2024年2月28日水曜日

大杉栄とその時代年表(54) 1891(明治24)年8月 「職工義友会」(アメリカ、高野房太郎ら) 漱石の子規宛て8月3日付け手紙(嫂登勢「悼亡」の句13句 日本文学研究の決意を吐露) 鴎外(29)医学博士   

 


大杉栄とその時代年表(53) 1891(明治24)年7月 漱石、特待生に選ばれる(月2円50銭の授業料免除) 漱石、 子規の落第阻止のため教授の間を奔走 長谷川利行生まれる 漱石が井上眼科で出会う「可愛らしい女の子」 「東京朝日新聞解停祝」「本日無ちん東京朝日新聞」 漱石の兄嫁登世(24)没 漱石の二回目の富士登山 より続く

1891(明治24)年

8月

康有為、広州に万木草堂学館を開設

8月

西園寺公望、ドイツ公使として3年半ベルリンに駐在し、この月帰国。

8月

津田梅子、米留学より帰国。

8月

穂積八束「民法出デテ忠孝亡ブ」(「法学新報」)。民法延期論。論理でなく煽動。

8月

米、働きながら苦学している高野房太郎・城常太郎・沢田半之助ら、サンフランシスコで労働問題の研究会「職工義友会」を組織。実践的な関心も強く、城をはじめ米で働く靴職人を組織、加州日本人靴工同盟会を結成。1897年帰国し、同年春職工義友会を再組織、高野起草も「職工諸君に寄す」を配布し、日本の労働者に労働組合の結成を呼びかけ労働組合期成会を組織。

81日

福井県で、「郡制」施行。郡の分合がない為、全国的に最も早く郡制施行。8月1日より「府県制」施行。

府県制により府県は初めて法人と規定され、府県会の職務権限は、従前は「地方税規則」で列挙制限された予算・地方税徴収方法の決議に限定されていたものが、府県会は県民を代表し広く府県に関する一切の事件を決議するとされる。府県会規則で諮問機関とされる常置委員会は廃止され、新しく参事会が設置、府県知事・高等官2人・名誉職参事会員として府県会で互選された県会議員4人(府会議員8人)で構成される参事会は、議決権・意見陳述権・行政監査権などをもち議決機関であるだけでなく執行機関としても位置づけられる。府県会議員選出方法は間接選挙(複選制)となる。市では、市長・市会・市参事会が会同し市長を会長として、郡では郡会・郡参事会が会同し郡長を会長として選挙を行う。但し、会長は投票に加わらず、投票は列記無記名で行う。県会議員の被選挙権資格は、県内市町村の公民中選挙権を有し、1年以来直接国税10円以上納める者に与えられ、衆議院議員を兼ねることはできないが、町村会議員、郡・市会議員、貴族院議員との兼務は認められる。議員定数は、福井県のような人口70万以下の県は30人とされ、1市11郡に割り当てられる。

郡・県行政への住民参加が参事会を通じて許容され、複選制により福井県では県会議員に町村長・郡会議員を兼ねるものが多数選出され、県会には各地域の町村会や郡市会の意向が強く反映されることになる。これは、国家と人民の間に府県・郡(市)・町村の自治体を設置し、これに制限選挙・複選制により選出された地域有力者を参加させ、官僚的統合と密接に結合させる支配様式が形成され、明治憲法体制の基底を支える地方自治体制が構築されたことを意味する。こうした体制が構築されると、資格任用制度が導入されたこともあり、知事は個性的手腕により地方を統合する存在ではなくなり、専門的行政官僚の性格が強くなる。20年代に入ると人格的支配から機構支配へと地方官制も整備され、福井県では8年間知事であった石黒の後は短期間に知事交替がなされることになる。

8月3日

漱石の子規宛て手紙に嫂登勢の「悼亡」の句13句を送る。また、鴎外の作品2篇を賞めて叱られたことに触れ、弁明を試み、感懐を吐露する。

大学入学当時には、「英語英文に通達して、外國語でえらい文學上の述作をやつて、西洋人を驚かせようといふ希望を抱いてゐた」(「處女作追懐談」)と自信を持っていたが崩れ、正岡子規に勧められて、日本文学の研究にも眼を向けようかと思う。

