大杉栄とその時代年表(38) 1890(明治23)年1月 森鴎外『舞姫』 子規『銀世界』 日本最初の文士劇 富山で米騒動(4月からは他地域にも波及) 現存する一番古い子規の漱石宛書簡 再興自由党結成 より続く
1890(明治23)年
2月
米国よりインフルエンザが入り、全国的に蔓延
2月1日
徳富蘇峰、「国民新聞」創刊。
2月2日
中村の民権家杉内清太郎、演説会の帰途殺害される
2月6日
愛国公党賛成者、関西クラブ結成(愛国公党の関西支部)。植木枝盛は常議員となる。板垣は小党分立の弊害、主義に基づく政党結成、議院内閣制樹立を訴える。翌日、板垣は枝盛執筆の集会条例第8条廃止建白書採択。
2月12日
吉野泰三、堀江銀次郎宛書簡草稿。再興自由党を批判。
再興自由党に対し「再興派の人々は自由あるを知りて国家あるに気付ぬ人多し」と批判、「政事家」の「本分」は、「国家の安寧幸福を計る」ことにあり、「完全不欠の個人自由は無政府、無租税ならねは不能」と述べる。自由をはき違えているとの吉野の批判は、政治的な自由や人権、個人の内面の独立性や自由という方向をとらず、国家主義的な前提の中に自由を埋没させる方向に向かう。透谷との相違。
2月17日
仙台、佐藤琢治、「民報」創刊。
2月20日
ドイツ、帝国議会選挙。社会主義労働党(のちの社会民主党)大勝利。3月1日の決選投票と合せ投票総数の19.7%獲得。エンゲルス「1890年2月20日は、ドイツ革命の開始の日です」(マルクス次女ローラへの手紙)。
2月21日
再興自由党総会開催。江東中村楼。中江兆民・大井憲太郎・天野政立・山田泰造と共に、石阪昌孝も常議員に選出。
2月23日
オーヴァーベック、イェーナのニーチェを見舞い、ラングベーンによる「治療」をやめさせる。ビンスヴァンガーは、オーヴァーベックに病因は梅毒にあるとみる所見を告げる。
3月
「東京朝日」、急速に部数を伸ばし始め、「時事」「毎日」「東京日日」「読売」「国民」など在京16社が東京市内の5大売捌店に「東朝」不売を呼びかける。
「東京朝日」は関東一円、東北、中部に一手専売の特約店を次々と広める商売上手をみせる。政党系列に属さない論調や報道中心主義が読者の好みに投じ、円山応挙「虎の図」を木版にした絵付録は、増刷が続き、原版が摩滅するはどの人気を呼ぶ。
3月
板垣、栗原亮一(枝盛とともに愛国公党ブレーン)などを連れて、大阪・奈良・岡山・高松・丸亀・松山を遊説。
3月
南越倶楽部臨時総会、杉田定一の意向を踏まえ、大同倶楽部を脱し、愛国公党加盟を決定。
加盟理由に、将来の自由派統一合同への期待を強調。また、政社組織をとることを決め総選挙に対応することになる。これより先の10月10日、「福井新報」後継の第2次「福井新聞」が発刊、第1回総選挙へ向けての県内自由派機関紙として、南越倶楽部の主導権を掌握した武生派が主力となって刊行。同紙は、1月、愛国公党趣意書を連載、社説では自由派統一合同の必要性を強調。4月の板垣遊説時には紙面に彼の肖像を掲載、歓迎の意を表す。
3月
景山英子(26)、大井憲太郎の子供を出産。男子で竜麿(のち、憲邦とも)と名付ける。
3月
北村透谷「時勢に感あり」(「女学雑誌」)。
この春
一葉の父の則義在世時代に樋口家に出入りして親族のように交わり、則義が娘達の将来について縁が結ばれることを期待したのは渋谷三郎と野尻理作の二人。
この春、その渋谷三郎(一葉の縁談相手)と野尻理作(一葉の妹くに子の縁談相手)が共に樋口家から離れて行く。
