2024年2月27日火曜日

大杉栄とその時代年表(53) 1891(明治24)年7月 漱石、特待生に選ばれる(月2円50銭の授業料免除) 漱石、 子規の落第阻止のため教授の間を奔走 長谷川利行生まれる 漱石が井上眼科で出会う「可愛らしい女の子」 「東京朝日新聞解停祝」「本日無ちん東京朝日新聞」 漱石の兄嫁登世(24)没 漱石の二回目の富士登山     

 


大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる より続く

1891(明治24)年

7月

正直正太夫(斎藤緑雨)『かくれんぼ』(春陽堂「文学世界」第6巻)刊行。


「この時期の緑雨を、小説家としてのピークと見なす論者は多い。だいいち、緑雨自身が、それを認めているのだから。明治三十二年に雑誌『太陽』に連載された短文随筆「日用帳」で彼は、「油地獄を言ふ者多く、かくれんばを言ふ者少し、是れわれの小説に筆を着けんとおもひ、絶たんとおもひし双方の始なり、終なり」と書いている。つまり彼は、密かに自信を持って発表した『かくれんぼ』の評判があまり芳しくなかったので、小説家としてのやる気を失ってしまったというわけだ。

評判うんぬんはともかく、口語体に近い文章で書かれた「油地獄」に比較して、近世俗文系統の文体を持つ(緑雨自身はこちらの文体の方が書き慣れていたらしい)『かくれんぼ』は、とても読みにくい。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

7月

漱石、特待生に選ばれ月2円50銭の授業料を免除される。

子規が落第必至の形勢になり漱石は子規のために教授のあいだを奔走。


7月9日付け漱石の子規宛て手紙。


「観劇の際御同伴を不得残念至極至極残念(宛然子規口吻)。去月三十日曇天を冒して早稲田より歌舞伎座に赴く。ぶらぶらあるきの銭いらず。神楽坂より車に乗る。烈(はげ)しかれとは祈らぬ南風に車夫よたよたあるきの小言沢山、否とよ車主さな怒り給ひそ風に向つて車を引けばほろふくるるの道理ぞかしと説諭して見たれど車耳南風にて一向埒あかず。十時半頃土間の三にて仙湖先生を待つ。ほどなく先生到着、錬卿をつれて来ると思ひの外岩岡保作氏を伴ひし時こそ肝つぶれしか(再模得子規妙)。固より年来の知己なれば否応なしに桝に引つばり込んで共に見物す。桝の内より見てあれば団十郎の春日の局顔長く婆々然として見苦し。しかし御菓子頂戴、御寿もじよろしい□取結構と舞台そつちのけのたら腹主義を実行せし時こそ愉快なりしか。仙湖先生は頻りに御意に入つてあの大きな眼球から雨滴ほどな涙をこぼす。やつかれは割前(わりまえ)を通り越しての飲食に天咎(てんきゆう)のがれ難く、持病の疝気急に胸先に込み上げてしくしく痛み出せし時は芝居所のさわざにあらず、腰に手を当て顔をしかめての大ふさぎは、はたの見る目も憐なり。腹の痛さをまぎらさんと四方八方を見廻はせば御意に入る婦人もなく、ただ一軒おいて隣りに円遊を見懸けしは鼻々おかしかりしな。あいつの痘痕(あばた)と僕のと数にしたらどちらが多いだらうと大に考へて居る内いつしか春日の局はおしまひになりぬ。公平(きんぴら)法問の場は落語を実地に見たやうにて面白くて腹の痛みを忘れたり。

惣じて申せばこの芝居壱円以上の価値なしと帰り道に兄に話すと、田舎漢が始めて寄席へ行と同じ事でどこが面白いか分るまいと一本鎗込られて僕答ふる所を知らず。そこで愚兄得々賢弟黙々。

今日学校に行つて点数を拝見す。君の点で欠けて居る者は物集見の平生点(但し試験点は七十)と小中村さんの点数(これは平生も試験も皆無だよ)。余は皆平生点ありじくそんは平生87に試験46、先以て恐悦至極右の訳だから小中村の平生点六十以上と物集見の平生点六十以上あれば九月に試験を受る事が出来る。しかし今のままでは落第なり。