8月3日、この日付け漱石の子規宛て書簡


「不幸と申し候は余の儀にあらず、小生嫂の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻(おそ)と申す病気にかゝり、兎角打ち勝(すぐ)れず漸次重症に陥り子は闇より闇へ、母は浮世の夢廿五年を見残して冥土へまかり越し申候。天寿は天命死生は定業(じようごう)とは申しながら洵に(まこと)洵に口惜しき事致候。

わが一族を賞揚するは何となく大人気なき儀には候得共、彼程の人物は男にも中々得易からず、況(まし)て婦人中には恐らく有之(これある)間じくと存居候。そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共、社会の一分子たる人間としてはまことに敬服すべき婦人に候ひし。先づ節操の毅然たるは申すに不及(およばず)、性情の公平正直なる胸懐の洒々落々(しやしやらくらく)として細事に頓着せざる抔、生れながらにして悟道の老僧の如き見識を有したるかと怪まれ候位、鬚髯鬖々(しゆぜんさんさん)たる生悟(なまさと)りのえせ居士(こじ)はとても及ばぬ事小生自から慚愧(ざんき)仕候事幾回なるを知らず。かゝる聖人も長生きは勝手に出来ぬ者と見えて遂に魂帰冥漠魄帰泉只住人間廿五年(こんはめいばくにきしはくはせんにきすただにじかんにすみてにじゆうごねん)と申す場合に相成候。さはれ平生仏けを念じ不申(もうさず)候へば極楽にまかり越す事も叶ふ間じく、耶蘇(ヤソ)の子弟にも無之候へば天堂に再生せん事も覚束なく、一片の精魂もし宇宙に存するものならば二世と契りし夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴(ほうふつ)たらんかと夢中に幻影を描き、ここかかしこかと浮世の羈絆(きはん)につながるゝ死霊を憐み、うたゝ不便(ふびん)の涙にむせび候。母を失ひ伯仲二兄を失ひし身のかゝる事には馴れ易き道理なるに一段毎に一層の悼惜を加へ候ば、小子感情の発達未だ其頂点に違せざる故にや。心事御推察被下(くだされ)たく候。

悼亡の句数首左に書き連ね申候。俳門をくゞりし許りの今、道心佳句のあり様は無之、一片の衷情御酌取り御批判被下候はゞ幸甚。

朝貌(あさがお)や咲た許りの命哉(かな)

細眉を落す間もなく此世をば(未だ元服せざれば)

人生を廿五年に縮めけり(死時廿五歳)

君逝(ゆ)きて浮世に花はなかりけり(容姿秀麗)

仮位牌(かりいはい)焚く線香に黒む迄

こうろげの飛ぶや木魚の声の下

通夜僧の経の絶間やきりぎりす(三首通夜の句)

骸骨や是も美人のなれの果(骨揚のとき)

何事ぞ手向(たむけ)し花に狂ふ蝶

鏡台の主の行衛(ゆくえ)や塵埃(ちりほこり)(二首初七日)

ますら男(お)に染模様あるかたみかな(記念分(かたみわけ))

聖人の生れ代りか桐の花(其人物)

今日よりは誰に見立ん秋の月(心気清澄)

鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳も無之、これも小子嗜好の下等なる故と只管(ひたすら)慚愧致をり候。元来同人の作は僅かに二短篇を見たるまでにて全体を窺ふ事かたく候得ども、当世の文人中にては先づ一角ある者と存をり候ひし。試みに彼が作を評し候はんに結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相(あい)聚(あつま)つて小子の目には一種沈鬱奇雅の特色あるやうに思はれ候。尤も人の嗜好は行き掛りの教育にて(仮令ひ文学中にても)種々なる者故己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏窟な議論に見ゆる者に候得ば、小生自身は洋書に心酔致候心持ちはなくとも大兄より見ればさやうに見ゆるも御尤もの事に御座候。全体あの時君と僕の嗜好はこれほど違ふやと驚き候位、しかし退いて考ふればこれ前にもいへる如く元来の嗜好は同じきも従来学問の行き掛りにて、かかる場合に立ち到り候事と存じ、それよりは可成博覧をつとめ偏僻に陥ざらんやうに心掛をり候。その上日本人が自国の文学の価値を知らぬと申すも日本好きの君に面目なきのみならず、日本にそれほど好き者のあるを打ち棄ててわざわざ洋書にうつつをぬかし候事、馬鹿々々敷限りに候のみならず、我らが洋文学の隊長とならん事思ひも寄らぬ事と先頃中より己れと己れの貫目が分り候得ば、以後はなるべく大兄の御勧めにまかせ邦文学研究可仕(つかまつるべく)候。さはれ成童の頃は天下の一人と自ら思ひ上り三身の己れを欺いて今まで知らずに打ち過ぎけるよと思へば自ら面目なきまでに愧入(はじいり)候。性来多情の某(それがし)何にでも手を出しながら何事もやり遂げぬ段無念とは存候得ども、これまた一つは時勢の然らしむる所と諦めをり候。御憫笑。

(略)」

「漱石は、子規の洋学嫌いに閉口しながら、「小子嗜好の下等なる故と只管(ひたすら)慚愧致居候」、とまずは遜(へりくだ)って見せるが、続いてその佳作たる理由をあらためて説明する。鴎外の二作品とは、確定できないが、「舞姫」「うたかたの記」「文つかひ」 の中の二つである。それについて「結構〔構成〕を泰西に得 思想を其学問に得 行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者」であって、「諸分子相聚(あいあつま)って」「一種沈鬱奇雅の特色」があると思うと、その総合的性格を評価した上で、人の嗜好は教育によってさまざまだから、「公平の批評」と思っていても偏屈に見えることもあるだろう、自分では「洋書に心酔致候心持ちはなくとも」大兄にはそう見えることがあるかもしれない。これからは「可成(なるべく)博覧をつとめ偏僻に陥ざらん様に心掛」けて、「邦文学」研究をするつもりである、と神妙である。「性来多情の某(それがし)何にでも手を出しながら何事もやり遂げぬ段 無念とは存候得共 是亦一つは時勢の然らしむる所と諦め居候」。文学一つをとっても、欧米露、さまざまな文学観が権威をもって流入しはじめた時代であった。

一本気で一筋の道を行く子規と、広く全体的な価値観を手に入れようとした漱石と、どちらが正しいという問題ではない。異質な者同士が卒直に自分の考えを述べて成長していく、羨ましい友情である。ただし子規の一般的「標準」嫌いはこの後も変わらなかった。」(岩波新書『夏目漱石』)

「明治十七年(一八八四)九月、金之助が大学予備門に入学したころドイツに官費留学を仰付けられた陸軍二等軍医森林太郎は、ライブツィヒでホフマンに、ドレステンでロオトに、ミュンへンとベルリンでそれぞれぺッテンコオフェルとコッホに学び、西園寺公望・山県有朋・乃木希典などという貴顕のあいだに知己を得た。彼が満四年間の留学を成功裡に終えて帰国したのは、明治二十一年(一八八八)九月八日であった。

彼はすでに少佐相当官の陸軍二等軍医正であり、鴎外と号して新声社S・S・Sの名で発表した『於母影(おもかげ)』の訳詩集や、「文学評論 しがらみ草紙」の評論活動によって文壇にも名をあげていた。その小説『舞姫』が、「国民之友」に発表されたのは明治二十三年(一八九〇)一月である。鴎外はその後、つづけさまに『うたかたの記』(明治二十三年八月)、『文づかひ』(明治二十四年一月)を発表した。(明治二十四年八月)・・・・・、鴎外森林太郎は医学博士の学位を授与された。彼はこのとき二十九歳であった。

(中略)

わずか五歳の年長だというにすぎない鴎外森林太郎の達成が、金之助にどれほどの衝撃をあたえたかは想像にかたくない。なまじ正岡のような文学青年ではなかっただけに、彼は自分の「洋文学の隊長」志望につきまとう貧寒さを、いやというほど痛感させられたはずだからである。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