渋谷三郎は司法試験に合格して司法界に進むことを志し、任官までの援助を樋口家に期待する。この渋谷側の一方的な条件が原因で、一葉との縁談は破談に終わる。
野尻理作は帝国大学を中退して玉宮村へ帰郷。
渋谷三郎;
慶応3年(1867)10月、真下専之丞の次男徳治郎と妻とよの次男として生まれた。多摩の自由民権運動の政治結社融貫社の事務所を自宅に置いていた渋谷仙二郎の弟で自由民権運動の盛んな時期には熱心な自由党員だったという。明治18年東京専門学校邦文法科(現・早稲田大学法学部)に入学、同21年7月卒業。樋口家に出入りしたのは入学のため上京して間もない頃で、松永政愛の家で初めて一葉と逢った。則義が没するまで樋口家に親しく出入りしていた。三郎は一葉との縁談に臨んで、司法界に出るまでの生活の保障を肩代りすることを条件にした。これが原因となって、則義の死後、一葉との縁談は破談に終った。
三郎は、則義が没した翌年に高等文官試験に合格、その後新潟三条区裁判所を振作出しに検事、判事を歴任し、後に法制局参事官から秋田県知事、山梨県知事、早稲田大学法学部長、維持委員、理事、学長代行、報知新聞社副社長などを歴任。昭和6年(1931)4月6日65歳で没。
「はじめ我父かの人に望を属(ショク)して我が聟にといひ出られし頃、其答へあざやかにはなさで何となく行通ひ我とも隔てずものがたらひ、国子と三人して寄席に遊びし事なども有りけり。さるほどに我が父この事を心にかけつゝ半ば事と、のひし様に思ひて俄かにうせぬ」(日記「しのぶぐさ」明25年9月1日)。しかし、則義の没後、母たきがこれを正式なものにしようとしたところ、人を介して「怪しう利慾にかゝはりたることいひて来たれるに」、婚約は破談になったという。「利慾にかゝはりたること」とは、高等文官試験をめざしていた渋谷が、それまでの学費や生活費の保証を樋口家に求めたと考えられている。
明治25年夏、検事となって新潟に在職していた三郎は、作家として名の聞こえはじめた一葉を尋ね、必要があれば坪内逍遥・高田早苗などに紹介しようと語り、復縁の意さえもらしたらしいが、一葉はこれに応じなかった。
一葉は日記「しのぶぐさ」にこれを記す。
一葉の小説には、「闇桜」「たけくらべ」など幼馴染の少年少女の愛が破局に終わる悲恋物語が多いのは、この折の体験にねざすところが大きいと思われる。また、一葉が生涯独身であったのは、当時の民法では、婿をとることはできても嫁に行くことはできない女戸主であったからではあろうが、三郎の背信から生じた男性不信の念もあってのことだったかもしれない。
少なくとも一葉が、「十三夜」や「われから」などの小説の中で、結婚生活の悲劇をくり返し描いたのは、描くことで、結婚願望をあきらめさせようと、みずからに言い聞かせたのだともいえよう。さらにはまた、結婚をあきらめなければならないという、現実の受身の条件から、居直ったかたちで、自分から男性の愛情を拒否するという発想をも生み出すことになったにちがいない。「やみ夜」のお蘭、「にごりえ」のお力などは、そうした一葉の屈折した女性心理の反映と解することも可能であろう