先は手始めの御文通まで、余は後便。

九日午後                                       金之助

正岡常規さま」


物巣高見(国文学者)・小中村清矩(同上)両教授に対する追試の運動は、国文科の一級上にいた芳賀矢一を通じて行われ成功した。

7月

狩野亨吉、帝国大学文科大学哲学科卒業。帝国大学大学院に入学。「数学のメソドロジー」を研究する。

7月

ロマン・ロラン(25)、イタリアからフランスへの帰途、マルヴィーダとバイロイトを訪れ「パルジファル」を聞く。「エンペドクレス」と「オルシーノ」執筆。

7月9日

長谷川利行、京都山科に五人兄弟の三男として生まれる(出生届けの本籍は京都府久世郡淀下津町104番戸)。なお長男は不明だが、次男利一は1887(明治20)年8月2日に、四男利邦は1894(明治27)年8月20日に、そして五男清は1902(明治38)年に生まれている。

安政4年生まれの父長谷川利其(としその)は伏見警察署に勤務、母照子(戸籍ではテル)。祖父軍二は淀藩稲葉家に召しかかえられた俳諧師で南陽の俳号をもつ。紀州田辺に住んでいたこともあり、父もまた其南の俳号をもっていた。また母照子は淀藩御典医小林家の出という。

7月15日

子規の漱石宛の手紙。


「小生ハ如何なる前世の悪業にや今度之試験にも及第せしよし誠ニ有がた迷惑ニ存候 兼て御話申上候通り今度の試験ニ落第したる暁ニハ高等中学ハ勿論やめてしまひ一年間ハ故山の風月に浩然の気を養ひ其後事情によりてハ大学の撰科へはいる積りニ御坐候処・・・・・」

7月16日

この日付け漱石の子規宛ての手紙。

平凸凹(漱石)より物草次郎(子規)へ、子規の追試への奔走と『文学会雑誌』の報告。


「貴地御安着、日々風流三昧に御消光の事と羨望仕をり候。小弟あひかはらず宰予の弟子と相成雕(ちよう)しがたき朽木をごろごろ持ちあつかひをり候。

小中村、物集見平常点の義に付き教務掛りへ照会致候処、一日も早く御差出し有之べくとの事故去る十二日芳賀矢一君方へ参り右の談判相頼み候処、小中村は当時伊香保入浴中の由にて、早速木暮金太夫方へ同氏より書状差し出しもらひ候。

物集見へも同日同時に頼み状同人より相つかはし候。但し両人とも不承知なら返事をよこすはず承知なら何ともいふて来ぬはずなり。今まで何ともいふて来ぬ故出してくれたに相違なしと断定する者なり(尤もこの頃の暑さに恐れて学校へは参り不申)。由て来る九月に追試験の御覚悟にて随分御勉強可被成候

芳賀氏訪問の節同人の話しに、来る九月より大学にて『文学会雑誌』といふ者を発兌(はつだ)する都合にて、その手順ととのいたる赴きに御座候。過日大兄と御話しの件ふと実行の緒につきたるは随分奇妙、月旦は発兌の上の事。何しろ大学の名誉に関せぬやう願たき者也。大兄も一臂(いつぴ)の御尽力あつては如何(おいやでげすかね)。

先は用事まで、余は後便。

この手紙二本目に付、無性者の本性として非常の乱筆なりおゆるしあれ。

盆の十六白                           平凸凹

物草次郎様 こもだれの中

試験は是非受けるつもりでなくては困ります。

7月18日

この日付け漱石の子規宛ての手紙。学士に固執するより養生専一にと返事。


「去る十六日発の手紙と出違に貴翰到着。早速拝誦仕儀。人をけなす事の好きな君にほめられて大に面目に存候。嗚呼持つべき者は友達なり。

愚兄得々賢弟黙々の一語、御叱りにあづかり恐縮の至り以来は慎みます。

御帰省後御病気よろしからざるおもむき、まことに御気の毒の至に存候。さやうの御容体にては強いて在学被遊候とても詮なき事、御老母のみかは小生までも心配に御座候得ば、貴意の如く撰科にても御辛抱相成る方可然(しかるべし)、人爵(じんしやく)は固より虚栄学士にならなければ飯が食へぬと申す次第にも有之まじく候得ば、命大切と気楽に御修業可然と存候。それについても学資上の御困難はさこそと御推察申上候といふまでにて、別段名案も無之、いくら僕が器械の亀の子を発明する才あるも開いた口へ牡丹餅を抛(ほう)りこむ事を知つてゐるとも、こればかりはどうも方がつきませんな。それも僕が女に生れていれば一寸青楼へ身を沈めて君の学資を助るといふやうな乙な事が出来るのだけれど・・・・・それもこの面ではむづかしい。

