施行は明治26年1月1日。明治12年以来のボアソナアドの努力が実るが、この頃、「外国人」の起草した「旧慣無視」の法典に対する反対論強まる。

4月26日

商法、公布。当初、施行は明治24年1月1日からとなっていたが、延期論強く明治26年1月1日となる。

つづく

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