野尻理作は渋谷三郎と同じ慶応3年(1867)9月甲斐国山梨郡玉宮村字下竹森の大地主野尻市朗右衛門と妻よしの次男として生まれた。甲府の学問所であった徽典館(キテンカン)を出て、明治20年(1887)に上京して東京帝国大学文科大学に和文科が開講されたのを機に一期生として入学、則義がその在京中の生活を監督した。則義の没後、寺への連絡と新聞の死亡広告掲載の依頼の為にまっさきに理作にこれを知らせている。理作は妹くにとの縁談が期待されていたようであるが、明治22年則義が世を去ると、明治23年春頃、卒業を待たずに学業を切り上げて帰郷した。(この二人の関係は、「ゆく雲」の野澤桂次と上杉家の関係に投影されている。) 明治25年7月、兄の野尻大助が出資者の一人となって地方新聞『甲陽新報』が創刊された。理作はその編集に携わり、同年10月18日から25日にかけて一葉の書き下ろした「経づくえ」が「春日野しか子」の筆名で掲載された。明治30年頃横浜市磯子区に移り、『横浜民報』の記者などを務めたのち、昭和20年9月18日享年79歳で死去した。
この春ころ
この頃(明治23年春)の宮武外骨。
坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫)による
「・・・・・彼は今、憲法発布の際のパロディ紙により不敬罪に問われて、石川島の獄中にいる。・・・・・
法治国民たる者は、たとえ全くの冤罪であっても、裁判確定の上はその刑に服さねばならぬのであるが、少壮驕慢の予は「無法の重刑」と見て、この刑罰に服従しない覚悟を定め、重禁錮刑であるから、労役に就かねばならぬのであるが、予はその労役就かない事にした、三年間、獄則の罰法によって減食、屏禁(へいきん)、闇室に入れられても構わない「勝手にしろ」という頑強の態度であった。
(「外骨が獄中で校正した雑誌」)
ところが当時の典獄(署長)大浦泰は、とても理解ある人で、
毎日二回位ずつ予が独居の監房へ来て、身体に異状はありませんか、読みたい本はないですか、など云うのみ「オイ押丁(おうてい)、この布団は薄いようだから、新しい厚いのと取り替えろ」とか窓外の灯台を見て「低くては夜間の読書に不便であろうから二三尺高めろ」とか命ずるなど、予の機嫌をとるばかり、はては「独りでは淋しいでしょう」とて、予の共犯者たる安達徳山の二人を予の監房へ入れてくれた。
・・・・・大浦はさらに「獄則によって罰する事は当然であり、また容易であるが、それではアナタの身体のためによくない、前途春秋に富む者、社会へ出て永久にお働きなさい、工場で仕事などはせぬでもよろしい、出るだけ出てくれないと、典獄として私が困る」という、「獄官にも似ぬ温和の訓言」を吐き、外骨もその「大浦氏の切情にホダされ」、「石川島監獄工場中最優等たる活版工場」へ働きに出る。
その職工中の上位たる校正掛、月給三円二十銭、その内の四割で牛肉鶏卵を購入しうる身に転向した。獄中の活版所であるから、時事報道物の印刷は許されない、宗教か道徳か教育書の類、雑誌では前記の『法話』があり、第二十一号より印刷する事になった。その雑報や広告中で娑婆の様子をわずかに知り得られたので、毎月この雑誌の原稿が来るのを楽しみにしていた。
・・・・・しかも彼は、この仕事のスキを見て、何と、獄中で詩集を刊行しようとする。『鉄窓詞林』と題した詩集を。ちょうど第三回内国博が開催されようとする明治二十三年春のことだ。そして、その刊行を予告する広告紙を内々で配付したのだが、「この配付のため予は活版工場を逐われて製本工場に転じたので発行は不可能に了(おわ)った」と、彼は、昭和に入ってから、彼のプライベート・ペーパー『公私月報』第十五号(昭和六年十一月)で述べている。・・・・・」
3月
子規、同級生大谷藤次郎にあてた手紙に幼名の升(のぼる)にかけて「野球(ノ・ボール)生」と署名。
3月
幸田露伴(読売新聞社員)、坪内逍遥に連れられた斎藤緑雨と初めて会う。