試験廃止論、貴察の通り泣き寝入りの体裁、やつたところが到底成功の見込なしと観破したね。

ゑゑともう何か書く事はないかしら、あゝそうそうそう、昨日眼医者へいつた所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、―[銀]杏返しに竹なはをかけて‐‐天気予報なしの突然の邂逅だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね。まるで夕日に映ずる嵐山の大火の如し。その代り君が羨ましがつた海気屋で買つた蝙蝠傘をとられた。それ故今日は炎天を冒してこれから行く。

七月十八日                                  凸凹

物草次郎殿」

この「眼医者」は井上眼科病院で、この頃、漱石は持病の結膜炎治療のために毎日のようにこの眼医者に通っていた。病院長の井上達也はドイツ留学帰りで、その最新の医療を受けようと患者は激増していた。


漱石のいう「可愛らしい女の子」について、鏡子夫人が『漱石の思い出』「松山行」の中で回想している。


当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家がうるさいとかで、小石川の伝通院付近の法蔵院という寺に間借りをしていたそうです。たぶん大学を出た年だったでしょう。その寺から、トラホームを病んでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女で - そういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりました ー そのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていてもほんとに気持ちがよかったと後でも申していたくらいでした。

但し、この鏡子夫人の回想では、「井上眼科の女」に会ったのは、「小石川の伝通院付近の法蔵院」時代(明治27年(1894)10月16日~)であり、子規宛て手紙の明治24年7月18日とは3年の開きがある。これは、鏡子夫人の記憶違いか、或いは明治27年頃までも通い続けていたということか。また、その美女の方も井上眼科にかなり長く通っていたことになる。

7月19日

自由党の北陸遊説。吉田鞆二郎・林包明が派出。19日福井入り、22日武生、26日敦賀と巡回。

武生での懇親会に、県会議員今村七平・河野彦三郎、郡会議員内田謙太郎、有志者丹尾頼馬・黒田道珍・春日甚右衛門・増田耕二郎・三田村甚十郎・松下豊吉・松村甚左衛門(才吉)・水野(内田)慶次郎・宇野猪子部・山崎悠ら50数人が出席。23年東京専門学校を卒業し帰郷した山田欽二(三田村甚三郎)が有志総代として登場、以後の福井県政界の震動を予言するもの。

7月21日

川上音二郎、書生演劇憲法8ヶ条発表。歌舞伎排撃~社会教育・貧民救済。

7月21日

稲葉寛(一葉の母・滝子が乳母をしていた稲葉鉱の夫)が一葉宅を訪れる。落ちぶれはて、人力卒夫になろうと思っていると語る。

7月23日

漱石、松露菴撰『俳諸故人五百題』(春・夏・秋・冬之部、二冊四巻)を読み、急に俳句を作りたくなり、

「馬の背で船漕ぎ出すや春の旅」

「行燈にいろはかきけり獨旅」

「親を待つ子のしたくなき秋の旅」

など計17句を詠む。

7月28日

内務省令「総て刑死者の賞揚哀悼することを得ず」。墓標に姓名、法号、族籍、年齢などのほかは一切の記入を禁じる。国事犯、テロリストなどの刑死者を英雄視することへの警告。

8月1日付「東朝」社説「内務大臣に忠告す」、社会感情・慣習を無視した内務官僚の高圧的な独善性を痛撃。2日、内相品川弥二郎は1週間の発行停止を命令。

8日、発行停止解除。すぐおひろめ屋が市中にチラシ数万枚を配るとともに、9日には社告「解停と拡張」を掲載、4ページ建てを6ページとして定価を据え置き、9日の1日だけ、終日、鉄道バスの無料サービスをすると告げて満都をアッといわせる。快晴の日曜日、新橋と上野を始発する60両は、四隅に「東京朝日新聞解停祝」と書いた高張りを押し立て、屋根の左右には「本日無ちん東京朝日新聞」と記した木札を掲げ、11万3千人の乗客を集めた、という。「商家の小僧などは車代にと与へられしお銭を氷店に遣い捨て己れは接待馬車に乗りて得意顔に帰るものあり・・・」と記事にある。