                 

「日清戦争の従軍記者として志願した子規は、一八九五年五月四日から十日にかけて、金州にいた第二軍兵站軍医部長の森鴎外を連日訪ね、俳句の話をしている。子規は「松蘿玉液」の中で〈鴎外漁史〉を語っている。漱石も子規も子規庵の句会にみえた鴎外に会っている。鴎外主宰の「めさまし草」には、日本派の俳句が掲載されていたので、それを通じ鴎外、子規の交流はつづいた。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)

8月4日

兵庫県明石町暴動。明石町では1889年4月発足当初より町長派と改革派の対立が続く。改革派は町長と富豪による町政私物化を不満として,’91年春不正追及の行動を起し、3千人の署名を県当局へ陳情、県は町政を監査、問題点を摘発。自由党は町政糾弾運動を展開、この日、町民4千人が集合して町長宅などを襲う。後、町長は引責辞職。

8月5日

イギリス、初等教育法改定、公立学校授業料廃止

8月6日

労働騎士団のJohn Hayes、高野房太郎に宛て機関誌誌代が切れたが購読を続けるよう勧める手紙

8月9日

北村透谷(23)、小田原鴎鳴館で開催の函東会(小田原出身者の会)足柄部大会に出席し、戯曲を音読。

8月9日

この日付け漱石の子規宛ての手紙。


「眼病がずるずるべったりで善くなりもしないが悪くもならないと知らせ、庭の景色を措写し、このころは何となく「浮世がいやになり」どう考えても考え直しても「いやでいやで立ち切れず」「去りとて自殺する程の勇気もなきときは」矢張り人間らしき所が幾分かあるせいか、と述べ、ゲーテや鴨長明の言葉を付している。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)

8月11日

日高藤吉郎、日本体育会を創設。

8月13日

この日付け南方熊楠の、日本にいる友人喜多幅武三郎(和歌山中学の同級生、のち医者、熊楠の生涯にわたる親友)に宛てた手紙。


「小生ことこの度とほうとてつもなきを思い立ち、まず当フロリダ州から、スペイン領キュバ島およびメキシコ、またことによれば(一名、銭の都合で)ハイチ島、サンドミンゴ共和国まで、旅行といえば、なにか武田信玄の子分にでもなつて城塁などの見分にでも往くようだが、全く持病の疳積(かんしゃく)にて、日本の学者、ロばかり達者で足が動かぬを笑い、みずから突先して隠花植物を探索することに御座候て、顕微鏡二台、書籍若干、ピストル一挺提帯罷り在り、その他捕虫器械も備えおり候。虫類は三、四千、隠花植物は二千ばかり集める心組みにで、この辺はあまり欧米人の探索とどかぬ所ゆえ、多少の新発見もこれあるべしと存じ候。紀行はやがて『時事新報』へ出すべく候間、御覧下されたく候。黒人のみの所にて、白人とてもスペイン人のみ多く、人情風俗も大いにかわり、旅券徒然のほど御察し下されたく候。

幸いなることには、小生スペイン語ちょっとやらかし、また顔貌は少しもたがわず候ゆえ、大いに助かり申し候」

8月16日

ブリュッセル、第2インターナショナル第2回大会開催。16ヶ国337人参加。1889年にはマルクス主義者とポッシビリストに分かれていた国際労働者大会が一本化するが、8時間労働日の実現、とくに反軍国主義のための闘争でゼネストを重視するアナーキストと慎重論を説くドイツ社会民主党との対立が顕在化。「戦争に対する戦争を」という標語が初めて出現。23日、戦争反対決議。

8月21日

安部磯雄(26)、横浜港からゲーリック号で出航、ハートフォード神学校に学ぶためアメリカに向かう。28年2月、ヨーロッパを回って帰国。

8月21日

南方熊楠、ジャクソンヴイルを出発、タンパ経由、キーウエストに到着。

8月24日

鴎外(29)医学博士の学位を受ける。12月28日従六位に叙任。

8月27日

ロシア・フランス、政治協定締結。10月、フランス、ロシアにシベリア鉄道敷設費借款供与。


つづく

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