『明星』緑雨追悼号(明治37年5月号)巻頭の露伴の「故斎藤緑雨君」というインタビュー。「先づ緑雨氏との御交際の始めの事から伺ひませう」という記者の質問に、露伴は、こう答えている。
私が始めて斎藤君に逢ったのは十数年前の事で、私が尾崎紅葉君と一所に読売新聞の社員の端に列って居た時分、或日の事でした、是も其頃同社に関係のあった坪内君が緑雨氏を連れて同社の或る室に入って居られた。其時に私は始めて(蓋し尾崎君も亦)緑雨氏に逢ったのでした。
3月6日
丸の内一帯の三菱への払下げ決定。渋沢と競合。陸軍練兵場の跡地。「三菱の基礎を築いた大番頭」荘田平五郎の発案で推進。
荘田平五郎:豊後臼杵藩の儒学者の家に生まれる。福沢諭吉の高弟。慶應義塾教師に時、岩崎彌太郎に乞われて三菱入り(当時のメインは海運業)。三菱に於て岩崎家以外で最高位の管事を務める。実弟は岩崎2代目彌之助。
3月8日
駿河台にニコライ堂が開堂(ビザンチン様式。関東大震災でドームや鐘楼が崩壊、復興再建)。ジョサイア・コンドルの設計(他に、鹿鳴館・三菱1号館1894・岩崎邸1896など)。辰野金吾(東京駅・日本銀行の設計)・片山東熊(赤坂離宮の設計)・妻木頼黄(旧横浜正金銀行の設計)はコンドルの弟子。
3月9日
米人リゼンドル、朝鮮の協弁内務府事となる
3月12日
ストローガー、自動電話機の特許取得。
3月15日
八王子、衆議院議員選挙研究会。三多摩町村長集合。夜、南多摩郡懇親会開催。懇親会の席で県会議員村野常右衛門は、候補者を石阪昌孝(南多摩郡)・瀬戸岡為一郎(西多摩郡)に決定と報告。吉野泰三、南多摩郡内の紳士派(=老成派)・土方敬二郎、青木正太郎、中溝昌弘ら反壮士派の支援を期待して立候補決意。
3月17日
・清・英間、シッキム条約(チベット・インド条約)締結。シッキム王国が英保護領となる
3月17日
この日付けの南方熊楠の日記。プリニウス『博物誌』のラテン語原典全5冊を入手し、ライフワークとなる博物学を本格的に志している。
「費府のフート氏より、プリニー、ナチュラル・ヒストリー(羅甸(ラテン)文)五冊、イリノイズ州ビュレチン、寄生菌部一冊着。」
3月17日
ビスマルク、ドイツ帝国宰相辞任意向表明。20日、ビスマルク辞任によりヴィルヘルム2世親政開始。
3月20日
第6回「アンダパンダン展」に出品された10点のゴッホの作品は、画家たちの間で大好評。
3月21日
子規、常盤会寄宿舎のベースボール大会(第4回)を小雨の中、上野公園の博物館脇の空地で決行。
「試合がはじまると、公園に花を見にきた書生、職人、官吏、婦人がつぎつぎ立ちどまって眺め、やがて立錐の余地もなくなるほどだった。子規をはじめ選手らはみな得意である。ベースボールこそモダニズムの体現である。・・・・・
だが第五イニングにかかった頃、急に雨脚が強まり、見物人はみな逃げ去った。しかし彼らは観客なしの雨中で、第九イニングまで試合をしとおした。帰りかけた頃、雨はあがった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )
3月24日
ニーチェ母フランツィスカ、退院したニーチェとイェーナに住む。
3月24日
内閣機密費。山県首相、内閣貯蓄金(予算の余剰金の積み立て)250万円を皇室に献上。天皇はこれを「東宮御所建築予備金」とし、その銀行利子12万5千円/年を内閣機密金として6・12月に内閣に下賜することとする。
3月25日
女子高等師範学校設立。
3月26日
ヘレン・ケラー、発声練習開始
つづく
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