7月28日

漱石の兄嫁登世没(享年24)

「三兄直矩の二度目の妻、登世である。彼女は漱石と同年の二十五歳で、悪阻のために亡くなった。その追悼の句に、「君逝きて浮世に花はなかりけり」「鏡台の主の行衛や塵埃」などがある。喪失感に満ちた句である。彼女は賢くて、温かい人柄で、通学する義弟に明るく話しかけたり、弁当を持たせてくれたりしたそうだから、家中で一人だけ彼が親しんだ人物だっただろう。江藤淳『漱石とその時代』第一部では、「恋をしていたとすれば彼はうたがいもなく死んだ嫂に恋をしていたのである」と推測している。その理由としては、子規宛書簡に「そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共」や、彼女に「精魂」があるなら、「二世と契りし夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴(ほうふつ)たらんか」とあることを挙げているが、それが「三角関係の自覚」だったという確証はない。嫂は孤立している義弟に同情し、義弟はまた、放蕩者の兄が女遊びをし、それに堪えている妻に同情を寄せていたとも考えられるからである。義弟、漱石の小説で言えば、この二人の仲が、”Pity's akin to love”(『三四郎』の与次郎「訳」によれば、「可哀想だた惚れたって事よ」)なのか、あるいは『行人』の一郎・二郎兄弟と一郎の妻、お直の「三角関係」のように、一郎の「妄想」が作り出した幻想なのかも判然としない。」(岩波新書『夏目漱石』)

嫂死亡時の子規宛漱石書簡及び悼亡句と「行人」との関連について注目した最初の人は、小泉信三であった。彼は『読替雑記』「夏目漱石」(文芸春秋新社、一九四八年)の中で、モラリスト漱石の小説の「道ならぬ恋」のテーマが多い、就中、「行人」の中で弟と嫂との関係が微妙で、図らずも暴風雨のため余儀なく旅館で一夜を共に明かす場面や、家を出た弟の下宿を嫂が訪ねる場面は、架空によるものか、実体験によるものか、と疑問を呈した。そして、子規に嫂の死を報じて悲しみ、悼亡句一三句を披歴したこと(-八九一年八月三日付漱石書簡)との関連に注目した。

小泉の「憶測」に対して、江藤淳は「登世という名の嫂」(薪潮一九七〇年三月)、『漱石とその時代』第一部・第二部で登世という嫂との禁忌の恋が主張された。

登世と漱石の兄直矩が結婚した1888年4月、漱石は養家塩原家から実家夏目家に復縁した時期であった。水田家と夏目家との間に弟妹間の交流が始まり、漱石も芝愛宕町の水田家をしばしば訪れて、密かに「芋金」とあだ名されていたという。水田家には御家人くずれで言葉使いの丁寧なますという婆やがいて、「金さま、金さま。」と言って大の漱石贔屓で、漱石には料理に一品だけ余計に付けていたという。水田家では未だにますが「坊っちゃん」のきよのモデルだと信じているという。さらに、登世の病中漱石が嫂を抱いて二階への上り下りを助けて、濃やかに世話をしたことを伝えた(江藤淳「登世という名の嫂」) 。

7月下旬

7月下旬叉は8月上旬 漱石の二回目の富士登山


「七月下旬または八月上旬(日不詳)、中村是公・山川信次郎と共に冨土山に登る。(富士登山第二回め)御殿場登山道から登り、須走に出て大宮に着いたものと想像される。(第一回めと同じ)吉田口は、頂上に達するまでが楽であるが、当時、汽車は八王子停車場までしか開通していない。八王子から吉田口迄行くのに、汽車を利用することが出来ないとなると、吉田口は到底考えられない。丸木利陽写真館(芝区新桜田町十八番地)で、中村是公・山川信次郎と共に富士登山の服装で写真を撮る。」(荒正人、前掲書)


つづく



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